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2011年12月24日 (土)

主題 <信仰とみことば> 

聖書箇所 へブル人への手紙 4章 (2011年12月22日)

今日のみことば「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」 (2)

 1~10節には、神の安息について語られている。イスラエルの民が、四十年間の荒野での生活を経て、ヨシュアと共に約束の地に入り、安住を許された(ヨシュア21:43~45)。しかし、それは後に与えられる真の安住、神の与えて下さる安息の前味に過ぎず、ヨシュアも、イスラエルの民も、まだ、神の安息に入ることはできなかった(6~10)。
 天地万物の創造のわざを完成したときに、神は、創造のわざを休まれ、安息に入られた(創世2:1~3)。その後、人間は罪によって神との交わりを絶たれ、神の安息に入ることができない者となってしまった。しかし、神が語られたことを信じて神との交わりが回復され、神の民とされた人々は、やがて、万物が完成する新しい天と新しい地において、神の安息に入ることができるのである(1~5)。
 この神との交わりを回復させられていくのに重要なのは信仰なのである(2)。そして、これはいつの時代においても問われているのである。私たちは、信仰によって、神の安息に入るよう力を尽くして努め、落後する者が、一人もいないようにしなければならない (11)。
 そして、信じることにおいて、もう一つ重要なのは神のみことばである。荒野を旅したイスラエルの民も主のみことばを聞きつつも、忠実に、従順に聞き従わなかったことが荒野の40年の旅となりました。どうように、みことばをどのように聞き続けていくが問われるのである。神のことばは生きていて、力があり、最も鋭い両刃の剣よりも鋭く、私たちの心の奥深くまで切り込み、心のいろいろな考えやはかりごとを明らかにする。神の前で隠しとおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されている。私たちはこの神に対して、神が語られたことにどのように応答したかを弁明しなければならない(12、13)。
 私たちは、信仰の耳をもってみことばに聞き、主に従う者とならせて頂きたいと願います。