主題<祝福を失ったエサウ>
聖書箇所 創世記 27章 (2012年 3月17日)
今日のみことば「エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。」(38)
エサウは狩りをし獲物を持ち帰りイサクに貢献するも、ヘテ人の二人の女性を妻として迎えたことは、悩みの種になっていた(26:35)。母のリベカは弟ヤコブに兄エサウになりすまし、父イサクより祝福を受けるように勧める。しかし、その方法は偽りであり、正当とはとても言えない、欺きであった。結果的にイサクはエサウになりすましたヤコブを祝福された。
何も知らないで野から帰ってきたエサウはヤコブが自分に成りすまして、父イサクから祝福を受けてしまったことを知り、自分も祝福して欲しいと懇願するが、何一つ残ってないと告げられ、エサウは声をあげて泣いた(38)。
エサウはかつて長子の権利をヤコブに取られ、さらには今回のように自分になりすまし、父からの祝福を奪われるように取られてしまった。このことにより、エサウはヤコブに対し憎しみが生まれ、殺意を持つようになった。
ヤコブが人を欺いて祝福を受けようとしたことも問題であるが、エサウにも長子の権利を軽んじてしまったことも問題であったと言える。問題に問題が積み重なって、殺意が生まれる事態になった。それは、今日に現代においても人間関係のもつれ、問題が積み重なって、起こってくる憎しみからの殺人事件を良く見聞きするのと同じものがあることを感じさせられる。
そこで、何が重要なのかを見失い、あるいは取り違えてしまったことが悲劇をもたらしてしまうことがあることを思わされる。確認したいことは神から与えられるものの価値を再確認しなくてはならない。