主題 <わたしの心を自分の心とした>
聖書箇所 民数記 25章 (2012年 7月13日)
今日のみことば「ピネハスはわたしのねたみを自分のねたみとした。」(11)
2節に『娘たちは自分たちの神々にいけにえをささげるのに民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。』とあります。
天地の創造者なる主が、イスラエルの民を特別愛してくださったことは聖書が物語っている。その彼らが約束の地を目前にしながら、原住民の偶像バアルペオルを拝する娘たちの誘惑に落ち込んでしまいました。彼女たちには、清い生活を望むよりは欲望を満足させる方に重点がありましたから、当然のように堕落しました。イスラエルの人はその異教的な生活と共に、霊的に堕落してしまったのです。今日も多くの青年たちが、この世の中に引き回されて、彼女らの拝む神々について行く人は少なくありません。
こうした時、ピネハスは、神のためにねたみを表し、イスラエル人の長老と原住民の王の娘をさし貫いて、神の怒りをとどめたのです。こうした正しさ、神への忠実な熱心さを持ちたいと願います(13)。そして彼への祝福も見落としてはならない(12節)。今、神は私たちの世界を見てどうご覧になっているのだろうか。神の心を自分の心にする、ちょうどパウロの心そのものですと、オネシモを称賛されたように(ピレモンへの手紙)。
人々の堕落した状況の中に立って、私たちが福音によって変わり、その変えられた生き方という証しによって、人々を堕落から引き止めねばならないのです。ピネハスのような剣ではなく、神にある信仰生活によって、主への熱心さであかしをするのです。全生活で神の栄光をあがめるようにしたい。
<祈り>主よ。わたしの生活があなたの愛を、きよさを表すように。