主題 <霊的な指導を必要としている>
聖書箇所 士師記 17章 (2012年10月 7日)
今日のみことば「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」 (6)
17章からはイスラエルの民がいかに混乱していたかが記されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめい自分の目に正しいと見えることを行っていた」とあり(6)、ここには霊的な指導者を欠き、自己中心的な価値観が支配している状況が伺える。
ミカは母親の銀を盗んだ。良心が痛んだのかそれを告白した。母は、主の律法によって「盗み」の罪を、厳しく悔改めを迫るよりも、祝福の祈りをした(2)。ここにも、自己中心的な価値観が見られる。 悔い改めを迫ることのなかった故に、ミカが十戒の教えに反する、彫像、鋳像を造り、さらに、祭司服エポデと、偶像として拝まれてしまうことのあるテラフイムを作った。また勝手に祭司を任命できないはずなのに、息子を祭司にまでしてしまった(5)。また、ミカは、レビ人を自分の家の祭司にするという、過ちも犯した(10)。
今日でも、神を恐れるよりも、人を恐れる者となっていないだろうか。自分の目に正しいと思うことを行なっていればよいと考えていた。このように、まさに当時のイスラエルは、神から遣わされた霊的指導者がいない状態で、無秩序な、無法状態にあった。そして、ミカが「銀」に執着したように(2、10)、経済活動、財力に大きな関心を持って、さらには名誉欲、権力に目がくらまされていたことを思うとき、現代の私たちの社会もまさに同様ではないかと思う。
ミカの生い立ちを考えるとき、戒めるべきときに戒めなかった母の責任も大きい。罪を犯しても、その罪を叱らない母であり、息子を充分に訓練せず、罪を残したままにしてしまう母であった。
次世代につないで行く親が信仰によって、主のみ前に祈りつつ謙遜に歩もうとすることを忘れてはならないことを教えてくれている。