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2013年1月16日 (水)

主題 <主に伺い求めたダビデ>

聖書箇所 サムエル記第一 30章 (2012年11月14日)

今日のみことば「ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」」(8)
アマレク人によってツィケラグが襲われ、ダビデや部下たちの家族が連れさらわれる事件が起こった。ダビデは襲った者たちを追うべきかを主に伺い求めた(8)。主の導きのうちに、アマレク人の仕業であることをつきとめ、ついにアマレク人の陣営に追いついた。 
ダビデとその部下たちは、勝利に浮かれて、お祭り騒ぎをしていたアマレク人の陣営を急襲し、一昼夜にわたって徹底的に討ち(16、17)、無事、妻子や戦利品など、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した(18、19)。
 ベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者たちには、妻子は返すにしても、分捕り物を分けてやるわけにはいかないと主張する「意地の悪い、よこしまな者たち」がいたが、ダビデは、アマレク人の略奪隊に勝つことができたのも、分捕り物を得ることができたのも、主がそうしてくださったからなのだから、戦った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じでなければならないとし、「これをイスラエルのおきてとし、定めとした」(22125)。主から受けた恵みは、分かち合われるべきだというのが、ダビデの考えであろう。
 ダビデは、「友人であるユダの長老たち」、ユダ南部の「ダビデとその部下たちがさまよい歩いたすべての場所の人々」に、分捕り物のいくらかを贈り物として送った(26、31)。当時、彼らから受けた恩を心に留め、感謝の気持ちを表したかったのであろう。
 このように、町が焼き払われ、妻子が連れ去られるという打ちのめされるような危機的経験は、ダビデの指導者としての信仰によって、一転して主の恵みの経験となった。