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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <この谷にみぞを掘れ>

聖書箇所 列王記第二   3章  (2013年 1月 3日)

今日のみことば「主はこう仰せられる。「この谷にみぞを掘れ、みぞを掘れ。」」(16)

 人生は常に新しい問題と祈りに向かわされるのです。その都度、へりくだって神の導きを求めることを忘れたなら、必ず大きな困難と主を傷つける結果になることを学んでおきたい。
 さて、イスラエルの王に新たな問題が出てきた。モアブの謀反を片付けなくてはならない。そこで、預言者エリヤが神の声を語る。それは、谷にみぞを掘れと二度も語られていることです。みぞの大きなものが谷と言えるでしょうが、そこにあえてみぞを掘って水を流すようにして、何の利益がありましょうか。平地にみぞを掘るなら理解できますが。
 現代は、合理主義が教育され、何でも合理的に考えて、行動しようとする。しかし、この現代でも、神の約束を信じて自分の心に謙遜な谷に、さらに自己を砕くみぞを掘るという服従をするなら、神は水を満たし、敵を撹乱させ、奇跡を行われる。
旧約聖書の物語の中に、新約聖書の大きな霊的な真理が含まれている。

<祈り>主よ。心のみぞをもっと深い溝を掘り下げ、恵みを通す器に。

主題 <求めなさい>

聖書箇所 列王記第二   2章  (2013年 1月 2日)

今日のみことば「『…求めなさい。』すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9)

 この世の野心家は沢山いるけれども、一方で信仰の世界での清められた野心、大志を抱く者が現れなくてはならないのです。「わがめぐみ汝に足れり。」という謙遜な深い信仰告白もその面では大切である。しかし、神はさらに大いなる恵みを賜わると言われているのです。へりくだる者でありつつ神のためにビジョンを求める者になれ、とすすめている。
 エリシャは、エリヤにスッポンのように食いついて離れない。
ギルガル(1節)から、ベテルヘ(2節)、エリコへ(4節)、ヨルダンへ(6節)と固執するように神の祝福を求めている。このような霊的渇望こそ、よりよき者へのステップになってゆくと思えるのです。
 この真のきよめ、聖霊のみたし、恵まれることを求めないとするならば、まもなく我らの求めが人間的な求めに堕してしまうことであろう。
 神に大事を求めよう。求めの切なるによって答えた悪しき裁判官のように、執拗な熱心な祈りに、神様は渇いておられる。
 先生であるエリヤ、偉大なイスラエルの父、イスラエルの戦車と騎兵に匹敵するエリヤ、この自分の師の2倍の霊を求めたエリシャは、おとなしい反面、激しい内なるものを秘めていることに気付かせられる。

<祈り>主よ。偉大な神の人の二倍の霊を与えてください。

主題 <ティシュベ人エリヤ>

聖書箇所 列王記第二   1章  (2013年 1月 1日)

今日のみことば「アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ。」といった。」(8)

 神が立てられた人の立場は、神の召命によるのです。神が特別に選び、ご自分のご用に用いるために立たせて下さるのです。
 神の選ばれた人はいつ、どんな場所においても用いようとされる時に、神のメッセージを携えて語るのです。たとえどんなに過酷なさばきの宣告でも、明白に語るべきなのである。
現代は使徒のパウロの時代と同じように、福音を語るのに水増ししたり、会衆の気に入るメッセージのみを語る時代でもあるかも知れないが、神の預言者はありのままの神の言葉を、厳しいけれどもさばきを語るのです。
 私たちも神のみことばに対してあいまいな態度で告白を続けるのはやめ、大胆にいつものように、今も信じた通りに告白するものとなろう。
 預言者はどんな人かと様子をたずねると、すぐに、「それはティシュベ人エリヤだ。」と王アハズヤみずから語ったというのです。私たちの人生と信仰が神の人を証する器とされたいのです。神の人の召命はまた、人からの証しが加えられることも事実でありましょう。

<祈り>主よ。あなたのしもべであることをいつも証しさせてください。

主題 <この世の人の関心>

聖書箇所 列王記第一  22章  (2012年12月31日)

今日のみことば「ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王の所に下ってくると」(2)

 キリスト者は、この世と決定的な分離をしなくてはならないという立場に置かれ、決断しなくてはならない経験をするでしょう。なぜなら、この世は人を罪と滅びに誘引するからです。目を覚ましていないと再びこの世に引きずり込まれる可能性があります。
 ヨシャパテは善王であり、立派なことを完成したが、アハブと友交を結んだことは大きな躓きであった。彼は悪いアハブ王と戦争を共にし、わが子ヨタムの嫁にアハブの娘アタリヤを選び(I歴代誌18;1)、子孫と王国にわざわいをもたらしたのです(Ⅱ列王記8、11章)。
 ヨシャパテは戦争に行くことに自信がなく、預言者にたずね、最後にミカヤにやめるように注意されるが、アハブに断り切れない。また、戦争のさなかにも自分を表立った王にされ、アハブは変装して戦場におもむく。ヨシャパテは自分の身が危うくなると大声でわめき、いかにも王らしからぬ立ちふるまいといえる。しかし、神は不思議にも、「ひとりの兵士が弓を引くと、…射を抜いた。」(34節)とさばかれたのです。
 クリスチャンもこの世の人の関心を引くあまりに、この世に下ってしまうことを恐れよう。決して、この世のほうがクリスチャンに近付き、上ってくることがないことをしっかりと覚えて、身を慎み歩もう。

<祈り>主よ。目を覚まして、滅びから免れるように導いてください。