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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <主のみこころに生きる>

聖書箇所 列王記第二  13章  (2013年 1月13日)

今日のみことば「「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」 (18)  

 昔から今日まで、成功を収めた人物はみな努力家であるとともに、みな熱心な人たちだ。だから、天才は努力の賜物だといわれるほどだ。
 預言者エリヤの最後の預言の奉仕に、ヨアシュへの祝福の預言をする。矢を取って打てといわれた時、意味がわからなかった。しかし、わからずとも熱心な人は預言者のことばに多くのしぐさで応じられたろう。
 彼はある意味で常識の人物だった。もし矢でたたくことが戦いの勝利を意味すると始めから言ってくれればそのようにしたのにと、現代の人は考えるだろう。しかし、神は常にそのわけを示さず、その人の熱心さ、まごごろ、熱誠をためされる。
 日々の私たちの歩みは、神の前にその同じ試しがあることを考えよう。小事に忠実なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠実な者は大事にも不忠なりです。主の前に、人間的な計算を越えて、熱心な生き方を絶えず励むことができますようにと祈りましょう。

<祈り>主よ。いつも計算づくの信仰であったり、常識的な生き方によって歩むのでなく、主のみこころに生きられますように。

主題 <クリスチャンの影響力>

聖書箇所 列王記第二  12章  (2013年 1月12日)

今日のみことば「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行なった。」(2)

 クリスチャンの影響力を考えてみよう。今日の日本の政治や宗教、経済、道徳への影響力はわずかであることに戦慄を覚える。なぜなら、キリスト教の光が届かない所に、不正、不道徳、もうけすぎ、堕落が必ずあるからです。
 一祭司エホヤダが、霊的な指導を王と国家になすことのできたような時代は日本に来ないのであろうか。神はいつの時代にも、献げきった器を用いて、国家の衰退を食い止める働きをしてきた。あの沈みかけた大英帝国に再び栄光をあらしめたのは、ジョン・ウェスレーたちのメソジスト運動であった。彼らが国家の道徳となり、英国労働党を生み、あらゆる点にまで、ことに道徳的覚醒は著しいものであった。
 しかし残念なことに、ヨアシュは、エホヤダが去った後はマイペースで、ついに悲惨な死に終わる。
 我らは旧約を鏡とし、前輪の轍を踏むことなきよう学びたい。

<祈り>主よ。まず、私が主の前に徹する信仰生活を歩ませてください。そして、周囲へのあたたかな、正しい霊性を及ぼせますように。

主題 <神に仕える夫婦>

聖書箇所 列王記第二  11章  (2013年 1月11日)

今日のみことば「しかし、ヨラムの娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、…隠した。」(12)  

 迫害の中にも、神の慰めを与える人物がいることは幸いである。
 アタルヤは、善王ヨシャパテのもとに嫁したイゼベルとアハブの娘です。アタルヤの悪は、イスラエル王家とユダの国の大きな災禍となり、人間による荒廃に及んだのです。たった一人の悪も、その背後にある社会的原因を無視できない。
 しかし、ここに、どんな社会的困難をも恐れずに、戦う夫婦がいる。
それは、エホヤダとエホシェバの王族の祭司夫婦です。国家を憂い、将来のために、ヨアシュを危機のために助け出し、それから丸7年間、隠すことと共に、アルタヤの悪政にも沈黙してすごします。
 二人は一人に勝る。神のみこころを求める夫婦は、何と幸いであろう。彼等の献身的奉仕が、滅亡寸前のユダを宗教改革に導き、危機から一時守られます。バアルの偶像は倒され、一応一掃されます。
 神に仕える夫婦は、この世の反対、苦しみに共に戦う特権があります。

<祈り>主よ。どんな自分の置かれている状況が困難でも、この夫婦のような強い信仰、祈りの中の忍耐をお与えください。アーメン

主題 <熱心さでけでなく> 

聖書箇所 列王記第二  10章  (2013年 1月10日)

今日のみことば「しかし、エフーは、…主の律法に歩もうと心がけず、…その頃、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。」(31-32)

 エフーは、実に熱心な男であった。16節に「私の主に対する熱心さを見なさい。」とあるが、目を見張るばかりである。
 けれども、熱心さが本当の熱心さでなく、肉的な、わがままな熱心さであったことがわかる。たいてい、恵まれていない人、肉的な人というものは、自分の熱心さを見せたがり、自分の熱心を誇るものです。
 たしかにエフーは、ある点ではみこころにかなうことを行なったといえる。しかし、大切な点で主の律法に歩もうとしないのです。自分本位の、わがままな服従といえる。
 人間は人の前に熱心でありつつ、なおさばきを受けることがある。
 全部の思いをキリストに明け渡した服従、大事でなく小事でも委ねた服従こそ、神が求められる信仰者である。きよめられる迄のクリスチャンの姿ではないだろうか。

<祈り>主よ。あなたの前には、裸同然です。いつわりの熱心や、人に見せるための偽善から解放してください。

主題 <神のことばの成就>

聖書箇所 列王記第二   9章  (2013年 1月 9日)

今日のみことば「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。」(36)

『これは、主が……語られたことばのとおりだ。』と、神のことばの成就がこれ程鮮やかに示されたのを見る時、私たちの信仰が問われてくるように思うのです。
 神は聖書の中に完全な啓示を人間に与えて、預言の成就をはっきりと示している。この神のことばに対し、私たちの信仰は、あいまいな態度をとり続けることは許されない。主の言葉に従うか、否かのどちらかである。聖書の学びは、そのまま今日の私たちの生き方へと迫ります。
 神のことばは生きていて、力あり、両刃の剣のように鋭く、精神を、霊性を見分けてゆく。どんなに今見える所では、神のことばを無視できるように見えても、神の言葉のさばきが必ず実現するのです。
 悪婦イゼベルは、自分勝手にやりたい放題をしてきた。しかし、彼女の心はエリヤのイゼベルへの預言によって苦しんだに違いない。
 幸福は外面では測れない。ついに神のしもべの言葉がその通りに成就する時、周囲も、王も、神の人のことばに頭を下げたのです。

<祈り>主よ。あなたの言葉を成就する言葉として、さらに裁きの言葉として、信じる、明け渡す、期待する、恐れる者にして下さい。

主題 <神を第一としたホーム> 

聖書箇所 列王記第二   8章  (2013年 1月 8日)

今日のみことば「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪を行なったが、」(18)

 家庭は人生の基礎である。子供はこの家庭という苗床から成長する。両親が信仰ある敬虔な、神を第一としたホームから、ほとんど社会を毒する子供は出ない。離婚する夫婦の比率は、毎日家庭礼拝を守るクリスチャンホームの場合は普通の1/100 以下であると報告されている。
 アハブは異邦の魅力的な偶像教徒イゼベルによって、害毒がイスラエル王国に広まり、隣国のユダ王国にも彼らの娘が結婚して悪に傾いてしまう。結婚は、大切な家庭を美しくもし、汚れたものにもしてしまう。
 そして、その子々孫々に至るまで、悪の系図は引きつがれることを思う時、家庭を守ることがいかに大切なことか知ることができる。父親は仕事ばかり、母親は教育ママでは良い家庭、将来を担う信仰の子供が育つような子孫の繁栄はおぼつかなくなります。家庭を聖く、キリストの恵みに満ちるように祈る責任があります。

<祈り>主よ。神さまを第一とする家庭として下さい。

主題 <きょうは、良い知らせの日なのに>

聖書箇所 列王記第二   7章  (2013年1月 7日)

今日のみことば「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。」(9)

  神に背いたイスラエルが大きな試練に直面していたのです。アラム、すなわち北方のスリヤが圧倒します。生活は徹底的に困窮しています。
ここに人々から拒絶されていた4人のツァーラト(新改訳2版訳 らい病人)たちは、死ぬならそれでよしと敵陣のアラムの陣営へ行こうと決心する。もし殺されるなら、そのときは死ぬまでのことだと(4節)。
このらい病人の苦しみは、救われねばならないと行き詰まった私たちの姿です。しかし、不思議が起こったのです。アラムがいのちからがら逃げ去った後でした。主がふれてくださる、主が目を留めてくださるとはこういう事です。
この出来事を目の当たりにした4人は、「きょうは良い日なのに、ためらっている」と。そして「さあ、知らせよう」と自分たちを迫害してきた人々に救いを知らせるのです。彼らの生き方が、福音宣教をする者へのすばらしい模範を示しています。ツァーラトになぞらえる恐ろしい罪は、きよめられるまでゆき詰まりの中に日毎に生活していることになる。罪の払う価が死の報酬だからです。
 自分たちだけがたくさんのぶんどり物を手にするだけではなく、国民全体への救いの知らせを伝えるものになりましょう。
 今日という一日は、神様の大きな恵みに生かされていることをあかしする一日として、良い知らせを伝える歩みを始めよう。キリストの愛にこたえる歩みに前進しよう。

<祈り>主よ。救われた生涯なのに、さらに自分を豊かにしようとする愚かさに気付かせてください。

主題 <恐れるな>

聖書箇所 列王記第二   6章  (2013年 1月 6日)

今日のみことば「恐れるな。私たちとともにいるものは、彼らとともにいる者より多いのだから。」 (16)  

 私たちは目に見える恐ればかりでなく、様々な心配がある。それはある意味で自分の力でどうにもならない無力感や焦燥感からくるものです。
 エリシャを囲む大軍を前に召使は恐れて声もなく立ちすくむ。しかし、エリシャは生きた神の臨在の中に、神の護衛を確信していた。
 詩篇34篇7節には、「主の使いは主を恐れるものの回りに陣を張り、彼らを助け出される。」と約束されています。
 第一ヨハネ4章4節には、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちおられる方が、この世のうちにいる、あのものよりも力があるからです。」とあります。
 エリシャは祈る。若者の目を開きたまえと。主よ。私たちの目を開き、私たちの中に、私たちの周囲に陣営をつらねて、昼は雲、夜は火の柱をもって守られる神の守りを見させてくださいと。エリシャは祈っている中に、神を体験していることを知る時、私たちも励んで祈りたい。

<祈り>主よ。きょうもふさわしい重荷を与えてくださり感謝します。しかも、あなたが一緒にいてくださることを感謝します。

主題 <みことばに従う>

聖書箇所 列王記第二   5章  (2013年 1月 5日)

今日のみことば「神の人エリシャは、「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」(8)

 神に用いられる人とはどんなタイプの人でしょうか。エリシャは強い確信を持った人でした。世の権力者、富者におもねる弱い男でなく、王や富者をも恐れない信仰の人でした。
 スリヤの将軍ナアマンにらい病がいやされる方法を単純に示しました。難病をいやすのに、もったいぶった儀式(11節)や、好みの方法でなく(12節)、単純に、みことばに従うことを示したのです。彼は裸になり、七度ヨルダン川に沈み、みことばに従った時、きよめられます。
福音を伝える神の人も、単純にイエス・キリストの血汐による清めを語るものでありたい。
 いやされたナアマンは、沢山の礼を届けるが、神の人エリシャは固辞して受けない。この清廉な生き方こそ、神の人にふさわしい。確信に満ち、人を恐れず、物質にも目もくれず、神に従う人です。
Iテモテ3章に、神の人の生き方が記されています。読んでください。
主イエス・キリストは「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたをどうして信じることができますか。」(ヨハネ福音書5章44節)と語られている。

<祈り>神の言葉を語る人を尊敬し、自分も神の言葉に歩めますよう。

主題 <そのすべての器に油を注ぎなさい>

聖書箇所 列王記第二   4章  (2013年 1月 4日)

今日のみことば「そのすべての器に油を注ぎなさい。」(4)  

 神は神の人エリヤを用いて、油をみたす奇蹟を行なわれた。こういう奇蹟はむやみに行なわれるものではなく、神に仕えた預言者の死により、その家族への配慮として与えられたのである。
 神様を第一とした生涯は、その死後でさえ、忘れられずに神が十分な備えを与えられるのです。神に従う生涯に、強い確信と喜びをもって歩まれますようにと祈ります。
 持ってきた空の器に油が尽きないのは、いくつかの教訓があろう。
 第一に、どんな器でも、さし出せばみたされること。私たちがどんなに小さな器でも、神にさし出せば精霊でみたされる。
 第二に、みたされるためには、空の器にならなくてはいけない。この世のことや自我が心を満たしていては霊的に満たされることは決してできない。
 第三に、わずかの油の入ったつぼを注げば注ぐほど、増し与えられ、   次々に器をみたすことができる。
 私たちの信仰の油も、わずかに見えて無限の霊的祝福を与えるものを持っている。ただ、油を注ぐことを忘れてないだろうか。

<祈り>主よ。この小さな私の生涯に、あなたの油を注いで下さい。