主題 <主の御前に歩む誠実さ>
聖書箇所 詩篇 26篇 (2013年7月 9日)
今日のみことば「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」(1)
1~7節は、誠実を主張しつつ、弁護を求める祈りであり、8~12節は助けを求める祈りである。ここでは特に前半の祈りに注目してみよう。
25篇においては、ダビデは大胆に自分の罪や咎を告白した(7、11)。ここでは逆に、彼がいかに誠実に歩んだかを訴えている。彼の人生には、多くの失敗があったにもかかわらず、「私が誠実に歩み」とダビデは言っている。この誠実という言葉は、「完全」、「非難されるところのない」等という意味があるという。旧約聖書に記されたダビデの数々の罪を知る人々は、決してこの神への告白に同意できないだろう。しかし、聖書はこうも記している。「ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行なった」(I列王記14:8)。彼には確かに欠点があったが、全体としては、いつも神に従うことを求めていた。
彼はここで、「弁護してください」と懇願もしている(1)。それ故に、自分で自分の義を主張しているのではないし、「誠実」ということと「何の失敗もなかった」ということを混同しているのではない。
彼は、「あなたの恵みが私の目の前にあり」とも告白している(3)。恵みとは本来、「受けるに値しない者に惜しみなく与えられる神の好意」であり、自分が神の愛にふさわしいと言う者は受けることができない。また、「私は手を洗ってきよくし」というとき(6)、それは自分が汚れたものであり、きよくされなければならないという自覚を持っていたことを示している。
私たちが自分の罪や失敗を、神の御前に告白し、赦しを求めつつ歩むなら、それこそが、誠実な歩みなのである。