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2013年7月 3日 (水)

主題 <ダビデと結ばれた契約の故に>

聖書箇所 歴代誌第二   21章  (2013年3月16日)

今日のみことば「主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。」(7)

 ヨシャパテ王の死後、その長男ヨラムが王となった。ヨラムは、南王国の王らしからぬ悪行をする。兄弟を皆、殺し、北イスラエルの指導者たちまでも殺す(4)。北イスラエルの、主に対する背きは明確だったので、その懲らしめのようにも見えるが、恐らくここでは、暴君としてのヨラムが強調されているのだろう。南ユダに接していた諸国は、その支配から逃れた。そうなったのは、ヨラムが「主を捨て去った」からであった(10)。また、王の悪行の理由は、北イスラエルの悪王アハブの娘を妻としたことであった(6)。ヨラムは、ダビデ王の血筋にある者だった。しかしその信仰を受け継ぐことなく、アハブの悪い例を見習い、預言者エリヤの厳しい警告のとおり、激しい苦しみの後に寂しい死を迎えたのである(18、19)。この歴代誌の記事を読むと、主の、罪に対する厳しさを思わずにいられない。ヨラムの悪行について、列王記には、ほとんど書かれていない。民の心に、神に背く愚かさを改めて刻み込むために、このような記録が残されているのだろう。
 しかし、この箇所の中心は、厳しさだけではない。神は愚かな王と民の時代にあっても、あわれみ豊かなお方であった。主は「ダビデと結ばれた契約のゆえに」彼らを滅ぼさなかった(7)。主は、与えられた契約のゆえに民をあわれまれた。主が与える契約は、あわれみに満ちている。そのあわれみの中にヨラムに続く王国は存続して行くのだった。
 主のみことばの約束は今日の私たちにも恵みの約束として、キリストによる救いへと続いている。この恵みを改めて覚えて感謝しよう。

主題 <神の戦い>

聖書箇所 歴代誌第二   20章  (2013年3月15日)

今日のみことば「彼は言った。「主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」(15)  

モアブ、アモン連合軍が迫ってくるという危機に対して、ヨシャパテはひたすらに主に助けを求めて祈った。
預言者ヤハジエルに主の霊が下り、この戦いは神の戦いであるとの預言を得て励ましを得る(15)。
ヤハジエルの預言を受けてからの、ヨシャパテ王の応答は信仰者の模範である。彼はすぐには戦闘準備に入らず、地にひれ伏し主を礼拝した(18)。更に、翌朝早く出陣はしたが、兵士たちの前に聖歌隊(「歌う者たち」、「賛美する者たち」)を置き、彼らにまず歌わせた(21)。彼らの賛美は「喜びの声」でもあった(22)。王に率いられた兵士たちは、喜びをもって賛美し、戦いに臨もうとしていた。ここに、戦士というより礼拝者の姿を見る。預言に励まされたヨシャパテは、兵士たちを励ます(20)。「忠誠を示しなさい」とは、「信仰を保ちなさい」とも訳される。神への信頼を揺るがさないよう、そして「預言者(複数形。預言者のことばとも理解できる)を信じ、勝利を得なさい」と勧める。これまでの預言が、絶えず神の恵みを明示していたことを思い起こすよう励ましたのだろう。主による伏兵の攻撃に始まり(22)、最終的には連合車内の同士討ちにより、南ユダは戦わずに勝利を得たのだった。
 しかしヨシャパテは、晩年に生き方が変わる(33以降)。その記録が象徴的に示しているように、その後、彼は北王国のアハズヤ王と同盟を結ぶ(35)。神に従うのではなく人間的な思惑に従ってしまったことを象徴している行動だった。生涯主に仕えていくという貫かれた信仰者として歩みたい。

主題 <主への恐れ> 

聖書箇所 歴代誌第二  19章   (2013年3月14日)

今日のみことば「今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行ないなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」(7)

戦場から帰還したヨシャパテに、先見者エフーが預言するが、この預言には、彼へのプラスとマイナス両方の評価がある(1~2)。王が、悪王アハブと結託したのは悪い点であったが、滅びることはないという。「主を求める」という信仰は(3)、ヨシャパテの良い点であり、彼は、民を整えるために用いられた。
 彼はかつての事業(17章参照)同様に、王国全体に対して働きかける。かつて各地にみことばの教師を遣わしたが、今度は町々にさばきつかさたちをたてる(5、8)。町で起こる人々の間の紛争は様々である(10)。現付的に考えれば、刑事事件と民事事件あるいは宗教的な事件もあったのだろう。人が見ると、諸事件は人間対人間の問題である。しかし、ヨシャパテは、「あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです」と(6)で問題解決は、人ではなく神のためにするものであり、そのさばきには主ご自身が共におられるのだと言う。彼は王として、民がみことばに聴き、みことばが身に着いた生き方ができるよう、さばきつかさを遣わしたのだろう。
 7節ではさらに、さばきを忠実に行うよう勧めることばと共に「主への恐れがあなたがたにあるように」と加える(9)。「主への恐れ」は、人々ではなく神の権威を認める態度から生じる(17:10参照)。7節のことばは、神の民が、神の権威のもとで社会生活を営むように勧めることばとして理解できる。本章の内容は列王記には記録されていない。これらの勧めに従わず、ひいては主に従わない結果、国が敗れて捕囚の経験をした民が、この勧めを教訓として、歴代誌に明確に記したのであろう。

主題 <主のみことばが第一>

聖書箇所 歴代誌第二  18章   (2013年3月13日)

今日のみことば「すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」(18)

南ユダの王ヨシャパテは神のみことばを求めていく王であった。一方、北イスラエルの王アハブは400人もの預言者を携えていく王であったが、彼らは王の意向にそうことばかりを言う真の預言者とは言えなかった。
そのような中で、預言者ミカヤは、アハブ王が喜ばない預言を語る預言者であった。ミカヤは神のことばを明確に伝えることを使命としていた(13)。彼は、「全イスラエルが散らされ」ることをアハブに伝える(16)。これは王がいなくなり、民が散らされ、危険にさらされることを意味する。さらにミカヤは、偽りの霊によってアハブは惑わされているのだと預言した(18-22)。特に18節は、短いが重要である。主が天の御座におられ、すべてを支配されていることは、神の民が、度々告白する内容である。ミカヤは、王たちの争いをはるかに超えて、主がおられることを語っている。これは、アハブがヨシャパテを陥れようとすることや、偽りの預言者によるアハブヘの惑わしの上に、神の主権があることを示している。
 ミカヤの預言によって警告されていたが、アハブ王とヨシャパテ王は戦いに出る。アハブは、戦場においてヨシャパテに王服を着させる(29)。ヨシャパテは敵の標的になりやすくなった。しかし、そこで死んだのはアハブであり、敵に囲まれながらも助かったのはヨシャパテだった。ヨシャパテは主に叫び求め、助けが与えられた(31)。
 ヨシャパテは人間的な弱さがあったが、その弱さを超えて、主のご支配のうちに、無事に帰還する(19:1)。
 神のみことばに聞き、従った者の幸いを見るところでる。

主題 <神のみことばによる整え> 

聖書箇所 歴代誌第二  17章   (2013年3月12日)

今日のみことば「それから、彼はその治世の第三年に、彼のつかさたち、すなわち、ベン・ハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタヌエル、ミカヤなどを遣わし、ユダの町々で教えさせた。」(7)

ヨシャパテ王は、「ダビデの最初の道」と書かれ(3)、ダビデの生涯の初めの部分であり、後半ではないことが強調されている。主を第一に求めること、そして自らの力を過信しないことが重要だと言われている。
 主に従う王を、主ご自身が強めて王位を確立させてくださった。ヨシャパテには富と誉れが豊かに与えられた(5)。富が増すことで、神への信頼が揺らいでしまう王たちもいたが、ヨシャパテは富が増しても、主に対する信頼を変えることなく、ますます主の道に励んだ(6)。富をくださるお方を覚え、主のしもべとしての自覚を持ち、王の務めに励んだことがわかる。
 ヨシャパテが続いて行なったことは、他の王と比較し格別に注目すべき事業である。それは、各地でみことばを教えたことである(7-9)。これは彼の治世の三年目だった(7)。治世の初めに、神の民がみことばによって整えられるための配慮をしたのである。彼の教育的事業の特徴は、いろいろな立場の人物がみことばを教えるために、各地へ出て行った点にある。
 当時の民の間で、みことばが語られたように、現代の私たち信仰者にも神のみことばによって整えられていかなくてはならない。神のみことばが語られ続けていくこと、この奉仕者たちのためにも祈りましょう。

主題 <主と全く一つになる心>

聖書箇所 歴代誌第二  16章   (2013年3月11日)

今日のみことば「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」(9)

南ユダに対し、北イスラエルの王バシャは妨害行為としてラマを要塞化する(1)。そのような攻撃に対して、アサは北王国の、さらに北に位置していたアラムと同盟を結び、対処する(2、3)。この作戦は非常に良い結果をもたらす。アサは宝物をアラムの王に用意し(2)、それが受け入れられ、アラムは北王国との同盟を破棄し、その町々を打ち(4)、そのため北イスラエルは退散する(5)。アサは、北イスラエルが残した資材を利用し、ゲバとミツパという町を防御の町として建設できた(6)。この時点では、アサは一連の試練を乗り越えたかのように見えた。
 しかし、その出来事の直後、予見者ハナニがアサのもとに来て警告する。その指摘は、アラムは同盟を結ぶ相手でなく、南ユダの手の中にあるべきだったというものであり(7)、主は、心が主ご自身と一つとなっている者に御力をあらわすというものであった(9)。「その心がご自分と全く一つとなっている人々に…」は、以前のアサの信仰そのものだった(15:17参照)。しかし、この時には、彼はそうではなかった。アラムの王に渡した金銀は、かつて聖別し神殿におさめたものだった(2)。アサは神の宝物を他国の王に渡してしまった。アサは一時の勝利のために大切な拠り所とするべき主を見失ってしまった。
 私たちは主の心と全く一つとなるところにすべての最善があることを見失わない歩みをしたいと思います。

主題 <神に受け入れられる者として>

聖書箇所 歴代誌第二   15章  (2013年3月10日)

今日のみことば「ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」 (15)  

列王記には、本章の出来事についての記録はほとんどない。しかし、ここにおいて、アサ王と民とが神の前になしたことがらは、決して小さいものではない。預言者アザルヤは、重要なメッセージを王と民とに伝えた。その中心は、「主を求める」ことだった(2、4)。それは14章でもたびたび語られ(14:4,7,11等)、歴代誌全体のキーワードの一つと言える。預言に力づけられ、アサは北王国にまで宗教改革の範囲を広げる(8、9)。レハブアム王時代と同様、信仰のゆえに、アサのもとへ来た者もいた(9)。アサは可能な限り偶像を除き、北にまでその影響を与えた。
 多くのいけにえをささげ、喜びをもって誓いを立てたことは、父祖ダビデやソロモンの時代と同じであった(15)。王をはじめ神の民は、主を求めて歩むことを明確にすることを、喜んだ。15節は、この出来事の中心を示している。「ただ一筋に」という語は、レビ記に出てくる(神に)「受け入れられるように」という語と、原語では同じである(レビ22:29)。主をただ一筋に求めるということは、単に主に願い事をぶつけることではない。自らが、主に受け入れられるにふさわしくなることを求めることである。神の民は、国が整えられ、経済が盛んになることを求める以前に、彼ら白身が神に受け入れられる者となることを、神の助けによってなされるように祈った。
 私たちにも日常的なさまざま祈りの課題があるであろう。でも、まずそれらを祈る前に、何はさておき、主の前に自らが受け入れられるふさわしく整えて頂けるように祈っていきたいと思います。

主題 <主により頼む祈りによって> 

聖書箇所 歴代誌第二   14章  (2013年3月 9日)

今日のみことば「アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。」(11)

 アサ王が即位してからのイスラエルには、「平安」があった(1、6等)。安定の要因は、アサがまず偶像を取り除いたことによる(3)。王の信仰の姿勢は、王のもとにある民の間にも広がった(4、5)。最初に神に対する信仰のあり方を整えて後、王と民は町々の軍備を進めていく(7)。南ユダは繁栄するが、それはアサが行った事業の順番に、ポイントがあるのだろう。信仰という彼らの根幹の改革をまず行い、そして他国に対する軍備を整えた点から、アサの中に信仰を優先する決意が明確だったことがわかる。
 そのような信仰の王アサにも、避けることのできないクシュ人(エチオピヤ人)との戦いがあった。彼らには、南ユダの二倍近い軍事力があった(8、9)。困難の中で、アサは主に対して叫び祈った(11)。彼の祈りは、主に対して、またクシュ人に対して、自らの小ささを認め、主に対するへりくだりと信頼によって生きるという姿勢が表れている祈りであった。神の民の戦いは、信仰者白身の力で戦うものではなく、主ご自身が戦う戦いである(12、13)。アサは主との交わりを持つ者として戦い、主の勝利にあずかった。
 アサは主との深い交わりと祈りの中で前進して行ったことを覚え、私たちも主との交わりを中心とした信仰者として歩むことが出来るように祈っていきましょう。

主題 <信仰によって引き継がれるもの>

聖書箇所 歴代誌第二   13章  (2013年3月 8日)

今日のみことば「しかし、私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった。また、アロンの子らである祭司たちが主に仕えており、レビ人が仕事をしている。」(10)  
 列王記においては、アビヤは良い王ではなかったと言われている(I列王15:1-3のアビヤム)。しかし歴代誌には、一時期かもしれないが、彼が信仰者としての姿が記されている。彼の母についても、列王記とは異なる記述がある(2)。ミカヤ(「主のようなものはだれか」の意)や、ウリエル(「神は私の光」の意)という名を持つ親族がいたことは、彼が、敬虔な信仰を持っている家系の中にいたことを示唆している。南のアビヤと、北のヤロブアムとに争いがあり、南王国にとっては不利な戦いであった(3)。戦いを始める前に、アビヤは北王国の者に向かって、兵力が少ないことなど気にかけずに戦い、勝利を確信するという大胆な宣言をしている(12等)。アビヤは、北王国側の、ダビデ王朝に与えられたとこしえの契約の軽視や(5)、その結果としての偶像礼拝や(8)、祭司たちの追放を非難した(9)。また、南ユダは神を第一とすることで一貫していると主張した(10)。主はこのような民と共におられるのだからと、南ユダの勝利を確信し、北イスラエルに戦いをやめるよう勧めた(12)。
 実際、南ユダは勝利した。アビヤは、信仰のゆえに勝利し、豊かにされたように見える(21)。歴代誌と列王記の双方を合わせ見れば、アビヤの豊かさの要因は、信仰という一点に尽きる。総じて言えば、彼は良くない王であったかもしれない。しかし、彼もまた神の契約の恵みを受け継いで伝える、南王国の担い手の一人だった。王自身の人格によるというよりも、神が与えられた信仰のゆえに、南王国の歴史は引き継がれていった。

主題 <へりくだる態度をもって>

聖書箇所 歴代誌第二  12章   (2013年3月 7日)

今日のみことば「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12)

レハブアム王は、ダビデ家の三代目の王だった。祖父や父は、主の御力によって強められたが、レハブアムだけが主から離れてしまう(1)。イスラエルにおける指導者や王は、本来、主との信頼関係を明確に持つ者であり、主のみことばにも親しくしている者だった。彼の生涯全体を見渡すならば、彼は良い王とは言えなかった(14)。
しかし、彼についての良いことも書かれている。それは、エジプト王シシャクの侵入が神によるさばきであるという預言者シェマヤのことばを受けて、彼が「主は正しい」とへりくだったことである(6)。彼がへりくだったときに、主の怒りが彼の身を離れた(12)。王のへりくだりの内容は何か、ということは明確でない。「このように」ということばから推測すると(12)、金の盾がシシャクに奪われたこと、代わりに青銅の盾を作って近衛兵に持たせ、宮に王が入る際に王の身を守らせたことに関係があると思われる(9~11)。彼は、宮の中でさえ護衛がいなければ不安を感じる状況に陥ったのだろう。王は神のさばきとしてのシシャクによる恐怖を覚え、自らの小ささをいやでも意識し、へりくだらされた。
 王についての唯一の積極的な評価は「ユダにも良いことがあったからである」である(12)。レハブアム王時代のユダは、総じて言えば主に対して悪を行ったが、それでも、主によしとされる、へりくだる態度があった。神の民が、神に評価される点は、外面的な豊かさや力の大きさではない。主を恐れ、主にへりくだって従う態度である。