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2011年11月 3日 (木)

主題 <囚人が船長のように> 

聖書箇所 使徒の働き 27章    (2011年9月21日)

今日のみことば「ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」 (34)

 この章は、パウロを乗せた船がローマへ向かう地中海の記事です。地中海はローマ軍にとっては庭のような場所です。どこの航路をとるか、十分に熟知しています。時折やってくる嵐や季節風など、帆船で巧みにあやつって前進するのです。
 パウロのいた80年ほど前には、有名なエジプトのクレオパトラやジュリアス・シーザー、アントニオなどの支配者たちがこの海を駆け巡って戦ったのです。
 パウロは囚人としてローマ兵に監視されての船上生活でした。しかし、神の人はこの囚人でありながら、まるで船長のように、救いを指導することとなります。
 パウロは神の助けを見ることができると確信しています。なぜなら、神の導きによって必ずローマに行くことを信じていたからです。そして沢山の船旅を重ねていたので、知恵があったのでしょう。Ⅱコリント人への手紙11: 25「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」と語っています。
 ちょうど、主イエスさまが、ガリラヤの湖上を漁師だった弟子たちよりも熟知されていたように、パウロもこの場面で神に立てられていたのです。
 危急にも関わらず、食事をすることを勧め、ひとりの生命も失われることがないように励まします。髪の毛一筋も失われない、と確信しています。主が何も思い煩うことなく、神を信じることを教えたようにです。
 私たちは、いったん緩急ことあるときには、大胆なパウロにならいたいのです。家庭では自分の権限がなにもないと思っている人も、職場での立場が低いようでも、神のみこころを確信して語らなくてはならない場面があるでしょう。今日の箇所を何度も読み返したいのです。

主題 <暗闇から光に> 

聖書箇所 使徒の働き 26章    (2011年9月20日)

今日のみことば「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(28)

 パウロの自分の歩みを回顧する三度目の証言です。迫害していたキリスト教、その主であるイエス・キリストに出会い、大変化を遂げます。そのときに示された重要な主からの託宣が、18節です。
 神はパウロに重要な使命を明らかにされたのです。ユダヤ人に対して、そして異邦人に対する使命について四つの内容を展開するのです。
第一に、「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に」導くことです。罪の中に生きる私たちに、福音の光を差し込み、罪のゆるしと解放を告げるのです。
第二に、「サタンの支配から神に立ち返らせ」る福音です。神を信じていない人々はみな、サタンの支配下に置かれているのです。キリストの福音は、悪魔の力を打ち破り、暗やみの支配から解放します。
第三に、「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」るのです。福音の中にある罪のゆるしほど平安と自由をもたらすものはありません。
第四に、「聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」信仰を持たないときは、神の御国から異邦人でした。しかし、神の子どもとして新たに生れた日から神の栄光の御国を相続する特権を得たのです。

主題 <カイザルに上訴します> 

聖書箇所 使徒の働き 25章    (2011年9月19日)

今日のみことば「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」(11)

 パウロを取り巻くユダヤとローマの支配者たちの権力と欲望とが明るみに出されます。フェストやユダヤ指導者といわれる人々です。歴史も著名な王たちによって記録されているように思いますが、国木田独歩がいうように、平民こそ歴史なのです。
こうした中で、パウロは第一に、悪いことをして罪に問われるなら逃れようとはしないと語ります。信仰者が振るわれるのは、人々の動きに目がくらむからです。ですから一つの決意をしておきましょう。それは友を沢山作りましょう。でもその中でだれかに追随したり、派閥に入って身の安泰と思ってみても、かえって落とし穴に陥るからです。会社やグループにおいて考えておく必要があります。
第二に、ねたみからパウロを訴えている人々には、根拠がないことを明らかにします。たしかに指摘したり、論拠とする点が正統に見えても、動機が違うのです。この地上の世界は、政治の世界も、至る所に支配したがる人がおります。嫉妬や権力欲の姿が浮き出てきます。
第三に、最善を選択する道を祈り求めましょう。直接に対決したり、論争したりすることはやめましょう。「私はカイザルに上訴します。」と決めたのです。こうして不思議な節理の中で世界宣教が進み、ローマにまで、さらにはイスパニアにまでも伸びて行きました。
私たちはこの地上の人々、それがどのような立場の人々であったとしても、人間的なやり方を捨てると、神による新しい道が用意されるものです。

主題 <パウロの宣教から学ぶ> 

聖書箇所 使徒の働き 24章    (2011年9月18日)

今日のみことば「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。」(5)

大きなたらい(今の若い方々はわかりにくいのですが、洗濯する大きな木の桶)の水を小さな指で動かすことができるだろうか。でも熱心にまわし続けると、たらい全体をまわせるのです。
 パウロは、たった一人ですが、世界を福音の恵みでかき回したのです。主の恵みは、驚くほどに強い影響を与え続けます。
 その評価が伝染病のペストのようだというのです。ユダヤ人は、常日頃は宗教の律法を最も神聖なものと教えていましたが、実際の問題になると、この世の基準で訴えを起こしたり、人々を煽動するのです。こうした二重の基準を持つ、ダブルスタンダードな人々が沢山います。キリスト教を抹殺するためなら、滅ぼすためなら、ローマ帝国の権力も、ユダヤ王の権威も用いたのです。
主はパリサイ人の教えることはしなさい、しかし、彼らのすることをまねるな、と教えました。
 それにしても、パウロの燃える宣教には、多くのことを学ぶことができます。第一に、信仰のことについていつでも弁明できる用意をしていることです。もちろん、主は王たちや権力者の前で何を言うか心配しないでいい。言うべきことは聖霊が導かれることは事実です。しかし、論理を正し、説得に努めることも大切です。
 第二に、府の中心であるイエス・キリストの十字架と復活を明瞭に語るのです。ある人々は十字架と復活は信じがたいと思っているかも知れません。しかし、こここそ福音の中心です。恥じることなく、主の証人として語る者でありたい。ローマ人への手紙1章15-16節。

主題 <勇気を出しなさい>

聖書箇所 使徒の働き 23章    (2011年9月17日)

今日のみことば「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(11)

 私たちは牧師や伝道者は疲れを知らない人々だと思ってしまうことがあります。困難な取り扱いや迫害にも十分に耐えられる強靭な精神力と信仰の力が備えられていると思いやすい。
 しかし、パウロが書いていますが、「だれかが弱って、どうして耐えられよう」と。現実の困難にだれよりも感じやすい人々なのです。もちろん、例外はありますが。
 でも、主が『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』(ヨハネの福音書4章32節)と弟子たちに語られているように、クリスチャンには信仰のない人々には理解のできない恵みの源泉を持っているのです。それは、主のみことばと聖霊です。
 パウロは、いつも主からの語りかけを聞くことができたのです。救われるダマスコ途上の上から(9章)、海外宣教に派遣されるときにも(使徒13章1節)、ヨーロッパへの宣教への導きも(16章9節)、絶えず神のみことばと聖霊に導かれる生涯だったのです。この神からの個人的な語られるみことばこそ、勇気を増し加え、困難を恐れずに前進させたのです。
 今日、神はパウロと同じように、「勇気を出しなさい。」と

主題 <主の導きを大胆に語るパウロ>

聖書箇所 使徒の働き 22章    (2011年9月16日)

今日のみことば「パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」」(25)

パウロは、当時のローマ市民権を持っていた数少ないユダヤ人でした。彼自身は、たいていは市民権を盾にして国家権力に抗議をしたり、利益を得ようとすることがありませんでした。ここでは、何度か行ってきた自分のキリスト教信仰の証言をするために、ローマ市民権の行使をする導きが与えられたのです。
 自分に与えられた立場をフルに活用することも主の道具として大胆に用いたことがわかります。神の栄光のために、自分の与えられた恵みの学び、信仰の訓練、祈りの素晴らしい経験をあかしする機会が訪れます。パウロは、自分がユダヤ教の最高学府であるガマリエル門下生として、人一倍ユダヤ教に熱心に仕えてきたこと、その彼に主が現れ、太陽よりも明るい栄光の顕現に接して大転換をしたことを語ります。
パウロは自分の迫害者からキリスト教の伝道者に変った原点を何度も何度も語ります。使徒の働きの中で3回も語ります。
私の尊敬する羽鳥明先生は、10代の頃にM・A・バーネット先生に導かれて、クリスチャンになられためぐみの経験を涙ながらに語り続けます。私自身、何度涙したことだったろう。
あなたの生涯に導かれた霊的な恵みの経験をもっともっと大胆にあかしをされて、主に導きたいと思いませんか。あなたに特別な賜物、立場、経験は、自分のためではなく、自分のためにいのちをかけてくださった、主をあかしする者でありたい。

主題 <神の助けによってできる覚悟> 

聖書箇所 使徒の働き 21章    (2011年9月15日)

今日のみことば「するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。」(13)

パウロが地中海岸にあったカイザリヤの聖徒たちへの告別メッセージでした。神の御心を確信しているので、人間的な感情で訴えられても、少しも動揺しなかったのです。
 信仰生活で、一つの大きな節目、決断は、自分の過去と現在と将来を神の御手にゆだねることをするのです。M・A・バーネット先生は、この経験を<きよめの生涯>と語り、福音伝道教団の牧師や信徒を導きました。問題のただ中で、私たちのよって立つ立場は、主イエス・キリストの御名のためならば、死ぬことさえ覚悟している、という信仰を貫徹したいのです。
 もちろん、初代教会の聖徒たちも、殉教する火刑の前夜、ローソクに小指をかざしたときに、あまりの熱さに手を引っ込めてしまったそうです。しかし、一番年少だったこの青年牧師が、だれよりも勇敢に死に臨んだのだという記録があります。
 自分の決意や熱心ではなく、神の助けによってできる覚悟、信仰の決断を時に迫られることが起こります。クリスチャンであるゆえに、家族や町内、職場での困難があるでしょう。しかし、信仰によって一貫して生きるときに、周囲が変ってきます。私たち自身が変えられていくのです。

主題 <神とその恵みのみことばにゆだねる> 

聖書箇所 使徒の働き 20章    (2011年9月14日)

今日のみことば「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」 (32)

 パウロは、エペソの長老たちに遺言のように恵みのことばを託するのです。主の導きによってアジアに宣教し、ことにエペソには長期間滞在して、人々を福音化していきます。救われた信徒たちは、ある者は献身して伝道者、長老となり、教会の牧会に専念します。ある者たちは忠実な教会員としてエペソ教会の発展と宣教に邁進します。多くの問題があったでしょう。迫害もあったでしょう。しかし、主イエス・キリストの愛に救われた兄弟たちはパウロの期待に十分に応答する者でした。
 20:24 『けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。』と語っているのは、このエペソの聖徒たちの信仰生活を示していると言っていい。
 そして、この信仰を持った聖徒たちについて、神と恵みのみことばにゆだねるのです。
この神のことばこそ、聖徒たちを育成し、成長させるのです。蒔かれた小さな種が、どの野菜よりも大きくなるのです。
 さらに神の御国を受け継ぐすばらしい将来が待っています。パウロの全力を注いで、いのちをかけた宣教に大きな満足を語りました。

主題 <宣教の拡大> 

聖書箇所 使徒の働き 19章    (2011年9月13日)

今日のみことば「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(20)

 教会は、神の恵みを背に大胆に宣教がなされ、拡大していったことがわかります。この原動力は、聖霊に満たされた力でした。エペソでのキリスト教に導かれていた信徒たちが、まだ聖霊について知らなかったのです。いつものように、祈り、みなが聖霊に満たされたのです。聖霊に満たされ、導かれて、クリスチャンが誕生し、教会がいのちに満たされるのです。
 パウロはエペソに二年間にわたり滞在して、全力で福音を宣教します。ことにツラノの講堂で二年間の宣教は、『アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた』のです(10)。キリストを信じる、信じないという結果は主の御手の中にあるのですが、住民のみなが福音を聞くこととなったのです。なんという記録となったでしょうか。マスコミの発達した現代において、テレビやラジオ、自動車など駆使してもこの報告書を見ることができないのです。
 祈祷師たちが行っていた悪霊による働きを圧倒したのです。パウロは福音神学の正統性を主張するだけではなく、霊的な問題に深く切り込んでいったのです。彼らの信仰は、知識による論理だけではなく、実際的な知恵を持ち、人々を変えていったことを考えよう。

主題 <町には、わたしの民がたくさんいる> 

聖書箇所 使徒の働き 18章    (2011年9月12日)

今日のみことば「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。」(10)

 パウロは地の果てまで宣教に前進します。アテネでの働きを終え、コリントでの宣教を開始しますが困難を極めたのです。しかし、神はパウロに「18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と語られたのである。
 どんな人でも、楽天的な態度だけでは伝道できるものではない。しかし、こうした困難の中で聞いた神の言葉こそ、伝道者を励まし、勇気づけるものである。同じところに留まらないで巡回伝道したパウロが何と一年半もの期間、腰を据えてじっくりと伝道し続けたただ一つの宣教地です。
 ここで聞いた神からのメッセージは、三つの点です。「神は共におられること」「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
この町には「わたしの民がたくさんいること」が神からの啓示であったのです。救われる人々からの招きを聞いたことなのである。
パウロはよく神からの幻を与えられている。聖霊が臨むとき、青年が幻を見る(2:17)とある。このビジョンは決して自分の願望とか、会議の決議がされたのでビジョンができたのではない。天から、上から来るものなのです。そうでないと地から出てくるものは、肉に属し、地に属し、ねたみと敵対心が働くとヤコブは警告している(ヤコブ3章)。
 神から来る幻に支えられて、コリント伝道の進展を見ることができたのである。恐れないで、天からの平和を持って励まされた奉仕をした。だから気負いもなく、高ぶらず、へりくだって伝道したのである。