聖書をたのしく読もう Feed

2011年11月 3日 (木)

主題 <あわれみの器によって>

聖書箇所 ローマ人への手紙 9章 (2011年10月 1日)

今日のみことば「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(16)

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言ったパウロはここで、9章から11章において同胞イスラエルの民の救いについて記していきます。パウロは異邦人宣教にばかり目が向いていたのではないかと思わされるが、3節「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言うほどに、同朋イスラエルの民が救われることを願っていました。
 ここで、私たちも同胞である日本人のために、私たちの近くにいる隣人のために、友人、家族の救いのためにどれだけ祈っているだろうか。パウロは同胞イスラエルの民が救われるためならばのろわれても良いと言いました。ここには、パウロのなんとも深いあわれみ、愛が示されています。私たちが本当に隣人の救いを求め、祈っていくならば、パウロのように愛に基づく重荷をもっていかなくてはならないと思うのです。
 19節から、パウロは陶器師と器を例に語り始めます。陶器師とは土から意のままに器を造り、その器を選び取る権利を持つように、神は人を選び取る権威を持つ方として語られ(20~21)、器については、「怒りの器」(22)と言われているのは、イスラエルの民が神に背いている故に、滅ぼされて当然のような状態を示していたが、しかし、神は「豊かな寛容を持って忍耐して」(22)、器を砕かれることなく保っていてくださっていることを今の同胞イスラエルの民の状態であることを語りました。
 あわれみ深い神は「あわれみの器」をあらかじめ用意されたことが言われているが(23~24)、この「あわれみの器」とは、イエス・キリストを信じる者たちを指しており、この人々によって、神のあわれみは明らかに示され、同胞イスラエルを導いてくださるということにパウロは大きな希望を抱いていました。
 そして、今日、私たち一人一人が「あわれみの器」として残されているということ、そして、主の救いの御業のために残されていることを覚えたいと思います。今日、共に主のもとに導きたい方のことを覚えてお祈りをささげましょう。

主題 <神の愛による圧倒的な勝利>

聖書箇所 ローマ人への手紙 8章  (2011年9月30日)

今日のみことば「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37)

パウロは律法によって罪示されていくという罪との戦いとの葛藤に勝利していく希望を語られました。一つは、主イエス・キリストによって私たちの罪が贖われているということ(3)であり、二つ目に、神の御霊がキリストを信じる人々のうちに住んでくださることによって(9)、この地上における罪との戦いに勝利していくことが出来ることを教えられました。
特に、神の御霊と呼ばれる聖霊の働きによることを明確に示されました。私たちは、時として、激しい肉との戦いの中で、どうしたらよいのかさえ分からなくなってしまうことがないだろうか。何を祈ったら良いのかさえ分からなくなってしまうほどに弱い者である。そのようなとき、聖霊は言いようもない深いうめきをもって私たちをとりなしてくださると言われている(26~27)。
私たちが罪の現実の中でさいなまれているそのただ中でさえ、聖霊によって、私たちは主にある戦いをさせて頂いていることを改めて覚えたいと思います。そして、すべてのことを働かせて益へと変えて下さる神に信頼して歩んでいきたいと思います(28)。
パウロ自身、非常に困難な中を歩んで人でしたが、しかし、パウロはこの地上にありながらも主の栄光を仰いで望みをおいていました(18)。そのパウロがこの地上にあって、非常に強い確信をもって歩んでいたことが、31~39節に言われていることから分かります。
特に、35節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」とさまざまな困難の中であっても、キリストの愛から離すことはできないと言いました。(37、38)。キリストの十字架にあらわされた神の愛は何物にもまして私たちを救い、恵みへと導いていることを私たちも同様に告白する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <罪を示されて> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 7章  (2011年9月29日)

今日のみことば「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(24~25)

7節に「律法は罪なのでしょうか。」との問いかけがある。ユダヤ人たちは、律法を与えられていることを誇り、律法を守り行うことによって神の義とされると考えていた。しかし、実際には誰一人として律法を守り行うことはできず、かえって罪の自覚にさいなまれていくばかりであったことに対して、もう律法は無意味、必要としないのかという問いかけを意識していた。
パウロは、律法がなければ人は罪が何であるかを自覚することができないことを示された(7~11)。律法は罪を自覚させる役割を担っていることに触れて、律法自体が無意味なものになることはないことを教えられました。
そして、さらにパウロは律法を「霊的なもの」(14)であると言い、律法を通して、自らの内面を、罪の現実に深く気づかせてくれていることを証ししていく。14~17節の告白と18~20節の告白はパウロ自身が律法を通して示されてきた真実な告白である。そして、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(14)、「私のうちに善が住んでいないのを知っています。」(18)、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(24)とパウロ自身の告白は、自らの罪深さを知るということで、律法により自らを深く知るように導かれた証しとも言えよう。誰か人に言ってもらうことも有益であるが、やはりみことばを通してはじめて本当の意味で自らを深く顧みることができるのではないだろうか。
パウロは律法により罪深い自分を自覚されていきます。しかし、同時に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(25)と告白し、主イエス・キリストに感謝をささげました。本当にみじめな人間と言う人を確かに救い出してくださるお方は主イエス・キリスト以外におられないことを再確認するように告白し賛美しました。
私たちも、自らを顧みる時、本当に愚かさ、欠けだらけの者であることを思わされるが、そのような者に主イエスは臨み、招いてくださっていることに感謝しよう。

主題 <キリストにあって生きる>

聖書箇所 ローマ人への手紙 6章  (2011年9月28日)

今日のみことば「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」 (11)

 1節「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と言い、神の恵みを豊かに受けるために、罪を犯しても良いと考えることや15節「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう。」と言い、神の恵みのもとにあるのだから罪を犯しても大丈夫というように考える質問に対して、いずれも絶対にそんなことはありませんと完全否定しました。その理由をパウロはバプテスマについて説明する中で教えていきました。
 まず、第一に、3節において、「キリストの死にあずかるバプテスマを受けたではありませんか。」と言い、キリストを信じる者は、キリストと共に死に、葬られ、罪から解放された者であることを確認しました(7)。
 第二に、4節にあるように、復活されたイエス・キリストのように、キリストを信じる者たちは、キリストにある新しいいのちを受け、それにふさわしく新しく歩むのであって、いつまでも罪の中に留まっていくことはありえないことを確認しました(5、6)。
 第三に、8節にあるように、「キリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きるようになる。」と言い、キリストの十字架の死による罪のさばき身代わりに受け、赦された者は、キリストが復活されたように、キリストにあってそれにふさわしく新しく生きていくようになることを確認しました。
 今日、罪赦され救われたキリスト者は、この地上にあって確かに罪の誘惑との戦いがある。しかし、罪の誘惑にあうときに、自分は「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とのみことばにあるように、今や、キリストにあって生きた者であることを思い続けていくことが、この地上にあってキリストにあって栄光の望みを仰ぎ、キリストにあって与えられた新しいいのちに生きる信仰の歩みであるということを覚え、今日も前進させて頂きたいと思います。

主題 <アダムとキリスト>

聖書箇所 ローマ人への手紙 5章  (2011年9月27日)

今日のみことば「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」(18)

 パウロは信仰による義について教えられる中で、その信仰の対象となる主イエス・キリストについて語り始めていきます。この5章では、最初に創造された人アダムとの対比の中で主イエス・キリストがもたらしたものは何かについて教えられました。
 12節以降で、パウロはまずアダムについて語り始めます。最初の人アダムが、神に従わず、その結果罪が世界に入り込み、罪の故に死が入ったことを示されました(12)。そして、全人類は罪を犯し、罪の刑罰としての死の支配のもとにあったこと、このことはモーセに与えられる律法が与えられる前も死の支配のもとにあったことを説明しました(12)。重要なことは、たった一人の人アダムによって罪の刑罰である死に支配され、罪を犯していないという人々さえ、罪の刑罰である死の支配下にあるのだと説きました。
 しかし、キリストは、「アダムはきたるべき方(つまり、イエス・キリスト)のひな型」であると言い(14)、アダムとキリストとの共通点は、一人の人の行為が全人類に影響を与えるという点で共通していることに触れ、特に、15節、17~19節において、キリストは、罪の刑罰による死の支配下にあった全人類に対し、恵みと、神の義と、永遠のいのちをもたらしてくださったお方であると説きました。
 主なる神はアダムの犯した罪に死をもってさばかれなくてはなりませんでしたが、神はみこころのうちにキリストによって、その罪のさばきをキリストに負わせ、十字架において完全にさばかれ、そのことによって、今や罪の赦し、永遠のいのちの恵みを与えてくださったことを力説しました。
 私たちは、罪のさばき、死の支配から逃れられない小さな弱い存在であることを思います。しかし、主イエス・キリストは十字架にかかられ、神のさばきである死を代わりに受けて下さったことにより、この罪のさばき、死の支配から解放してくださったのです。キリスト以外にこの恵みを与えて下さった方はおられません。主イエスの前に罪を告白し、主から赦しと永遠のいのちの恵みを頂くものとならせて頂きたいと思います。

主題 <信仰によって義とされたアブラハム>

聖書箇所 ローマ人への手紙 4章  (2011年9月26日)

今日のみことば「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」(16)

 パウロは「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」(3)と言われているように、彼の信仰によって義と認められたことを述べ、さらに16節に言われているように、アブラハムの信仰の信仰にならうように勧められました。アブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょう。
 第一に、アブラハムは、死者を生かし、無い者をある者のようにお呼びになる復活の神を信じる信仰でした(17)。第二に、アブラハムの信仰は、神の約束を「望みえないときに望みを抱いて信じる信仰」でした(18)。
 特に、「望みえないときに望みを抱いて信じる信仰」について、考えさせられます。アブラハムは妻のサラが非常に高齢となっていたため、もう子どもを望むことなどできない、子孫をえるなどできはしないと普通ならば考えられる状況にあって、しかし、神はアブラハムに子孫を与えられるという約束を信じました。置かれている状況からすれば、その約束を捨てて、失望しているということもありえたでしょう。しかし、アブラハムは信仰が弱るどころか、ますます強められて(20)、神の約束を待ち望み続けたのでした。この信仰を神は見ておられ、その信仰によって義と認められたと言われています(22)。
もしかしたら、信じるということが信じる行為という行いの一つのようにとらえてしまい、やみくもに信じることが大事というようになってしまってはいけません。信仰を考えるとき、何を信じているかということが最も大事なのです。パウロは「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」(24)信仰が義と認められると言われました。主イエスこそ、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで、よみがえられたお方であることを明確に信じる信仰が私たちに救いを与えて下さることを感謝しよう。

主題 <価なしに義と認められる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 3章  (2011年9月25日)

今日のみことば「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(24)

パウロは神の御前にすべての人が罪人であることを旧約聖書の引用から確認するように教えられた。
 10~12節は詩篇14篇1~3節、53篇1~4節の引用で、「義人はいない。ひとりもいない。」とあるように、すべての人が例外なく罪人であることが言われていました。13~14節は詩篇5篇9節、10編7節からの引用で、「舌で欺く」とあるように、発する言葉によって罪を犯すことが言われていました。15節~17節はイザヤ59章7~8節からの引用で、「血を流すのに速く」「破壊と悲惨」とあるように人の行いの罪が言われていました。18節は詩篇36篇6節の引用で「神に対する恐れがない」とあるように、神を恐れることをしない罪について言われていました。
 これらの人間の罪の現実にあって、律法は「罪の意識が生じさせる」(20)役割を担っていたことに触れて、律法を守ることが救いではなく、また、律法を守り行うことが出来ない人間の深い罪深さを示されました。
 しかし、すべての人は罪を犯したという現実を受け止め、しかし、今は律法ではなく、キリストによって救いの道が示されていることを明快に教えられました。
 今日も同様に、律法(みことば)によって、自らの罪が示され、救いの必要を一人一人の心のうちに生じさせ、その罪の赦しを与えて下さる本当の救いをもたらしてくださるイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって救われるというこの救いの恵みに感謝したい。この救いは、人種を越えて、行ないを越えて、今、キリストを信じるすべての人に価なしに与えられる恵みであることを感謝したいと思います。

主題 <心の割礼>

聖書箇所 ローマ人への手紙 2章  (2011年9月24日)

今日のみことば「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(29)

 ユダヤ人たちは、自分たちが選びの民であり律法が与えられていることを自負していました。そのため、律法を持たない異邦人をさげすみ、自分たちが優れたものであると考えていました(19-20)。
 しかし、律法を与えられ、選びの民との自負していた彼らユダヤ人こそが律法に違反した歩みをしてきたことをパウロは指摘しました(21-23)。
 そのような指摘に対してユダヤ人たちは「私たちには割礼がある。」と主張するであろうことを指摘し、この割礼のその本来の意味に触れて語っていきます。それは、割礼をほどこしていてもユダヤ人が律法に背いているなら、その割礼は価値がなく、無割礼に等しいこと。外見的な割礼を受けている、受けていないかが重要ではなく、神に選ばれた者としてふさわしく、律法に従って生きているかが問われるのであり、その律法に従って歩んでいることの証しとして割礼があることをパウロは主張しました。
 それ故に、割礼を受けていなくても、福音を信じる信仰によって、キリストにあって救われるのであり、割礼をほどこしてなくては救われないというような行いを強制することは本来の律法の働きでもなく、神の救いの恵みを曲げてしまうことであることを今日の私たちも改めて注意しなくてはなりません。
 パウロは形式的な外見上の割礼ではなく、「御霊による、心の割礼」(29)こそが重要であることを教えられ、また、これは神からの賜物として与えられていくことを教えられました。
 今日、私たちは福音のみことばを聞き、キリストを救い主と告白する信仰によって、神の恵みによって救われていること、この救いの恵みは自らの行いによるのではなく、神からの賜物として与えられていることを覚え、主に感謝する一日を歩みだしていきたいと思います。

主題 <交わりが深められていくことを願って> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 1章  (2011年9月23日)

今日のみことば「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(12)

ローマ人への手紙は、使徒パウロが、起原7年頃に、第三次伝道旅行の途中、コリントの町に滞在している間に、ローマ教会を覚えて書き送ったものと言われています。パウロは伝道旅行の最中に、当時の世界の中心とも言われるローマに渡り、福音を伝え、いくらかでも実を結びたいと願っていましたが、まだそれはかなわないでいました(13)。
パウロがローマへ行くことを熱望している理由に、「御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいから」(11)と言っています。また、その御霊の賜物を分け与えていくことと共に、「互いの信仰によって、ともに励ましをうけたい」(12)と言っています。ここに、パウロはローマ教会の信徒たちに指導的な立場で教え、賜物を与えていくという一方的なものではなく、互いに交わりをもち、分かち合う中で、御霊の賜物を分かち合うことになるということを言っていることに注目したいと思うのです。
御霊の賜物は個人の賜物と言うよりも、教会にあって、神が各自に与えられた賜物であり、それは福音宣教のため、教会の建て上げのために用いられるべきものであることを教えてくれていると思うのです。ですから、逆に言えば、教会における兄弟姉妹の交わりが豊かにされていくと共に、互いの御霊の賜物を認め合い、さらには有益な働きに用いられていき、結果として教会の成長につながっていくということを改めて覚えていきたいと思います。
パウロはコリントの町でまだ会うことのないローマ教会の信徒の方々を覚え、互いに交わりを深めていきたいと願い、それは世界宣教の大きな前進につながると考えていたのではないかと思うのです。
私たちは意外に日本にいて、日本のことばかり、まして今住んでいる町のことで終始していないでしょうか。今年は東日本大震災があって、東北の地にて地道に宣教していた教会の群れがあったこと、そこに今なお震災の復旧、復興と共に、福音宣教と教会の再建のために労しているキリスト者の群れがあることを知り、そこに共に協力していこうという輪がひろげられています。共に交わりを深め、祈り、この時に福音を前進させていけたらと祈ります。

主題 <ついにローマに> 

聖書箇所 使徒の働き 28章    (2011年9月22日)

今日のみことば「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」(16)
今日は、ついにパウロがローマに到着したことを記している。世界宣教への情熱は、当時の首都ローマへの宣教をめざしたのです。このローマでは、他の町のようにユダヤ人たちが迫害の急先鋒になります。しかし臆することなく、主の十字架と復活の福音を明瞭に語ります。ある人々は徹底して対抗しますが、イザヤ書の預言を引用して主の御手にゆだねてゆくのです。
主のためにいのちをかけたパウロの前には、だれも立ちはだかる存在はないのです。ユダヤ人も、ローマ人も、権力者も、何も恐れることがなく、生きたのです。マルタ島において、まむしの毒にかまれても、いっこうに恐怖に支配されません。このことによって、かえって神のように人々はあがめることにさえ変るのです。
福音伝道教団もまた宣教初期から地方の中心となる町に宣教を開始して行きました。それから地方へと拡大したのです。
ローマ人への手紙では、イスパニア(スペイン)まで行く計画を述べていました。イスパニアは当時の地の果てです。主の計画は、どのような障害があり、ひどく人間的な取り扱いがあっても、結局進むのです。
このローマで自費で借りた家で、自由に、主イエス・キリストのことを伝えたのです。そして次の書がローマ人への手紙となっているのです。使徒の働きの主要な地域、教会については、ローマ人への手紙から以下の書物を読むことで、全体が浮き彫りになってきます。
もし、使徒の働きが聖書に残されなかったら、もちろんそんなことはないのですが、キリスト教会の今日はないのです。著者ルカにことのほか感謝を献げるのです。