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2013年1月16日 (水)

主題 <悔い改めて再び立ち上がる> 

聖書箇所 士師記 16章     (2012年10月 6日)

今日のみことば「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」」(28)

 「彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(20)ここにサムソンの悲劇がある。なぜこのような悲惨な結果になってしまったのだろうか。
 4~22節には、悪女デリラの誘惑について記されている。サムソンの悲劇の始まりは女性による誘惑と言う最も彼の弱点をつかれたことによっている。サムソンは、再び異邦人である、ペリシテ人の女性を好きになってしまう。しかも、彼女を愛してしまった(4)。しかし、デリラは彼を愛していなかった。彼女は、彼を裏切ることにより報賞金を得ようとする。サタンの働きは巧妙で、今日の私たちにも弱さをついてくるということに注意しなくてはならない。
 悲しいことに、サムソンは、彼女の陰謀を知り、自滅することになるのにもかかわらず、彼女に本当のことを打ち明けてしまう(17)。誰かを愛すると、人は盲目になりやすい。またサムソンには、自分の力が決してなくなることはない、というおごりがあったのであろう。ついにサムソンは捕えられ、牢の中で臼をひくまでになってしまった。
しかし、敗北に終わったかに見えた、ここに主の恵みを見る。それはサムソンの髪の毛が伸び始めるにつれて、彼の力が戻ってきた。そして、彼は最後に主に祈り、その力をイスラエルの救いのために用いたのだった(28-30)。
私たちも悔い改めの機会を生かし、再び主から力を得て歩むことができるように祈ろう。

主題 <弱さの中で主に叫ぶ>

 福音伝道教団 前橋キリスト教会・渋川キリスト教会
聖書箇所 士師記 15章     (2012年10月 5日)

今日のみことば「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」」(18)  
 15章では、サムソンは、以前の妻を返してもらうことを願ったが、叶わなかった(1~2)。そこで彼は、ペリシテ人の畑に火をつけてしまう(3~5)。その結果、ペリシテ人たちによって妻とその父親は焼かれてしまい、サムソンはその復讐をする(6~8)。この事件を知ったイスラエル人たちは、サムソンをペリシテ人の手に渡そうとする。ここに、イスラエルの民たちが、奴隷の状態に甘んじて戦おうとせず、しかも自分たちのさばきつかさである者さえ裏切ろうとするまでに愚かな姿を示している(9~13)。
しかし、神はこのサムソンを、放ってはおかなかった。主の霊が彼の上に激しく下り、彼はロバのあご骨で千人を撃ち殺してしまう(14~15)。さらには、三百匹ものジャッカルを捕らえ、その尾と尾をつなぎ合せた。また腕にかかっていた綱を簡単に引きちぎった。さらに驚くべきことに一人で千人を打ち殺した。このような力は、実は彼自身から出たものではなく、主の霊によるものであった(15)。
この戦いの後、サムソンは激しい渇きを覚え、主に叫び求めている(18)。主は彼の叫びに答え、水を与えられた。力を誇ることのできるような勝利の後に、水を求めて叫ぶという弱さが見られるという中に、いかに人間は弱いかを思わされる。しかし、そのような求めに神は速やかに応えられているところに主のあわれみでしかないことを痛感させられる。神の力は、人の弱さの中に完全に現れることを覚えたい(Ⅱコリント12:9)。

主題 <主の霊に力づけられて> 

聖書箇所 士師記 14章     (2012年10月 4日)

今日のみことば「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。」(19)

 

 14章ではサムソンの人となりを知ることができる。それは決して誇れることがあるというよりは、むしろ、多くの欠点を見る。彼は復讐心が強く、狂暴で、性的な面で弱点を持っていた。これらの弱点に負けて、後に転落することになるほどの愚かな姿を見させられる。
 そのようなサムソンであるがイスラエルがペリシテ人によって苦しめられる時に立ち向かっていく人として用いられている。神はサムソンと共におられ、主の御霊が彼の上に激しく下られたことによって力を得て勝利を治めたのである。
 以上のことから言えることは、神は、私たちがどんな弱さや欠点を持っていても、そういう私たちを選んで用いることがおできになるということである。神はただ、私たちが神の御霊に心を開いて、御霊に自由に働いていただく者となることを求められるということを覚えたい。
 また、同時に、神に大いに用いられ、また御霊に支配されている人々でも完全ではないということを覚えなくてはならない。私たちはサムソンのように不完全で、愚かで、失敗しやすい者である。
最後に、パウロも言っているように、私たちは倒れないように気をつけようという助言を心に留めて今日を歩ませて頂きたいと思う。(Iコリント10:12)。

主題 <主の霊は働き始められる>

聖書箇所 士師記 13章     (2012年10月 3日)

今日のみことば「そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」(25)

 13章から登場してくるのが、最後の士師のサムソンである。本章では、サムソンの誕生について記されている。
 サムソンの誕生する頃のイスラエルは、一見これまでと異なるものが伺える。これまでは、イスラエルが苦しみの中で主に叫び求めた時に、多くの場合、主は彼らに助け手を送ってくださってきた。しかしここには、主への叫びも、罪の悔改めも記されていない。これまで嘆きの声を主にあげていた姿や悔い改めていた姿が描写されてきたのに、ここに至っては何も記されていない。でも、最後の士師の誕生が先立って記されていることに、神の先行したあわれみが浮かび上がって来るように感じさせられる。
 また、サムソンの誕生については、その両親に予告されたということがこれまでと異なる点である。しかも「その子は胎内にいるときから神へのナジル人である」と告げられた。そして、その時から、ごく普通の平凡な夫婦であったマノアとその妻が、神の救いのみわざを担うものとされた。主の使いは、彼らにも、ナジル人の規定を守るように指示している(4、`14)。このように、本人たちがまだ充分に意識していないようなときから、主は彼らをご自身の救いのみわざのために用い始められたのである。
 神の救いの御業は神の憐れみのうちに先行して行われていくということ、何も分からないマノア夫妻を通して用いられていく中に始まっていったことを思うと、主イエスによる救いの御業もまさに神の何にも先行した愛によって始まっていることを思い起こさせてくれるのではないだろうか。主の愛、その救いの御業に感謝しよう。

主題 <逃亡者と侮辱され> 

聖書箇所 士師記 12章     (2012年10月 2日)

今日のみことば「そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、「ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ」と言ったからである。」(4)

12章には、エフタがギルアデ人を招集し、エフライム人と戦った記事がしるされている。この戦いの発端は、エフライム人の侮辱的なことば、「あなたがたは……エフライムの逃亡者」であった(4)。この戦いは結果的にエフタの罪深さを明らかにしてしまう結果となった(6)。そして、もう一つ注目すべきことは、主が彼に戦わせ、勝たせたとは記されていない。とまり、主による戦いではなく、エフタの個人的な感情から始まった戦いであったことを示している。
 この戦いから分かることは、イスラエルは、せっかくアモン人を撃退したのに(11:32)、戦利品をめぐる内部紛争によって、弱体化したということである。そして、エフタの問題としては、自分の肉的な思いを捨てきれなかったことが分かる。彼のこれまでの失敗をまとめてみよう。第一に、彼には、かつて仲間から追放されたことからくる卑屈な思いと、自己憐潤から生じる罪深い自己中心性があったことだろう。第二に、かしらになりたがる権力欲があった。第三に彼は、罪深い愚かな誓願をたてた。
 エフタは六年間さばいて後、イブツァン、エロン、アブドンなどがイスラエルをさばくがそれぞれ長くはなかった。この後再び、主の目の前に悪を行なったイスラエルは、四十年もの間、主によってペリシテ人の手に渡されることになる。
 エフタに見る不完全さと罪深さを覚え、私たちは悔い改めて、主の豊かな赦しとあわれみにゆだねて生きる者となりましょう。

主題 <主を試みることば>

聖書箇所 士師記 11章     (2012年10月 1日)

今日のみことば「エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」」(35)

 エフタは勇士であるとされながらも、遊女の子であったため。後に家を追われることとなってしまい、ごろつき共たちと付き合うような生活をしていたことを思うと、彼の人生はあまり幸せなものではなかったと言える。そのようなエフタであったが、ギルアデの首長たちとの交渉(6~11)やアモン人たちとの交渉(12~27)で用いられた。私たちは欠点と思えること、不幸な生い立ちを理由に自分の人生を悲観してしまうことがあるのではないだろうか。しかし、これほど多くの欠点を持っていたにもかかわらず、神はなおエフタを用いることがおできになったことを覚え、神はどのような者でもお用いになられることがることを覚えたい。
 もう一つエフタから忠告として学ばなくてはならないことがある。エフタはことば巧みに交渉するほどにことばに力があった。しかし、そのことばの力は誓願をたてるということで、神に信頼するのではなく、自分のことば、誓いのよって、つまりは神に対して取引の祈りのように誓願を立てることをしてしまい失敗してしまっている(30~31)。結果的に戦いに勝利したが、自分の娘を失うこととなった。でも、このエフタの娘も主の前に立てられた誓願の重みを受け止めていったことを思う時に、自分のことばではなく、どこまでも主に信頼していくことに徹底していくことが重要であることを思わされる。
 自らの軽率なことばを戒め、主を試すような祈りことばとなっていなか今一度注意したいと思います。

主題 <苦しい時だけの信仰>

聖書箇所 士師記 10章     (2012年 9月30日)

今日のみことば「彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」 (16)

 アビメレクによる混乱の後に立ち上がったのは、イッサカル人トラであった。イスラエルを「救うために」と表現されていることに、彼の働きの中心を見ることができるだろう(1)。彼は23年にわたってイスラエルを治めた(2)。続くギルアデ人ヤイルは、22年間治め、その記述には豊かさと権力が暗示されている(3、4)。しかしたとえ長い間イスラエルを治めても、彼らを取り扱う紙面は短い。
 ヤイルが死んだ後、イスラエルはまたもや主の御前に悪を重ねた。状況が好転し、物事が落ち着くと、人が主から離れてしまうという弱さは、昔も今もあまり変わらない。彼らは主を捨て、主に仕えず、様々な偶像に仕えた(6)。それゆえに、主はご自分の民をペリシテ人とアモン人の手に渡された(7)。彼らと同じ偶像を拝みながら、彼らに支配されるとは何という皮肉であろうか。人間的な友好は、主の御前に意味をなさない。
 18年間の苦しみの中で、彼らは主に叫んだ。その叫びは、「苦しいときの神頼み」という域を脱しないものにしかすぎなかった。主は彼らを突き放している(13、14)。しかし彼らはその後、主の御前にへりくだり、外国の神々を捨て去り、主に仕えた。そのように悔い改めた民の姿をご覧になられた神の御思いが16節に示されている。今も主は同様にこの地上をご覧になられ、悔い改めて主に仕えようとしている民の姿を見ていてくださっているのではないだろか。
 主の憐れみにを覚え、苦しいときだけでなく、いつの時にも主に仕えていく者となりましょう。

主題 <自己保身の戦いの末>

聖書箇所 士師記 9章      (2012年 9月29日)

今日のみことば「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。」(56)

ギデオンの後、70人の息子の中からアビメレクがイスラエルの王として立った。かつて父ギデオンでさえ、王にはならなかったがそれだけにアビメレクは野心家であったと言える。アビメレクは自らの野心に基づいてシェケム人を利用するが、人間的な思い出の同盟は、結果的には裏切られることになり、その霊を送られた神によってであった(23)。
アビメレクは、シェケムでの戦いに勝利を続けることになるが、その勝利そのものが、最後には彼にとっての落とし穴となる。彼は、戦略においては優れていたかもしれない。しかし、主の御前に、肝心な点が欠けていた。それは、主のみこころに従って戦いを進めていくということである。彼は、王としてはふさわしくない器であった。アビメレクは、主の戦いをせずに、自分の義(自己保身)のために戦ったのである。そのようなときには、たとえ戦いに勝利しても、やがては不名誉な結果を招くことになる。ギデオンの、「主の戦い」を思い起こそう。ギデオンは、自分の弱さを自覚し、徹頭徹尾、主に信頼するために、主が勝利を保証してくださるかどうかを、戦う前に確かめた(6章参照)。しかしこの箇所には、主を求めず、主に信頼しないで戦いを進めた場合の実例が、鮮やかに示されている。
 彼の最後は、一人の女性によって死に追い込まれることになった(53、54)。その結末は、カナンの将軍シセラが、ヤエルによって殺されたことに似ている(4:21)。当時の男にとっては、女によって殺されることは不名誉なことであっただろう。しかし自分が死んだ後まで、恥を隠そうとした彼の生き方は(54)、愚かとしか言えない。

主題 <謙遜さを失わせてしまう弱さ>

聖書箇所 士師記 8章      (2012年 9月28日)

今日のみことば「ついで、ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに一つ、お願いしたい。ひとりひとり、自分の分捕り物の耳輪を私に下さい。」――殺された者たちはイシュマエル人であったので、金の耳輪をつけていたからである――」(24)  

 イスラエルは、ギデオンに王になることを求めたが(22)、彼は、「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と(23)、一見、最もなことを言って辞退している。しかし、ギデオンは、戦利品の金の耳輪を集め、1700シェケル(約20㎏)もの金で、元来は大祭司の式服であるエポデを作って、個人崇拝を励行し、主に栄光を帰さなかった。その背後には、大祭司の存在を軽んじる罪が隠れている。また、自分の家に戻ったギデオンは、当時の王たちのように大勢の妻をめとり、七十人の息子を得るようになった。正しく主を恐れず、頭では理解していても、実際にはなかなか主に栄光を帰せない、人の弱さが反映されている。
 この結果、最初はオフラの町で、バアル崇拝を取り除くことから始まったギデオンの時代は、より全面的な偶像崇拝へと堕落してしまうこととなった(27、33、34)。ギデオンの場合、それは戦利品の耳輪を求めたところから始まった。いつしか、自分の手柄として報酬を求めたところに、弱さがあったのである。
私たちも最終的に主の前に従順に、謙遜に歩んでいるかが問われるのである。

主題 <自分の力ではなくて、主の方法で> 

聖書箇所 士師記 7章      (2012年 9月27日)

今日のみことば「そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(2)

 ミデヤン人との戦いを前にして、神はギデオンの指揮する兵をごくわずかな小隊に縮小させた。戦うために、味方が敵よりもすぐれた火力を持ち、兵員も多く、よりすぐれた科学技術を持つことを求めるものである。
しかし、神はギデオンの軍の兵力を物笑いの種になるほど縮小され、全く何もすることができないようにされる。神は、弱く無力な者たちを喜んでお用いになる。神は彼らを選んで、彼らから何かを造り出すことがおできになる。だから私たちにはみな希望があるのである。
 キリスト者も、主のために働く時に、時には、神は人間の力を通しては働かれないということを忘れることがある。私たちは、自分の能力や技術や訓練に頼ることを好むが、成功は、実は神が私たちを通して行おうとしておられることにかかっているのである。
 私たちが何か新しい冒険的な事業にとりかかる時には、いつも二つのことが重要である。
 第一に、私たちはそれを神の方法によって行う。
 第二に、私たちはそれを神の御力によって行う。
 このことをギデオンとその兵たちは知らされたのではなかと思う。私たちも主の方法と御力による御業に期待する者とならせて頂きたい。