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2013年1月16日 (水)

主題 <恐れと疑いからの解放>

聖書箇所 士師記 6章      (2012年 9月26日)

今日のみことば「すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」」(23)

 6章からは、さばきつかさとしてギデオンが登場する。しかし、ギデオンは最初、恐れと疑いに満ちていた人であった。
 小麦の脱穀には、もみがらを吹き散らす風が必要である。酒ぶねのなかでは、あまり風はない。ギデオンはわざわざ条件の悪い所で仕事をしていた。それは、ミデヤン人を恐れていたからだった。また、ギデオンは主にしるしを求めました(17)。確たる確証がないと行動を起こせない懐疑心に支配されていたとも言えます。
 これらのギデオンのうちにあった恐れや疑いに対して神は共におられることと具体的なしるしを伴って知らせて下さいました。何よりもギデオンの求めに聞き応えてくださった神の憐れみを思わされる。
 私たちは、疑いや恐れを抱いている時に励ましを必要とする。神は恵み深くも、一度ならず二度までもそれを与えられる。この出来事を根拠として、自分が決定を下す前に神にしるしを求めようとする人々がよくいる。しかしそれとギデオンのしていることは違うということを確認したい。彼は神のみこころを知っている。彼に必要なのは、神の臨在が保証されることでした。神は、疑ったり恐れたりしている人々のありのままの状態を受け入れられて、御力をお与えになる神を改めて知った人であったということである。
 私たちも主を第一とし、確かに御業をあらわしてくださるお方がおられることを覚えて歩む者とならせて頂きたい。この信仰に立つことが恐れと疑いから解放されていく方法なのである。

主題 <それぞれの賜物を用いて> 

聖書箇所 士師記 5章      (2012年 9月25日)
今日のみことば「目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕らえて行け。アビノアムの子よ。」(12)
 5章は、デボラとバラクによる勝利の歌が書かれています。
 デボラとバラクが、ともに神への賛歌を歌ったことは、人間的に見れば、不思議なことではないだろうか。バラクの臆病さと、デボラの勇敢さは、対照的であった。しかし二人とも、神によって用いられた。バラクは、始めはデボラの言葉を信頼し切れなかったのかもしれない。彼は、デボラに同行を求めた(4:8)。デボラは、このような神のことばに対する、バラクの不信仰な答えに当惑したかもしれない。彼女は、またバラクの不信仰のために、彼は栄光を得ることができないと預言した(4:9)。しかし彼の不信仰は、イスラエルを救うという神のみわざの妨げにはならなかった。デボラはまさにイスラエルの母と呼ばれるのにふさわしかった(7)。
 神は、女性のヤエルを、戦いの勝利のために用いられた。彼女の家とヤビンの家は親しかった(24-31)。敵の王と親しかったということは、イスラエルにおいては、これまでは、必ずしも評判の良いことでなかったかもしれない。しかし、イスラエルの勝利を決定付けるために、神はそのような関係にある者をも用いられた。
 神のみわざは、決して一人の特定な人が担うのではない。一人一人の力にも、信仰にも限界がある。神は一人の足りなさを、他の人によって補われる。また神は、一人一人を、その賜物に応じて用いることがおできになる。
 5章の勝利の歌は、それぞれの賜物が用いられて勝利したことを歌っている。チームワークの勝利の歌と言える。今日私たちは共に戦う信仰の仲間があることを感謝し歩みたいと思います。

主題 <神のみこころを求めて実行する>

聖書箇所 士師記 4章      (2012年 9月24日)
主題 <神のみこころを求めて実行する>
今日のみことば「あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。」(6)

 士師記の最初のところには、イスラエルが神のことを忘れて神を捨て、その結果、外国人に支配されるようになり、その苦しみの中で神に叫び求めたとき、救い出されるというパターンが三回繰り返されている。きょうは四章を読むが、ここでもそのパターン通りのことが起る。
 デボラはそのような時代にあって人々をどのように導くべきかを示している。
 第一に、神の道を求めました。どのような立場においてでも、私たちが人を指導しなければならないとすれば、まず知らなければならないことは、神が何をさせようとしておられるかということである。
 第二に、明確な指示を与ました。デボラとは対照的に、バラクは気が弱くて、にえきらないように見える。彼女は神に頼っている。バラクは、神から任命を受けた後でさえ、頼ることのできるだれかほかの人を必要としている。
 神のみこころをはっきり理解し、そしてみこころに従おうと決断する時、私たちはデボラのように、他の人を励ますことができる。立派な指導者は、信仰と確信の人であって、それをいくらかでも他の人に伝達できる人である。
 デボラのように、神のみこころを求めて行ったように、私たち自身も主に求めていく者でありたい。そして、示されたのならば実行していく者となれるように祈りましょう。

2012年9月20日 (木)

主題 <弱さの中に奮い立てさせられる主>

聖書箇所 士師記 3章      (2012年 9月23日)

今日のみことば「エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」 (31)

 ヨシュアの死後、ほどなくして、イスラエルは主に背いた。神は民をアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡された(8-11)。この苦しみの中で主に呼び求めたイスラエルに、主はオテニエルを最初の士師として立てられた。続いて、エフデ、さらにシャムガルを士師として立てられていく。
 士師たちは特別に優れていたという面はなかったように感じさせられる。特に、エフデの「左きき」は、直訳では「右手の不自由な」と訳される。むしろ弱さを持っていたということを思わされる。シャムガルについては、戦いに用いた「牛の突き棒」は、何らかの農機具を指すと思われる。彼は、大した武器も用いないで六百人のペリシテの戦士を倒したのである。
 彼ら士師たちは、「主の霊が彼の上にあった」(10)ゆえに、民たちを守り導いていったように、主の働きがあってその務めを果たして行った人々であったと言える。
 パウロは「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)と言ったことを思い出す。
 弱さの中にも主の力、働きを見させて頂けることを覚えて日々の戦いに出て行きたいと思います。

主題 <戦いの中で取り扱われる主> 

聖書箇所 士師記 2章      (2012年 9月22日)

今日のみことば「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」 」(22)

主の契約の民は、カナン人と契約を結んだり、異教の慣習を残してはならなかった(2)。しかし、イスラエルの民たちは主の命令に徹底することができず、何度も失敗を繰り返す民に、主はさばきを伝えた(3)。民は声をあげて泣いたが、真の悔改めには繋がらなかった(4、16-19)。ヨシュアとその世代の民は、失敗しつつも、主の大きなわざを見、主に仕えることを知っていた(7)。しかし次世代の者は、主を完全に捨て去り、他の神々に仕えるようになってしまった(10)。
 11~19節には、士師記の中にたびたび繰り返されるパターンを見る。それは民の背信→主のさばき→民の悔い改め、嘆き→士師による救い→ふたたび背信というパターンである。ここでもイスラエルは、さばきつかさにも聞き従わず、士師の死後はなお堕落する(17、19)。民は主のあわれみによってのみ守られるのだが(18)、不誠実を犯し続けていく。
 主はカナンの先住民を、イスラエルの周囲に残された。それはイスラエルが「主の戦い」を貫徹できなかったためだが(20)、主は戦いを与えることによって、実際にイスラエルが主に従うかどうかを知ろうとされた(21、22)。困難な闘いの中で、それでも主に従っていくかを試される、訓練されていくことがある。私たちも日々の闘いの中で、信仰の勝利を得ることができるように祈ろう。

主題 <主からの使命の不徹底>

聖書箇所 士師記 1章      (2012年 9月21日)

今日のみことば「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」(19)  

 士師記は指導者ヨシュアの死後のイスラエルの民がカナンの地にてどのように生きたかが語られており、ヨシュア記に引き続くイスラエルの歴史を見ることができる。
 ヨシュアは主の民を約束の地に導き、各部族ごとに相続地を割り当て、そこを占領するようにと命じていた(ヨシュア23:4~6)。民は割り当てられた地を、主のものとしていく必要があったが、徹底していなかった。
 最初ユダ族は、ペリシテ人の地において勝利を収めたようだ(18)。しかし、占領できなかった。谷の住民は鉄の戦車を持っていたからだと記されている。主が共におられたのに勝利を完遂することができなかった(19)。ベニヤミン族も同様であった(21)。そこには最後まで占領を徹底しない、イスラエルの問題がある。
しかし共通の弱さが私たちにもあるのではないだろうか。捨てるべきものを捨てず、やめるべきものをもやめない甘さはないだろうか。自らの力ではなく、共におられる主の力に信頼する必要があるのは、現代の信仰者も同様である。小さな妥協は、次の大きな妥協を生む。
 士師記の最大のテーマは、民の不徹底、不従順と言える。追い払うべき民を追い払わず、やめるべきことをやめなかったので、霊性は落ちていった。しかし、ヨセフ族には完全な勝利があった(22-26)。主の臨在と共に、知恵を用いての勝利であった。民が主に従うことの重要性は、繰り返し強調されている。失敗のときにこそ、真の悔改めの実を結ぶチャンスとしよう。

主題 <私と私の家とは、主に仕える> 

聖書箇所 ヨシュア記 24章   (2012年 9月20日)

今日のみことば「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15)

 シエケムで再び神様の契約をイスラエルの中に語りなおしている。23章にもある通りの祝福とのろいの分れ目は、主を愛し、主を恐れ(14)、主に仕える(15、18、21、22、24、)ことです。
 指導者ヨシュアは『私と私の家とは』と控え目に語るが、イスラエルに激しい挑戦をしたのである。最後にいのちある限りにおいて、人々に対して、主に仕えるか、偶像に仕えるかを迫ったのです。
 それは主なる神が『聖なる神であり、ねたむ神である。』(19)ことを深く知っていたからです。神を愛する者には恵みを千代にまで及ぼし、従わないものには神からの審判がある。
 イスラエルが出エジプトの後、シナイの荒野で不信仰、不従順のためにどんなに神の心を傷付け、悲しませ、主のことばとおりに滅んでいったことか。
31節にあるように、『そのすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた』という聖句にギクリとさせられている。
 控え目だが、ヨシュア自身とその家族は腹が決まったのです。そして全イスラエルに霊的決断を促している。今、どう応答すべきなのであろう。この世半分、神半分では祝福を受けそこなう。

<祈り>主よ。ヨシュアの激しい主を愛する心に動かされています。生涯を貴き主に仕えます。アーメン。

主題 <十分、気を付けて、主を愛しなさい>

聖書箇所 ヨシュア記 23章   (2012年 9月19日)

今日のみことば「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」(11)

この聖句には不思議な感動が伴う。「あなたがたの神、主を愛しなさい」という内容だが、「十分気を付けて愛せよ」と命じられている。
ヨシュアは、年老いてこの世を去って行く自覚を持つがゆえに、大事な遺言を残している。随分長い間を荒れ野からカナンまで、怒濤のような信仰生活を歩んできたヨシュアにとって、残してゆく人々へただ一つの遺言がこれなのです。時代は違っても、この教訓は深く心に刻んでおかなくてはならない。
第1に、あなた方の神があなたのために戦うという驚くべき事実である。
 この神についての深い霊的信仰こそ勝利の秘訣である。この神にのみにとことん仕えるのです。
第2、もし堕落して神に仕えないなら、同じ約束の神の言葉が裁きに変わる
 のです。ぞっとするようなかとばが後半に記されている。
第3に、それゆえ十分に気を付けてあなたの神、主を愛するのです。
 十分気を付けてとはなし得る限りを尽くしてである。

<祈り>主よ。あなたの大きな愛と真実のゆえに、祝福と裁きとが共にある事を知り、主に仕えさせてください。アーメン。
<きょうの課題>

主題 <語ったことばを聞いて満足した> 

聖書箇所 ヨシュア記 22章   (2012年 9月18日)

今日のみことば「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」(30)

 人生にも信仰生活にも思いもよらぬハプニングに見舞われて、大騒動に巻き込まれることがある。ヨルダン川の東に所有地を得たルベン、ガド、マナセ、の半部族は主の律法に違反して巨大な祭壇を築いて大きな誤解を招くことになる。
 このため、ついさっきまで同じ民族として力を合わせ戦った仲間が、すんでのところで戦う危機に直面したのです。小さなつまずきによって大事件に直面した時、どのような態度で臨んだらよいのだろうか。この聖書の箇所から学んでみよう。このような危機に当たり、賢明な処理をしたことがわかる。
1、処理が速かったこと。問題を困難にするケースでは、遅らせて 
 失敗する場合がままある。勇気が必要だが、問題の解決への迅 
 速さを学びたい。
2、適切な調査がなされた事。
3、両者が心を開いてまっ正面から話し合った事。この心を開くこと
 が最も大切である。
4、十二部族は一つであるという最高の動機でもって解決したので
 ある。
 こうして、互いに語った相手の言葉を聞いて満足したのです。
33節にもこれに満足したと念を入れて記録している。ハレルヤ。
<祈り>主よ。問題がないことよりも、問題に対して熱い心で真剣に取り組む情熱をください。アーメン
<きょうの課題>

主題 <主が約束されたすべての良いこと>

聖書箇所 ヨシュア記 21章   (2012年 9月17日)

今日のみことば「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(45)

 一つの部族として土地を持たないレビ族は、各地域ごとに放牧地を持つことになる。こうして、すべての約束の地の相続分割は完了しました。
 しかし現実はまだ占領し終わってはいなかったのです。約束を握って信じたのである。『主はすべての敵を彼らに渡された』(44)事を確信した時に、本当の勝利がきた。全部が手に入った時わかる、信じられたでは本物の信仰ではない。祈ったなら、物事が変わるにはまだきわめてほど遠いように思えるときに、信じて感謝することこそ、主に喜ばれるキリスト者である。
 『主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現した。』(45)
 神様の側から見る時、全部がイスラエルのものになっておます。現実は必ず後からついて来ます。すべてのよい事は、一つもたがわずみな実現する事を霊の目でとらえて受入れ、感謝をし始めよう。賛美をし始めよう。困難な問題も、戦いも、神の側から見つめて感謝する成長した信者になろう。
 コリント2章9節も並行して読もう。

<祈り>主よ。あれほど恐れていた戦いも、あなたが共にいてくださるゆえに一つもたがわず実現すると信じ感謝します。 アーメン
<きょうの課題>