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2012年5月10日 (木)

主題 <代々にわたりアマレクと戦う>

聖書箇所 出エジプト記 17章  (2012年 4月29日)

今日のみことば「「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。」 (16)

 民は旅を重ねてレフィデムに来たとある。そこに水がなかった。どんなに喉がかわき、あそこまで行けば水があると期待して励んできたのに、そこでは水のない失望に陥った。期待が大きい時にそれに反する失望を黙想したい。 民は主を試みて、水のしるしを求めたのです。そこで人々はモーセの生命さえ奪おうとする。それほどの激しい失望であった。だがここでも主は岩から水を湧き出したのです。たえず奇跡をもって導いている。
 ところが、このように水がなく、失望している最中にもっと恐ろしい困難がやってきたのです。アマレクからの攻撃です。
 『泣きっ面に蜂』という言葉があるが、弱りきっていたとき、内側では人々と指導者モーセとの間の確執があるとき、そういう最もみじめな時に、アマレクが攻撃をしかけます。忘れることのできない苦難でした。
 モーセが山上で手を挙げて祈り続けます。もはや祈りしかないのです。いや、祈りという最良の道が授けられていた。モーセでも腕は疲れる。祈りの手がたれることもある。アロンとフル。主はこうしたアマレクの無情な敵対行為を覚え続けている。やがて、納得のいく救いがくることを信頼しよう。<祈り>主よ。今私のうちにある敵意を清めてください。ただあなただけが、私の問題を除き去り、祝福に変えられるのですから。アーメン。
<きょうの課題>

主題<シンの荒野に入った> 

聖書箇所 出エジプト記 16章  (2012年 4月28日)

今日のみことば「ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。」(1)
 出エジプトの旅路は、ついにシナイ半島の中頃にさしかかったのです。別地図のあとをたどってみよう。
 エリムは荒野にあるオアシスである。砂漠のただ中にある緑の感動を想像して見たい。しかし、いつまでもエリムにとどまっていられない。
 こうして遂に、シンの荒野にはいった、と言う。荒野は文字通りの何もない地域である。砂漠のど真ん中に入っていったのです。小さな道のあとをたどって幾万の民が旅をする。荒野は何もない。緑も家も、変化もない。食料もないし、安息する場所もない。「シンの荒野にはいった」と何気なく記されているけれども、そこには人々の必死の思いを読み取ることができる。
 シンの荒野は、パンがないのです。水がないのです。こここそ、神さまの恵みを経験させていただくべく神の用意した場所でした。しかし、イスラエルの民はここでつぶやき、失敗してしまう。そこの場所に立って見て始めてその気持ち、失望とやりきれなさを想像できた。
 ですが、イスラエルの民にとってこの荒野は最高の場所であるはずです。ここは約束の地、乳と蜜の流れる地へのどうしても通過しなければならないポイントでした。それは約束の地への通過点であることです。
<祈り>主よ。あなたを荒野で信頼して知るのは難しいのですが、昔の人々の歩みの中から、私を訓練して成長させてください。アーメン
<きょうの課題>

主題 <主に向かって私は歌う>

聖書箇所 出エジプト記 15章  (2012年 4月27日)

今日のみことば「そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。」(1)  

 モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。」と書き出す。 これほどの大きな救いのみわざを体験したのですから、賛美することはむずかしいことではない。1~18節には、実に具体的に救いのみわざを告白している。紅海を分ける出来ごとは、イスラエルにとっては救いのしるしであり、敵であるエジプトにとっては滅びのしるしなのです。
 これらの素晴らしいみわざは、決してイスラエルの力でもなければ、モーセの功績でもない。ただ静かに神のみわざを見つめることによってだけです。 賛美の最後に、「主はとこしえまでも統べ治められる」と締め括っている。とこしえまでも神さまの支配は変わらない。永遠までということは、きょうもという意味なのです。きょうの一日も、紅海を分けた出来ごとも同じなのです。全能の神さまは、この私に関わってくださる。
 賛美は高々と立ち上がるけれども、間欠泉のようにしばらくは消えてしまう泉であってはならない。
 主に向かって私は歌う。この心の態度をいつもしっかり覚えたい。
<祈り>主よ。あなたの前に、救いの喜びを賛美し、あなたの栄光を絶えずほめたたえるものにしてください。ア-メン。
<祈りの課題>  

主題 <主の救いを見なさい> 

聖書箇所 出エジプト記 14章  (2012年 4月26日)

今日のみことば「それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。」(13)
  ついにイスラエルの民が紅海を渡ったのである。
 神の救いをじっと目を凝らして見よ、と命じている(13節)。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(14節)
神さまの導きはその時に理解できない場合が多々ある。1~3節には、不思議な場所にイスラエルの民を導いてゆかれている。出口のない行き詰まりの場所で、前には紅海、両側には山、後ろにはエジプト軍が迫ったのです。2節を読むと、神さまはわざわざここに連れてきたようです。
 なぜだろうか。人間的に考えても分からないのです。ですから、10~12節には、あわてふためく姿が表現されている。エジプトに墓がないからここで死なせようとしている、エジプトの方がよかったとつぶやく。
 困難のただなかにおかれて、なぜだろうかといぶかり、問いかけない人はいないだろう。よりによってこに自分にこんな苦しみがと。
 13~14節は、暗記していい、いや暗記しなくてはいけないような聖句です。この神さまの約束を今の自分の具体的な問題にあてはめたい。そして、主が代わって戦ってくださること、黙って主の救いを見ること、信じる生き方を第一のつとめにしなくてはいけないと肝に銘じたい。
<祈り>主よ。わたしの今日一日のあゆみが神様の素晴らしさをあらわす一日としてください。困難な事柄のなかで。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <雲の柱、火の柱>

聖書箇所 出エジプト記 13章  (2012年 4月25日)

今日のみことば「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」(21)

 前半は初子の聖別と過ぎ越しの記念を明かに教えている。
後半は、いよいよ出エジプトの旅が開始されたことが述べられている。全能の神は、イスラエルを昼は雲の柱で暑い日中を守られ、夜中は火の柱で民に平和を与えつつ導かれたのです。 
 17節を見るときに、とても驚くのです。偉大な神様が、イスラエルの心をしっかりと見据えているのです。強力なぺリシテの地を通過する道を選ばれなかったのは、人間の心の弱さを御存知なのである。
 やっとエジプトを出たにもかかわらず、ぺリシテの攻撃のため再びしりごみせぬように別の道を求められているという。
 今日まで導かれてきた道を考える時に、やはり神様の忍耐強い愛の導きに感動させられてしまう。もっと直線的に行ければはるかに合理的であろうに、と思えるが、人間は合理的には生きられないのだ。ずいぶん曲がりくねった道のようだが、神様が個人個人に目を留め、心を用いていてくださる。昨日の道のように明日の道を神様は探し求めている。近道ではなく、神様の道に安んじてついていこう。
<祈り>神様今日も神様が最善な道を用意しておられることを信じ、お任せして平安の中についていけますようにお守りください。アーメン。

主題 <永遠に守りなさい>

聖書箇所出エジプト記12章15~51節(2012年 4月24日)

今日のみことば「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(14)

 イスラエルに刻まれた救いのみわざを記念する過ぎ越しの祝いは、永遠に守らなければならない。私たちの救いの原点を忘れることは出来ない。罪からすくわれる福音の言葉を聞いて、信じて受け入れ神の子どもとなったのです。
 『あなたとあなたの子孫のための掟として』(24節)である。あなたとあなたの子供達が『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、27節「あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過ぎ越しのいけにえだ。主がエジプト人を打つたとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』と。」救いの恵みの継承について考えよう。暗黒と地獄のようなさばきから、救いの驚くような素晴らしい体験を味わっている。この恵みを子供たちへしっかり継承したい。その子がまた子供へと継承したい。どうすればよいのか。神はエジプトにいた時からそのご計画をモ-セを通して語られている。それは過ぎ越しの祭りを永遠に行うのです。
 エジプトでのパン種の入らぬ純粋なパンを焼く、苦難を思う苦菜、そして傷のない羊をほふり続けるのです。この日を暦を変更してイスラエルの正月としたのです。ちょうど神の子イエス様が神の怒りのさばきを十字架において受けられ過ぎ越しの小羊となったイエス様が来られた日を起源としたようにです。救いの恵みを決して忘れないように教会は聖餐式を執行する中で、個人では絶えず救いの証しを忘れまい。

主題 <その血を見て> 

聖書箇所出エジプト記12章1~14節(2012年 4月23日)

今日のみことば「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(13)
 旧約聖書中の最大のできごとである。
 神は暗黒なエジプトの隷属状態に、救い手としてモーセを派遣して、ついにパロ王やエジプト人からの解放を実現したのです。こここそ、イスラエルの出発点であり、いつも振り返るところなのです。長い歴史の中で絶えず自分の原点に立ち返る場所である。
 その夜、家ごとに小羊がほふられ、その血を門とかもいに塗られた。子羊の肉を食べ、種いれないパンを食べる。苦が菜を添えて食べるのです。
「朝まで残さない」と言う言葉を鍵のようにして黙想したい。残しておかないと言うことは徹底するということに通じる。神さまの恵みに対してどこまでも信じて生きるしかないのです。
 神のさばきは徹底している。あらゆる世界にも届いているのです。王家にも、エジプトのすべての家庭に、動物さえも届く。神の御使いの通られる所には大きな悲しみが残されたのです。
しかし、過ぎ越しの小羊の血を塗った家は救われたのです。この血潮によって救われることを信仰を持って受け入れた家族は、みな救われました。使徒の働き16;31節の成就でした。そのように救いのみわざもまた徹底していることを知らなければならない。
 その血を見て通り越そうと言う。今精一杯、主の恵みに安息するべく飛び込もう。
<祈り>主よ、小さなものに対する大きなみわざを心から賛美します。いつもこの原点に立たせてください。ア-メン 
<きょうの課題>

主題 <非常に尊敬され>

聖書箇所 出エジプト記 11章  (2012年 4月22日)

今日のみことば「主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」 (3)

 

モーセによってなされた数々のさばきの奇跡がなされていくことによって、とても不思議なことがエジプトで起こってきていた。それはモーセが非常に尊敬を受け、イスラエルの民は好意を持たれるようになっていたことがわかります。
神のなさることは完全で徹底している。奴隷として苦しんだ民を救出されるのは、一人残らずに(1)脱出できるのです。
しかも、脱出する民に対して金銀を与えられるような待遇となるのです。夜逃げ同然のみじめな脱出ではなく、王者のような出陣を思わせる。
この救出にあたり、エジプトの長子を打たれたのです。あちこちで悲しみと嘆きがわき起こります。
神はパロの心をかたくなにされて、いっそう神のみわざが明瞭にされて行きます。私たちの周囲に起こるさまざまな問題が、いつまでも解決されないように思えるとき、失望してはいけない。祈り続けることが重要であることを主が教えている(ルカの福音書18;1-8)。
神のなさることは時機にかなって最善な時です(伝道者の書3章)。時に神が家族や周囲の人々の心をかたくなにされたような状況に置かれるかも知れない。しかし、忍耐と信仰と希望こそ、私たちの握っているべき力である。

主題<わたしが主であることを、あなたがたが知るため>

聖書箇所 出エジプト記 10章  (2012年 4月21日)

今日のみことば「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」(2)

 主をしんじて救われ、信仰が一人個人の生活に結びつくことはとても重要なことです。救われて、礼拝を厳守し、主の日を忠実に歩むことがどれほど大きな意味を持つかは自分の子どもや家族、周囲の人々への証となります。その救いを代々語り継いでゆくのです。子どもたちがなぜ、お父さんが、お母さんがそれほど神を愛し、隣人に仕える生き方をされているのか、ぜひ知りたいと願うようになってほしい。
 神は、イスラエルを苦難から救われて、乳と蜜の流れる地、約束の地へと導かれるのに、エジプトを用いられ、奴隷からの解放の道を用意されたのだろう。その神の恵みを語り継ぐための配剤であった。
 イスラエルの中に神の計画が進められることには、神の干渉が豊かに現わされたのです。神は、十の数々の奇跡によって神の民とエジプトを区別し、特別に取り扱われていることを明らかにされた。
エジプトのパロ王は、神に従わないことによって自分で自分の「心をかたくなにした。」のであり、裁きを身に招きます。神が罪を示されて「私は罪を犯した」(16-17節)と告白したにもかかわらず、神に従わずに、滅びを刈り入れたのです。
 こうして神が生きておられ、ご自分の民を特別に取り扱われていることを知らされたのです。それは、今の私たちに対する神の取り扱いでもある。どれほど大きな罪と失敗を重ねても主の十字架による完全な愛を明らかにしているからです。

主題 <今度はわたしは罪を犯した>

聖書箇所 出エジプト記 9章   (2012年 4月20日)

今日のみことば「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私に民は悪者だ。」」(27)  

 第5~7番目の裁きがなされる。疫病(1~7)腫物(8~12)雹(13~35)である。かたくなに心を閉ざしているパロにとって、次つぎと行われる神のさばきに戸惑いと逃げの姿勢ばかりである。
 27節に「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪い者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹はもうたくさんだ。」と告白する。
 罪に対する深い悔い改めを経験しない時、ただうわべだけのとりつくろいに終わってしまう。神のメッセージへの真剣な応答をもって受け止めないとき、その信仰は偽善となる。柔らかな心で神を崇めよう。
 そうでないと、一つの問題がなくなったとき、再び強情に帰ってしまうのである。(34節)
 信仰に徹するとは、自分の罪に対して本当の悔い改めをすることである。聖書の中に、「私は罪を犯した」と告白したが、救われた人は二人だけだったのです。ほかの7人は、このパロ同様に、神の愛の働きかけも届かなかったのです。なぜそうなるか、一緒に考えて見たい。
 自分の本質を見極めて、変えることをしないとき、パロのようなかたくなさによって滅びる危険がある。
<祈り>主よ。あなたの前に、本当の自分をあらわし、このような者を限りなく愛してくださる救いを受け入れさせてください。ア-メン。