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2012年2月

2012年2月 2日 (木)

主題 <互いに愛し合うという神の命令> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 3章 (2012年 1月16日)

今日のみことば「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(23)

1~12節では、キリストにあって神の子どもとされている者と罪を犯し神に逆らっている者が対されるように語られている。神の子どもとされている特権として、再臨の時、主イエスのありのままの姿を見るという、信仰による希望が示されている(2)。それ故に、私たちを、罪に背を向け道徳的な汚れから遠ざかる清さを求める思いへと導いていると言われている(3)。しかし、対照的に、罪を犯している者は神のおきてに背き、神に反逆している(4)。このことからすると神についての知識を誇り、神に従う道徳的な生活を否定するグノーシスの人々は、神に反逆しているのである(6後半)。そもそも罪は悪魔から出ており(8)、神から生まれた者は罪のうちを歩まないし、罪のうちを歩むことができないのである(9)。
13節以降では、兄弟愛について教えられています。ヨハネはこの世にあって、キリストを信じる信仰によって救われた私たちは死からいのちに移った証拠として、兄弟愛が与えられている(14)。そしてこの愛は、イエス・キリストの十字架によって、私たちにもたらされた愛である(16)。キリストのように、私たちも兄弟のためにいのちを投げ出す覚悟で兄弟を愛すべきであることを覚えたい。
また、愛するということは自己犠牲を払うということでもある。(17、18)。私たちは何かを犠牲にすることはしたくないと思ったり、犠牲を払うことは難しいと考えていることはないだろうか。そのようなときこそキリストの模範にならうことである。
 私たちの交わりが愛のうちに築き上げられることを願っておられる。そして、そのように歩むことが神の命令に応答した歩みであるということを覚え、今日を歩ませて頂きたいと思います。

主題 <キリストのうちにとどまっていなさい>

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 2章 (2012年 1月15日)

今日のみことば「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(28)

 一章の後半で触れた罪の赦しについて、ヨハネはさらに詳しく説明していきます。
クリスチャンは、サタンによる罪の支配の原理から解放されている(ローマ8:2)。しかしこの肉体にある間、罪の誘惑にあい、罪を犯す可能性を持っている。しかしもし私たちが罪を犯しても、罪を告白して悔い改めるなら、神はそれを赦してもう一度神の御前に立たせてくださる(1:9)。それは私たちを含む全世界の人々の罪の赦しのために十字架にかかり、父なる神へのなだめの供え物となってくださったイエス・キリストが、今も父なる神のそばで、私たちのために弁護してくださっていることを確認するように教えられている(1-2)。
また、罪赦された者にとって、神のみことば(命令)は、神に従う人生を導く(3、4)。また、みことばを守って生きることは、実際の生活の中で実行されるくべきであることを教えられました。
 12~17節では、信仰者がどのように生きていくべきかについて勧められ、特に、信仰に生きている「父たち」と「若い者たち」に、ヨハネは警告を書き送っている(15)。ここで言われている「世」とは、「神に創られた被造物世界」や「この世界に住む人々」の意味ではなく、「神様を抜きにした世のあり方と、その全体」の意味である。つまりサタンに支配される世である。この世が関心を持つのは、「肉の欲」(自分中心、人種差別、不倫等)、「目の欲」(肉の欲への入り口となる)、「暮らし向きの自慢」(財産や学歴など)である。しかしこれらは、一時的な、過ぎ去ってしまうものである。
 18節以降2章の後半では異端について警告している。異端の働きは今日も見るものである。このような中で私たちはどうすべきかについて、ヨハネは「キリストのうちにとどまっていなさい。」(28)と繰り返し教えています。私たちが主イエスはキリスト(救い主)と告白し続け、キリストのうちにとどまり続けていくことが、主の再臨の時に恥じ入ることなく、全うできるということを示されたのでした。

主題 <光の中に歩む> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 1章 (2012年 1月14日)

今日のみことば「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7)

 使徒ヨハネは十二弟子の中で長く生き、初代教会の各教会における長老的役割を担った。新約聖書中、ヨハネだけが福音書、手紙、黙示録とを書き残していることからしても多くの影響を与えてきたと言えよう。
 このヨハネの手紙第一の書かれたのはヨハネの晩年の頃で、各教会も最初に救われて教会の形成に尽力してきた人たちから、その子供たち、第二世代、第三世代の若い人々が教会の中心になってくる中で、直接には主イエスにお会いしたという人が少なくなってきた中で、これからの世代の人々に伝えていくべきことを意識して執筆されたことが伺える。また、グノーシスと呼ばれる異端に動揺させられているクリスチヤンたちに警告すべく執筆された。
ヨハネは、自分たちが信じて救われた「福音」の根源についてさかのぼる。それは彼が、「ヨハネの福音書」で記していることにも通じる。ここに書かれているお方は、私たち(信仰者)に神からの永遠のいのちをもたらしてくださったお方であると同時に、神の御子として、御父と固く結ばれたお方である。このお方を、ヨハネたちは五感を通して経験した(1)。そして、そのお方のことをこの手紙を読むキリスト者たちがよく知ることによって、信仰の交わりが完全なものになることを期待して書き送りました(4-5)。
ヨハネは、自分たちが親しく体験した神の御子イエスについて語り、その方に導かれる人生は、罪の中を歩まないと宣言している。当時のグノーシス主義は、自分たちのうちにある真理の知識(グノーシス)に目覚めれば、その後の生活は禁欲的なものでも、道徳的に放縦なものでも、問題ではないとしていた。しかしヨハネは、本当に神を知って従う者の生き方は、光にたとえられている神の(5)、きよさ、正しさ、愛にあずかる生き方であると言う。たとえ一時的に罪の暗闇の中を歩くことがあっても、罪を悔い改めて神に立ち返る(9)。罪の悔改めを、いつでも受け入れてくださる主イエスがおられることを教えられ、主からの赦し、きよめて頂くように勧めました。
キリストに似る者としてふさわしく、きよい、生きた証のともなう歩みをしていけるように祈りましょう。

主題 <神の大きな忍耐を知る>

聖書箇所 ペテロの手紙第二 3章 (2012年 1月13日)

今日のみことば「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(9)

 現代は終末の時代です(3節)。だから、神に従わない不敬虔な人々がはびこります。
こうした時代に生かされているあなたが、心得る三つのことを8節に記しています。
1 他の人々に動揺させられないこと 

                                         

2 神は実に忍耐深い

                                         

3 悔い改めに進むことを願う神

                                         

神を信じる生活が、新しい世界を待ち望む素晴らしい信仰に支えられるものです(13節)。
今日をどう生きたらいいでしょうか。
1)11節                    

2)12節                    

3)14節                    

主題 <敬虔な者たちと不義な者ども>

聖書箇所 ペテロ手紙第二 2章  (2012年 1月12日)

今日のみことば「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」 (9)

 この章には悲しい記事が満ちている。その中心は、自分たちを救ってくださった主を否定するにせ教師が群れの中から出てきて、自分が速やかな滅びを招くだけでなく、多くの者が彼らの好色にならうからです。
悪い人はその人だけではなく、仲間をつくり、共に滅びの道連れをつくる。サタンは文字どおりそのように地獄の子を連れ込んでいる。
 敬虔な信仰者は影響力をもっている。だがしばしば悪の誘惑にさらされて悪戦苦闘しているのだ。9節に『主は誘惑から救い出してくださる。』と証しする。
 不義な者どもは、どの様に働いているのだろう。
1)滅びをもたらす異端を密かに持ち込む
 作りごとのことば、によって人々を食い物にする。
2)汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩む、(10)多くの者が彼らの好色 にならってゆく。
3)高ぶって、権威を侮る(10)
 大胆不敵で、尊大な者、栄誉ある人をそしる。
周囲に同じような不義と見える人々がいたときに、御使いのような賢さを学んでおきたい。(11)なぜなら、神が神であられることをまもなく示すのですから。
<祈り>主よ。幸いをこわさないで、作り上げる一日としてください。

主題 <備わりますます豊になるなら> 

聖書箇所 ペテロ手紙第二 1章  (2012年 1月11日)

今日のみことば「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(8)

この書は、神を知ることの素晴らしさを各方面から上げて、ますます豊かになるように励ましている。3回『ますます』とあります。
 消極的だが、神と主イエスさまの恵みを知らない時には、
1)役に立たない者、(8)
2)実を結ばない者、(8)
3)近視眼であり、盲目で、きよめられた事を忘れる。(9)
4)つまずく(10)
積極的には、
1)いのちの敬けんに関するすべての事を与える。(3)
2)世の欲を免れ、神の御性質にあずかる。(4)
3)永遠のみ国に入る惠みです。(11)
このために、5~7節にあるように1つの徳に追加的に、補うように、加える努力をしていくのです。
例えば、『信仰』に対しては『徳』を加えていく。信仰だけで十分であろうと思われるものにプラスアルファをする事で一層神を知る事となり、ますます豊かにされてゆくのであり、神の御性質に似る者とされてゆくのである。 
<祈り>主よ、一つの性質で安んじていないで、そこに新たに徳を加える事によって豊かにされますように。
<きょうの課題> 
あなたがますます豊かになる歩みを記して下さい。

主題 <信仰にあって堅く立つ> 

聖書箇所 ペテロ手紙第一 5章  (2012年 1月10日)

今日のみことば「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(10)

ぺテロの手紙第一の最後の章である5章において、具体的な勧めをなしている。この勧めは単なる論理的な勧告というよりは、これまでのぺテロの過ちや失敗から多くを学んだ純粋な経験に基づいてのものであったと言えます。
 「神の羊の群れを、牧しなさい。」(2)とあるが、かつてペテロも復活の主にお会いして、再献身した際に、「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と命じられた。教会の誕生から間もない初代教会において、各地に誕生した教会、キリスト者たち牧会することは、重要な働きであった。また、迫害の中の困難が予想される中では急務でもあった
「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」(5)とあるが、これはいつの時代においても重要なことである。かつてぺテロはイエスに足を洗って頂いたことがあったように(ヨハネ13:1~17)、主イエスの模範のように謙遜さを学び身に着けていくことが出来たらと願わされる。
「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(9)とあるが、かつてぺテロは主イエスの裁判の場に居合わせて、三度主を知らないと否定したが、これは悪魔に試みられた経験であった。しかし、主イエスは「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ22:32)と執成して下さった。悪魔に力ずくで立ち向かうことは出来ない。しかし、悪魔の試みに対して重要なのは、イエスが祈って下さったように、「信仰」である。だから、ペテロは、「堅く信仰に立って」と強く勧めている。
 ぺテロの手紙第一5章10節では、この手紙をしめくくるにあたり、単に戒めて勧告したのではなく、弱さや失敗の中で、今は恵みとあわれみによって生かされていること、そして希望を語って手紙を締めくくっている。
私たちも失敗の中から学びつつ、主にあって恵みの内にあることを感謝しつつ歩ませて頂きたい。

主題 <苦しみのときに、主の御霊が> 

聖書箇所 ペテロの手紙第一 4章 (2012年 1月 9日)

今日のみことば「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(13~14)

 4章前半では、苦しみときよい生活について語っていきます。苦しみときよい生活に一見どこに接点があるかと思わされるが、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1)と言われているように、肉体において苦しみを受けている時に、私たちは、罪を犯すことから守られていることがあるのである。それは、人間は苦しみに中にあって神を求めていくようになり、神のみこころを求めていく者に変えられていくことがある。その模範を旧約聖書のヨブの姿に見ることができ、またイエスのゲッセマネの園での祈りの姿に見ることができる。苦しみは神から遠ざけること以上に神に近づけていくことに働くのを見るのである。
 7~11節に万物の終りが近いことを自覚しながら勧めをなしている。苦難の中にも積極的な生き方が勧められている。最終的にはキリストにあって神があがめる者となることを期待されている。
 ぺテロの手紙が書かれた頃、ローマ帝国の皇帝はネロ皇帝であった。ネロ皇帝は宮廷の庭で毎日、ただキリストを信じ告白するクリスチャンたちを焼き殺していたと言われている。
 4章後半では、「あなたがたの間で燃えさかる火の試練」(12)とあり、当時のキリスト者がどんなにいのちに関わる危険の中にあり、迫害下にあったかを連想させられる。 しかしながら、ぺテロはそのような状況にあっても、この事態を積極的に受け止めていくように勧めている(13)。
なぜなら「キリストの名のために避難を受けるなら・・・神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(14)と述べ、それは単なる空元気でも気休めでもなく、ぺテロの大きな確信があったからでした。
 かつて、ステパノも迫害の中に聖霊に満たされていた(使徒7:55)。苦難の中に、神の御霊、主と共にある恵みを改めて確認したい。

主題 <祝福を受け継ぐために>

聖書箇所 ペテロの手紙第一 3章 (2012年 1月 8日)

今日のみことば「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(9)

3章1~12節は、従うということ、特に夫婦関係において従うことについて勧められている。この勧めは当時の社会においては斬新なものでした。
 ぺテロは妻たちについては、無言のふるまいによって、神を恐れかしこむ清い生き方をし、柔和で穏やかな霊を心に持っていくように勧めました(1~4)。単に夫に従うというのではなく、神を恐れる信仰によって歩み従うということを勧めている。夫たちについては、妻をいのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬するように勧めました(7)。尊敬するということの中に、やはり神を恐れる者同士、互いを受け入れ合うという柔和をもって仕えること、従うことを勧めました。
 ぺテロは、人間関係において従うということが、互いを受け入れ合い、一致を築くことになり、その歩みは平和を求めていく歩みにもなることを教えている。神は困難の中にもキリストがそうされたように従い仕え合う歩みをする者を覚えて下さり導いて下さることを覚えよう(11~12)。
3章後半から4章全体にかけて、使徒ぺテロは新たなテーマで語り始めていきます。そのテーマを一言で言うならば「苦しみ」ということになると思います。
 ぺテロは前に「主の目は義人の上に注がれる」(12)ことを確認しているが、その義人、主にあって正しい歩みをしている者にも苦しむことがあるという現実を語っている。しかし、苦しみを否定されることではなく、積極的な意味でとらえているという面が注目すべき点てあると思います(14)。
 確かに苦しみなどだれも望まないでしょう。しかし、苦しみに直面するときがあるのです。それもどんなに正しい歩みをしているという人でもです。
聖書の中の人物で、ヨブにしても、そしてイエス・キリストにしても苦しみを経験したのでした。でもその苦しみは、より大きな祝福につながったことも事実であったことを覚えたいと思います。

主題 <キリストにならって>

聖書箇所 ペテロの手紙第一 2章 (2012年 1月 7日)

今日のみことば「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(21)

 使徒ぺテロは、ぺテロの手紙第一1章後半から神のみことばは変わることなく、私たちを導き、キリストの姿、み教えにより変えられていくことのすばらしさを語り、2章においても、その神のみことばによって成長させられていくようにと勧めている(2)。
 また、2章3~4節「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。主のもとに来なさい。…」と書き送っている。
試練の中にある当時のキリスト者たちに向けて語られたことを覚え、今日も
もどのような境遇にあっても、キリストにこそ真の愛、慰めがあることを覚え、キリストのもとに立つために、主のみことばに聞き、主を求めて行く者でありたいと思います。
 キリストのうちにある者たち、キリストを土台として歩む者たちについて、 「神の所有とされた民」と言われおり、神のものとされた人々により、さらにこの驚くべき神の愛、御業をあかしされていくためにも用いてくださるという恵みに感謝しつつ歩ませて頂きたい。
 11節~3章12節は、この手紙の中で中心的な内容が語らえている箇所である。使徒ぺテロはこの箇所で、どのように人間関係を築きあげていくべきかを教え、大きくは3つのことに触れている。一つは神を畏れるということ、二つ目に現実の生活において訓練される事、最後に他者に仕えることである。
 使徒ぺテロは、2章後半において、反対者たちに苦しめられていたとしても、善をもって行なうことを強く勧めている。時として私たちは反対者に対して、非難すべき言葉をもって対峙してしまうことはないだろうか。相手の非難の言葉を黙らせるのを考えるのではなく、むしろ良き業をもって仕える姿勢がいつしか反対者の心さえ変えられてくることになることを覚え、善をもって証していくことが重要である。(15)
 その模範となられたのは主イエス・キリストである。キリストこそがまずそのように地上において歩まれたということを覚えたい。改めて、私たちはキリストの歩まれた歩みを模範として歩ませて頂きたい。