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2012年2月

2012年2月 2日 (木)

主題 <ほかの重荷を負わせない>

聖書箇所ヨハネの黙示録2章18~29節(2012年 1月26日)

今日のみことば「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」 (24)

 主は、表面的な、また全体的な評価ばかりではなく、一人ひとりの行いに目を留め、その人にふさわしい仕方で対応してくださいます。主は、その姿をそれぞれの教会のようすに従い、姿を変えて表されているのです。テアテラの教会には、『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子」であります。その主が、わたしは知っている。あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を、と。
私たちのすべてを主は知っておられます。すべての長所を、よき行いを知っている。そして欠点も、問題も。けれど十ぱひとからげのように、評価がなされない。教会に属する私たちもまた、主は一人をご覧になっておられる。
問題が全体としてあったとしても、少数なきよく、誠実な歩みをしている人がいるのです。主はそのことをしっかりと語る。そしてそんな人には、ほかの重荷を負わせることをしないという。ほかの重荷、余分な心労を与えないのである。このことは、ひたすらに信仰の道を歩めばいいのである。「あの人はどうですか?」とたづねたペテロのような質問や戸惑いはいいのである。単純に、主に従う、主を信じる、主を愛する、その道でいい。

主題 <あなたには少しばかり非難すべきことがある> 

聖書箇所 ヨハネの黙示録2章12~17節(2012年 1月25日)

今日のみことば「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」(14)

私たちは、人の忠告を快く受け入れられないことが多い。忠告した人間をうとんじたり、反旗をひるがえしたりする。だが、神からの忠告は大切に聞かなくてはいけません。また、使徒のヨハネの説教にも耳を貸す必要があります。
神は知っているのです。サタンの激しい攻撃にも、そして仲間であった兄弟が殉教しても、信仰を捨てなかったのです。そんな素晴らしい面を持ちつつも、非難されるところがあったのです。
素晴らしい面があるので、よしとされるのではなく、だからこそ熱心になって悔い改めるのです。こうして忠告を聞き入れることによって、いっそう聖徒らしく整えられ、終末の時代にふさわしく待ち望む者に変えられて行きます。
非難を、忠告をしっかりと聞けた、そこにこのペルガモの教会の素晴らしさを思う。なぜなら聖書に残されていることは、そのことのあかしであろう。
2:17「 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」

主題 <わたしはあなたを知っている> 

聖書箇所ヨハネの黙示録2章8~11節(2012年 1月24日)

今日のみことば「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」(8-9)

今日は、神は私たちを知っておられる、ということを想起しましょう。
スミルナにある教会は、当時20万人の人口があり、そのうち三分の一がクリスチャンであった町です。聖書の中ではこの箇所だけです。主は、1章18節にでてくる姿を見せて、励ましを与えるのである。死んだが生きている、という主の復活を想起させてくれる。
信仰ゆえの苦難も、神は知っておられる。しばしば試練に立つと、自分が見捨てられてしまったかのような気分になるものです。だが、神は知っている。信仰生活ゆえの貧しさも、神にあって貧しくないことを知っている。そして受けようとしている苦しみさえも知り抜いておられる。
2:10「 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
この地上で、肥え太り、豊かになり、成功をおさめることが人生の目的ではない。死に打ち勝ち、天の御国に入り、主と一緒に栄光を共にするのです。だから、試練をわたしと一緒に歩もう、そんな思いがするのです。

主題 <しかし、あなたには非難すべきことがある>

聖書箇所ヨハネの黙示録2章1~7節(2012年 1月23日)

今日のみことば「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(4)

いよいよ主からの手紙、七つの教会へのメッセージが始まりました。七つの教会が何を指すかにはいろいろの考えがあります。当時、一つの政治的な結びつきがあった小アジア(今のトルコ)の区域の町のこと。また象徴的な町であるという考え方や世界の歴史の中に現れる教会の七つの姿を表す、などが主な見方です。
私たちにとって、エペソの教会はどんな意味があるのでしょうか。エペソ教会は、使徒の働きによると、パウロが腰をすえて伝道した町であり、その影響力たるや、アルテミス神殿の礼拝者が激減してしまい激しい迫害にあったほどの町です。
七つの教会の最初の教会として励ましと警告が記されていますが、忍耐強い恵みの教会であったのです。当時、信仰のゆえに大きな困難と迫害が満ちていたのに、どこまでも信仰を守り通していたのです。神は、私たちのそうした見えにくい信仰の戦いを知っているのです。
しかし一方、そうした忠実さにもかかわらず、生き生きした信仰からわき出る愛を見失ってしまっていったのです。多くの労苦があり、熱心があるけれども、一番大切な愛が欠落してしまった。こうした悲しむべきことが、私たちにもしばしば起こりがちなことです。主は、最初の愛に帰るように勧めます。そうでないと、光の燭台が取り去られてしまうと警告している。最初の救われた純粋な感動と喜びを思い出すようにと、主は望まれています。
今日の課題を書いて下さい。

主題 <イエス・キリストの黙示>

聖書箇所 ヨハネの黙示録 1章 (2012年 1月22日)

今日のみことば「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(1)

 いよいよ最後の書、難解な書だと思われています。しかし、聖書の中で最大の書と言えます。第一に、この世の終末と新しい世界が明瞭に記されているからです。神が世界を創造された目的は、ヨハネの黙示録で完成します。そして地上の激しい戦いもキリストの勝利の宣言でピリオドが打たれます。
 極めて困難な時代に生きた聖徒たちを、この書がどれほど支え、栄光に変えたことでしょうか。
まずしっかりと刻む言葉が、イエス・キリストの黙示、すなわちヨハネは啓示されたことを記したのであり、中心は、イエス・キリストそのものです。この1章に出でてくる栄光の主の姿を思い描くことが第一の作業です。
とても大事な11-20節に見られるイエス・キリストの姿を記して下さい。

                           

この主の素晴らしい姿は、2-3章にある7つの教会のそれぞれにふさわしいあり方で登場します。すなわち、主のご性格を必要とするところへ注がれるのです。
 栄光の主の姿をマタイの福音書17章で見た弟子の一人がヨハネです。その真実な証言が1章全体にちりばめられています。

今日の課題は、聖書の預言を正しく受けとめるにはどうしたらいいでしょうか

主題 <信仰のために戦うよう>

聖書箇所 ユダの手紙 1章    (2012年 1月21日)

今日のみことば「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3)

 キリスト者は平和の福音(エペソ2章11~19節)によって平和の道に導かれた。無用の戦いは避けた方が賢明です。
 唯一つの大事な事で戦うようにユダ(主の兄弟)はすすめる。それはキリスト教会が成立してまだ年月が経過していないにもかかわらず、ひそかに忍び込んで来たキリストの福音に似て非なる不敬虔な人々が入り込んで来たので、戦えと命じる。
 『神の恵みを放縦に変え』(4節)る危険は、この手紙の受取人である旧約を熟知する人々にあったのです。神の惠みを深く味わってから堕落する者についての姿はヘブル6章にあり、恐ろしい裁きが待っている。
 キリスト者が自己中心に振る舞い、8節にあるように『夢見る者、肉体を汚す者、権威ある指導者を軽んじる者、栄えあるものをそしる者』は、キリスト者の交わりを傷つけてしまう。愛餐のしみとはまことに身震いする言葉である。旧約をよく知るものとして神のなされた裁きから過去のことについての悔い改めから出発して今日どう生きたらいいのか、学びなおしたいものである。御使いのかしらミカエルのような態度で臨みたい(9節)。
<祈り>主よ。あなたは私を限りない愛をもって愛しておられることを知りました。あなたの愛を素直に受け入れます。感謝します。アーメン

主題 <善を見ならいなさい>

聖書箇所 ヨハネの手紙第三 1章 (2012年 1月20日)

今日のみことば「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」(11)

 ヨハネの手紙第三は、使徒ヨハネからガイオ宛てられた手紙であるが、ガイオについて、新約聖書では、マケドニヤ人ガイオ(使徒19:29)、デルベ人ガイオ(使徒20:4)、パウロから洗礼を授けられたガイオ(Iコリント1:14)、全教会の家主ガイオ(ローマ16:23)、そして、この手紙の中のガイオと五人いる。このガイオが、先の4人と同一かは不明である。しかし、長老から称賛を受けるほどの立派な信仰者であった。
聖書では、旅人をよくもてなすように勧められているが(ローマ12:13)、ガイオの行いは、真実な行為として称賛されている(5)。
 称賛されているガイオとは対照的にデオテレペスについて非難している。彼は、教会の指導者として上に立ちたがり、教会の秩序を乱し、混乱させていた。
このような状況にあって、ヨハネは「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい」と勧めました。ガイオの旅人をもてなすという非常に日常のことに忠実に、行なっている行為を評価しているように、要は人の上に立つことのように、何か名誉なことにあずかることが重要ではないことを、デオテレペスを引き合いに出して戒めているように感じられる。何にしても、重要なのは善を行うということであることを私たちにも教えてくれていることを覚えたいと思います。
ガイオはヨハネに健康を気遣われているようで(2)、もしかしたら病気か高齢であったのかもしれない。教会の指導的な立場にあるという人ではなかったのかもしれない。しかし、ガイオほど愛され、その働きを認められた者はなかったのではないだろうか。
しばしば、今日の教会も人知れず忠実に主に仕えて歩む人によって教会は支えられ、福音宣教は前進していることを思わされる。
あなたは、善を行い、人々の見本となるような歩みをしている点検し、忠実に主に仕える者となれるように祈りましょう。

主題 <真理のうちを歩んでいる> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第二 1章 (2012年 1月19日)

今日のみことば「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」 (4)

 ヨハネは『選ばれた夫人とその子どもたちへ』と宛名をく。夫人なので、私のことではないと誤解しないでほしい。実は原語では、キュリマといい、女性名詞で教会をさし、そのこどもたちは教会員を指すと理解することが賢明です。するとこの手紙は他人ごとではなく、このわたしに語られていることになるからです。
 教会と教会員はいつも正しい信仰の上に立つことを教えます。多くの人々を欺く、反キリストの教えがすでにいろいろと出迴っていたのです。
 当時の異なる教えは、イエス・キリストを神とせず、また人間として肉体をとって来られたメシヤを否定していたのです。今日も、エホバの証人は主イエスを神とせずに、人を欺いている(7節)。
 前半に「真理」という語がたびたび出てくる(新改訳に出てこない訳語も含む)のは、真理から外れないように真理のうちを歩むようにペンを執ったのです。
 真理はあなたを自由にし、(ヨハネ8章)、愛させ(1)、神を喜ばせる歩みにする(4節)。
主が真理であるといっています(ヨハネの福音書14章6節)。
むずかしいことですが、あなたにとっての真理は、どのような祝福だと思いますか。

主題 <主イエスを信じる者は世の勝利者である>

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 5章 (2012年 1月18日)

今日のみことば「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5)

1~5節では、キリストを信じる者は神から生まれた者であると確認するように語られています。ヨハネは 「生まれる」ということを、神から新しいいのちを与えられたことを意味して用いました。
6~12節では、イエスこそが神の御子であることを証明するように語られています。その証明するものとして御霊、水、血をあげています(8)。水は、イエスが受けられた水のバプテスマを指し、罪のない方が罪ある者のようになられたことを意味し、血は十字架上で流された血潮を指しています。そして御霊が悟りを与えられる方として助けてくださるので、イエスが神の御子と知ることが出来ると言われているのです。
13節では、再び、キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられていることを語られ、確信をもって歩むことが出来るように示されました。この手紙が書かれた目的は、まさに、この永遠のいのちの恵みを覚え、歩むようになることでした。
グノーシス主義の影響の中で、キリストを否定するようになってしまった兄弟たちを意識してか、ヨハネは「死に至らぬ罪を犯している兄弟のため」に祈るように勧めました(16)。
現代においても、人間の限られた知識であってもそれが最良と考える傾向があるように思う。しかし、本当の知恵、知識は神から来るのであり、人間の打ち立てた知識、理論、主義などは、いくらかは人間の役に立っても、人間を真の意味で救うことはできないことを知らなくてはならない。
重要なのは、御子イエスを知り、信じて歩んでいるか、その愛を覚えて歩んでいるかに集約される。これが使徒ヨハネの晩年に示され教えられてきたことを次世代のキリスト者に伝えたいことであったのでした。
そして、続けて、主を知り信じることが出来るように、とりなして祈っていくように勧めたのです。今日、私たちもこの主イエスを信じることができるように、導きたい人のために祈りましょう。

主題 <神が愛してくださったから> 

聖書箇所 ヨハネの手紙第一 4章 (2012年 1月17日)

今日のみことば「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(19)

当時アジヤ州の諸集会に入り込んでいたグノーシスという異端の特徴は、救いに関する特別な知識のほかに、彼らを支配する霊の働きも見られた。だからヨハネは神からの霊とそれ以外の霊(四節によると、サタンによるもの)とを見分けるよう忠告している。霊を見分ける基準としてヨハネが示しているのは、その霊が人に「イエス・キリストは人間として(この世に)来られた」(2)ことを告白させるか否かであった。もしそう告白するなら、それは神からの霊(聖霊)によるのであり、それを告白しないのは反キリストの霊によることを教えられた(3)
また、グノーシス主義も神を愛すべきことを教えていたようだが、その愛はもともと人間のうちにある愛である。しかし私たちの愛は、神がご自分のひとり子を私たちの罪のための、なだめの供え物として十字架にかけてくださったことに表されている(9、10)。そして私たちが互いに愛し合うとき、神が私たちの中に共にいてくださるのがわかるのである(12)。
この愛の関係に私たちが生かされるとき、愛は私たちの中で完成を目指していくように勧めている(17)。この愛が完全なものとなる時、私たちに与えられる二つのものがある。一つは、さばきの日に神の御前に出る時、私たちの心に恐れがない(18)。二つ目は、神を愛するように、信仰の兄弟を愛する者とされる(20)。
目に見える兄弟を愛することは、目に見えない神を愛するより難しく思えるときがあるかもしれない。しかし聖書は、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(20)と言っています。それは主イエスご自身がこの地上を歩まれた時に、率先して、隣人となり、兄弟となられて愛して下さった愛を覚えなくてはならないことを言っているのです。そして、主が愛して下さったという事実を覚えて初めて、本当に兄弟を愛することは出来き、また、そのことが神を愛することを教えているということを覚えたいと思います。