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2012年9月

2012年9月20日 (木)

主題 <そこを自分で切り開くがよい>

聖書箇所 ヨシュア記 17章   (2012年 9月13日)

今日のみことば「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(18)

ヨセフの子孫に与えられた相続地の記録である。
 相続地は男子によって受け継がれるのが原則である。ところが姉妹ばかりの家族からの訴えによって、ヨルダン川の東だけでなく、西岸より地中海まで与えられることになる。こうして、マナセ族は広大な地域を与えられた。
 人生はまさに不思議なものである。マイナスと思えた事柄さえも恵みに変えられるのである。恵みをとらえる大胆な信仰を握ろう。
 ヨセフの子孫であるエフライムとマナセは祝福を受けて数多い民となった。『森に上がって行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』(17:15)
 山地も谷間も村落も自分で切り開くがよいといわれる。籤による割り当て地だけをもっていたのではならない。山地もあなたのものとしなければならない。そこに鉄の戦車をもつ強固なカナン人がいても自分で切り開くべきなのです。この事を霊的領域について考えてみよう。取るべきところなお多しなのです。だれかに任せていてはならない。神の国における大きな広い領土、平和と勝利を勝ち取るべく、今日一日が備えられている。

<祈り>主よ。小さな領域で満足せず、広大な神の国の祝福、霊的安息を私のものとする熱意を燃やさせてください。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <くじで割り当てられた地>

聖書箇所 ヨシュア記 16章   (2012年 9月12日)

今日のみことば「ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、東、エリコのあたりのヨルダン川、すなわちエリコの水から荒野に出、エリコから山地を上ってベテルに至り、」(1)

 イスラエルの領土の分割はくじで割り振られたということです。これからずっと生活をする場所です。十分な調査と計算を立てて、決定することが賢明のように思えます。しかし、この極めて重要な決定は神にゆだねるのです。
聖書には、大切な事柄をくじで決めるということが記されています。新約聖書には、ユダが脱落した後の十二使徒の補充をくじで引き、マツテヤを当てています(使徒の働き1;24-26)。
丂饧尵侾俇丟俁俁亀16:33 人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。』(口語訳聖書)とあります。
 神の善と神の知恵を信じて、神の意志にゆだねる意味があるのです。<みこころをしてください>と祈るのが信仰者の姿勢です。
 それは決して投げやりになって、人生を放り出すのではありません。絶望して行き詰まっている状況の中で手をこまねいて傍観しているのでもありません。
 神は、一羽の小雀さえ目を留めておられるのです。目を留めるとは、じっとたたずむようにして見ている姿でしょう。私たちの進む道を主はじっと見ておられ、最善な所領、最善な測り綱が降ろされる場を見定めている。

<祈り>主よ。あなたは知っておられます。明日の私の生活のすべてを。それゆえあなたの御手にゆだねます。アーメン

主題 <水の泉を私にください>

聖書箇所 ヨシュア記 15章   (2012年 9月11日)

今日のみことば「彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(19)

 ユダ族に割り当てられた土地と氏族のリストである。
 約束の地を割り当てるにあたり、広大な土地だが、きわめて綿密な調査がなされ、誤らない境界線が定められてゆく。
 カレブはヘブロンを受け取ったが、アナク人の子孫すなわち巨人の支配の地域を打ち破っている。ことにキルアテ・セフエルを攻めとる者には娘アクサを妻に与えるという褒美を出したのです。ついにオテニエルが攻めとったので、娘アクサを与えたが、この時に祝いの品として娘は、「水の泉」を求めた。ネゲブの地は、砂漠(ネゲブ砂漠という)であったからです。
 父カレブは水の泉を求めた時、『そこで彼は、上の泉と下の泉を彼女に与えた』のである。荒野に遣わす娘夫婦のために、必要な泉を求められて、二つの豊かな泉をすぐに与えている父親の慈しみを思う
 ところで、実にそのひとり子を与えるほどに愛したもう父なる神は、求める者に惜しみない富みを、恵みを、聖霊をくださらない事があろうか。
 きょう一日のためにも、惜しみない祝福を注ごうとしている。その父なる神の愛を大きな信頼をもって受入れ、感謝して前進しようではないか。

<祈り>主よ。日々荒野を歩む私に泉を与えてください。
    内より流れ出る聖霊の満たしを。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <私の今の力は、あの時の力と同様>

聖書箇所 ヨシュア記 14章   (2012年 9月10日)

今日のみことば「しかも、モ-セが私を遣わされた日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(11)

 ここにもう一人の老人カレブがいる。彼は今や85才である。45年の長い間、神とモ-セやヨシュアに従ってきたが、今やなお若いときの燃えるような信仰がこんこんとわき出る泉のように沸きあふれてくるのです。
 『どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私と共にいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。』(12)
 カレブは老人でしたが、約束のみことばを握って信仰を持ってヨシュアに申し出るのです。ここに若者以上のハッラツさを見るのです。神を仰ぐこと、そこには人生への魅力にあふれた輝きがある。
 現代の若者は現実ばかりを見つめて夢がない。なぜか。その背後には、神への信仰の欠如があり、現実を見て諦めてしまうのではないか。
 あなたへの神の期待、計画がある。それは、目が見ていない想像を越えている。(Ⅰコリント2章9節)
 神が約束を履行されることへの夢を生涯みつづけたいと願う。

<祈り>主よ。小さな領域で満足せず、広大な神の国の祝福、霊的安息を私のものとする熱意を燃やさせてください。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <占領する歩みはまだ残っている>

聖書箇所 ヨシュア記 13章   (2012年 9月 9日)

今日のみことば「ヨシュアは年を重ねて、老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね老人になったがまだ占領すべき地がたくさん残っている。」 (1)

 老後に対する不安の一つは、やるべき仕事がなくなることです。
 若い頃は良く働いた。おもしろいようにいろいろやった。しかしそんな過去を述懐する人の中で、若いときに信仰の訓練されていない未信者にとって老後程さびしいものはない。若いときには遊べという人に限って、老後がさびしい。
 クリスチャンは永遠の青年といわれるが、老いてもなお占領せねばならない場所が残されているからです。信仰生活に導かれたことをことのほかうれしく、感謝するほかはない。人生の仕事、それが家庭のこまごまとしたつとめでも、感謝と喜びがある。神から委託された奉仕があるのです。
 やがて新しい天と地への備えのために、毎日の信仰の備えなくして待つことはできない。み国への期待が大きい人ほど祈り方が変わり、聖書の読み方が違ってくるはずです。そして、いよいよ励んで内も外も実を結ぶために、祈り、占領地拡大のために、前進できるでしょう。

<祈り>主よ。年を取っても、青年のように取るべきところに向かって前進するうえかわきを、与えてください。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <割り当て地について> 

聖書箇所 ヨシュア記 12章   (2012年 9月 8日)

今日のみことば「ヨシュアはこの地をイスラエルの部族に所有地、その割り当て地として与えた。」(7)

 戦いの後に祝福がある。祈りにおいても、伝道においても、みことばを学ぶにも、集会出席にも、戦いがあります。しかし信仰者が戦いをしないで祝福にあずかろうとしたら心得違いである。
 決して戦い無くして霊的祝福はない。聖書や神についての知識も、頭の肥やしになるだけで、知識的に頭は大きくなっても、手足を動かすことを忘れた信仰者になってはいけません。
 手足を動かして実戦的、実践的クリスチャンになってみことばを生活の中に溶け込ませることが、私たちの祈り、追求となって来るときこそ、私たちの置かれた場所がものをいってくるのです。
 イスラエルにとっても、与えられる場所が、おのおの違います。12部族ごとに分けられた地域は升目を作るように平等ではありません。しかも、その線引きをした場所を、自分たちで占領しなくてはならないのです。広ければ広いほど、戦いも激しく、困難もたくさんあったでしょう。でもそここそが、割り当て地として与えられているのです。
 占領しようとしている場所は、あなたに割り当てられ、祝福を見ることを待っているといっていいでしょう。

<祈り>主よ。祈りつつ実際に戦い、信仰の割り当て地を自分のものにすることができますように。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <ヨシュアの忠実な心>

聖書箇所 ヨシュア記 11章   (2012年 9月 7日)

今日のみことば「主がモ-セに命じたすべてのことばを一言も取り除かなかった。」(15)  

 ヨシュアの人柄をこの一句に見ることができます。
 第一に、ヨシュアの愛と尊敬です。
 先輩モ-セはすでに死んで今や全部の責任はヨシュアにあります。しかし彼は彼を愛し、導き、育ててくれたモ-セ、神に従い通した先輩をどこまでも信頼し教えを大切に守って、事業を完成させていくのです。尊敬や愛という人格を見ます。
第二に、彼の忠実さです。
『主がモ-セに命じたすべてのことばを一言も取り除かなかった。』 これは神のことば、絶対に変えられない権威への信頼につながるのです。忠実さとは信頼につながります。ヨシュアは神のことばへの深い信仰を持っていたのです。
第三に、行動の人であって、ことばの人ではない。
 ヨシュアは行動の人であって、ことばの人ではない。忠実さとは裏返すと行いの人で約束の地への神の命令に対し常に前進し続け、行動し続ける。休むことのない前進こそ、ヨシュアにふさわしい人柄です。人生における尊敬をし、師とも仰ぐ人がいること、そのものが幸福であります。
 今日もヨシュアに学ぶところが多い。

<祈り>主よ。あなたのおことばに、忠実に生きられますように、おことば対する信仰を深めてください。ア-メン。
<祈りの課題>

  

<祈りの課題>

主題 <主が人の声を聞き入れられた日>

聖書箇所 ヨシュア記 10章   (2012年 9月 6日)

今日のみことば「主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。」(14)

 ギブオンと和を講じたことは、カナンの諸国に二つの影響が出た。
一つは恐れであり、もう一つは裏切り者ギブオンを討伐しようとしたのです。ギブオンはヨシュアに助けを求めた。
 この時に、ヨシュアは主を求め、導きを切に求めた。失敗から学ばない時、再び同じ過ちを繰り返すことになる。賢い指導者から学ぼう。
 8節の主のみことばをヨシュアは何度も何度も、自分自身に言い聞かせた事だろう。そしてイスラエルの人々にかんで含めるように語ったことだろう。
 だが、さらにもう一つの心を傾けたことがあった。それは主にこの結果の成就を求めたのです。
 主は確かに彼らの味方となり、戦いの将となり、惠みのみわざを行われることを確信したのです。ヨシュアは人々の見ている前で、天変地異のしるしを語った。
丸一日の間、日と月が動かなかったという。後にも先にもない奇跡である。
 なぜでしょうか。主がイスラエルのために戦ったからである(14節)。神が私のために戦っていてくださるという確固とした確信を握ろう。
このような日、そうです。今日があなたにとってのその日であります。

<祈り>主よ。あなたの言葉への深い信頼により、勝利の確信を持って一日を歩ませてください。ア-メン。
<祈りの課題> 

主題 <主の指示をあおがなかった>

聖書箇所 ヨシュア記 9章    (2012年 9月 5日)

今日のみことば「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」(14)

 人は案外たやすく、だまされやすいのです。
 ギブオンの人々は命の危機を敏感に気づき、和睦のために変装して近づいたのです。
 この時に、イスラエルのヨシュア以下指導者たちは、疑いつつも巧みなしぐさ、古びたパン、巧みな言葉によってだまされてしまったのです。ギブオンへの盟約によって生き延びることとなります。
 このだまされた結果、ダビデの時代にいたるまでノドにつき刺さった骨のようにイスラエルは長い間苦しみ抜くことになります。しかし、またギブオンが本当に征服された時、そこがダビデの町となり、エルサレムの神殿が建て上げられる場所になっていったのです。霊的な問題をかかえた昔もあるが、信仰により勝利した時、そこは祝福にすっかり変えられることを覚えましょう。
ヨシュアたちはなぜ、だまされたのでしょうか。
1)戦いに勝利することが当たり前の気分になってしまった。
2)直面した敵に心が奪われていった。
3)一番大切な点は主の指示をあおぐことをしなかった。
 今日、主のみことばの中から、知恵を切に求める者となろう。

<祈り>主よ。あなたの指示をたえず仰ぐ信仰を求めます。多くの問題が、きょうも立ちはだかりつまずく危険があるからです。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <わたしがアイを手に渡すから> 

聖書箇所 ヨシュア記 8章    (2012年 9月 4日)

今日のみことば「そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。」(18)

 聖絶すべきものは、イスラエルの内にありました。神はアカンたちをさばいたのは、イスラエルが聖絶される民になる危険があったからです。
 きよめは、神の民に大きな新しい勇気と力を与える。自我は人の中から力を失わせ、愛と惠みを奪いとる癌である。自我は何もかも自分を喜ばせることために生きるが、それ以外の命あるものを破壊し尽くし、その人の命を奪った時、いっしょに滅びるのである。
 だが、その前に自我をキリストと共に十字架につけた、きよめの生涯に入らねばならない。
 肉的な動機と生活、罪を愛し、自我を喜ばせる罪を告白しよう。癌のような罪の力を砕き、自我を死なしめる十字架を見上げ、信仰によってキリストと共に死のう。今、生きているのはわたしを愛し、私のために死なれたキリストの惠みのみによることを深く明確に体験しよう。
 『わたしがアイをあなたの手に渡すから(18)』とあるように、人間的な問題、健康、試練も神御自身が勝利への知恵と力とになられることをはっきり知って出かけよう。

<祈り>主よ。約束のように、アイを私の手に渡してください。今日の戦いがどれほどでも、約束への信仰を貫かせてください。アーメン。