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2012年9月

2012年9月20日 (木)

主題 <イスラエルは罪を犯した>

聖書箇所 ヨシュア記 7章    (2012年 9月 3日)

今日のみことば「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」(1)

 驚くべき大勝利を得たエリコの戦いは、イスラエルをして罪を犯させる場所となった。それが小さいと見えたアイの町を攻撃した時に表れたのである。アイは小さい町ですから、わずかな民で十分と、たかをくくり高ぶったことです。巨大なエリコは信仰と服従によって陥落したのであって、民の多い少ないによらなかった。そして、そこでこっそり人目をかいくぐって聖絶のものを自分のものにしたのです。
 ここで、聖絶のものについて考えよう。
悪が満ち、ソドム,ゴモラのように主のさばきを受ける、汚れが支配していた町や国です。そのためにイスラエルが滅ぼす器として用いられたのです。神の民はその中で一緒に汚れることをはっきり拒絶して、聖絶するように神が命じたのである。
 アカンは、一個人として罪を犯したが、それがイスラエル全体にたちまち波及する危険があり、アイの敗戦によって神が罪を啓示したのである。罪は小さな穴から入り込んで堤防を決壊する。シャ-プな罪の悔い改めを今日考えよう。

<祈り>主よ。あなたの罪を犯したことを自覚する霊的な鋭い感覚をお与えください。それが滅びず、祝福への入り口ですから。アーメン。

主題 <ときの声を上げなさい>

聖書箇所 ヨシュア記 6章    (2012年 9月 2日)

今日のみことば「その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ」 (16)

 エリコ攻略には、鉄砲も軍馬も軍隊も必要でなかった。神の約束のみであった。神の約束の成就を、神の一方的な力によることを、どれほど信じていることだろうか。神の約束の地を手に入れさせてくださる今日一日が、人間的な努力や勢いによらぬことを学ぼう。ゼカリヤ4:6を読み直して下さい。
しかし神は人から三つのことをするように命じられた。それこそ神と人の協同のわざ、人が生かされる意味がある。
第一に、信ずることが求められる。
 神は約束の言葉を与えられた。『見よ。わたしはエリコとその王、その勇 士たちをあなたの手に渡した』と。約束への人の側の絶対に必要なことは信ずる事である。信じなくては約束は成就しない。小さくてもよい。信じきる決断に踏み切ろう。
第二に、信じて後に、従うのです。信じた時に約束は事実、成就したのと同然なのである。そこを信じて踏み出してゆくのです。現実はどんなに困難な城があっても、与えられたと感謝して歩み出します。
第三に、時満ちた時に、ときの声を上げよう。
 神のみわざの勝利を確信して賛美し始め、与えられた感謝を告白しよう。
<祈り>主よ。あなたは勝利を感謝し信じます。アーメン
<きょうの課題>

主題 <足のはきものを脱げ>

聖書箇所 ヨシュア記 5章    (2012年 9月 1日)

今日のみことば「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。 「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」(15)

 ヨルダンを越えたイスラエルがした第一のことは、割礼のない荒野で生まれた世代の割礼であった。アブラハムに神が命じられたおきてであった。それはエジプトにおけるそしりを取り除かれる意味でもあった(9)。
 第二に、ちょうど出エジプトをしたときに過ぎ越しの正月14日が来たので、割礼を受けた全イスラエルが、40年ぶりに行なった記念すべき日であった。こうしてこの地の産物を食べた日より、天からのマナはやんだ。実に40年間毎日養われる経験が完了したのです。
 第三は、指導者ヨシュアのきよめである。最初の攻略地であるエリコを前にした指導者は、目を伏せて考え込んでいたであろう。彼の前に立った軍の将がいることに気づいて、『目を上げた』(13節)のです。この方は主が遣わした御使い(Ⅰ列王22:19)の大将でした。
 彼のメッセ-ジは『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。』(15節)と語られた。エリコの近くの荒野であろう場所が、かつてモーセがシナイ山のふもとの柴の炎のなかで、聞いた(出エジプト3章)と同じみこころであり、聖なる地でした。シナイのふもと、そしてエリコのみでなく、今あなたが立っている場所こそ神の聖なる地(サンクチュア)なのです。主をそこの場であがめよう。
<祈り>主よ、自分を受け入れられず、置かれた状況を受け入れられない今、そこに聖なる主の現在を受け入れます。アーメン
<きょうの課題>

主題 <これは何と聞いたなら>

聖書箇所 ヨシュア記 4章    (2012年 8月31日)

今日のみことば「それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。 後になって、あなたがたの子どもたちが、 『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、」(6)  

  日本人とイスラエル人の違いは何だろうか。イザヤ.ベンダサンは興味深い文化論を書いているが。それは、歴史に対する継承という点であろう。
 日本人は戦国時代や明治、戦後など節目ごとに過去を切り捨て、拒否して脱皮してきた。イスラエル人は過去になされた神のみわざを絶えず忘れないように記念の石塚を築き、そのみわざを子孫に語り継ぐ民族なのである。
『それがあなた方の間で、しるしとなるのである。後になって、あなた方の子供たちが………と聞いたなら、あなた方は彼らに言わなければならない。』(6~7)
ヨルダンを越えた驚くべき神の業を記念して、川のところに12部族ごとに一つずつの大石を据えたのです。
 過去を思い返すことこそ、将来に生きる大きな確信となる。過去から学ばない時に、未来は絶えず行く先の知れない不安の中に進むことになる。日本人の過去を忘れ、忘れることよりも、神のめぐみの数々を深く心に刻むことを生活の中心に据えておきたいのです。
 神の惠みを心の石碑に記すと共に、子供達へ、また周囲の人たちに証しする方法を考えよう。今日から、そのすばらしい祝福をあかしすることを始めよう。
<祈り>神様、こどもたちにあなたの素晴らしい恵みを伝える幸いに招き、そこにある努力する力と忍耐をお与えください。ア-メン。
<きょうの課題>

主題 <足の裏が水の中に> 

聖書箇所 ヨシュア記 3章    (2012年 8月30日)

今日のみことば「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・」(15)

 神の民は、祭司の後を続いて進むのである。このときにヨルダンの水は川岸まで岸いっぱいに溢れていた季節だったのです。神はこうした時期に渡るように命じられる。神のなさるみわざはいつもこの点で変わらないようです。人の思いや計画が行きづまったと見える時こそが神の出番となる。
 神がみわざをなさるためには祭司が箱を担いでヨルダン川に足をいれなくてはならない。刈り入れる季節の川はいつもよりはるかに水量が多い。そこを神の助けを信じて踏み込む。その決断ができたのは、9~10節にある。
第1に、主のことばを本気で聞くことによる。
神には不可能なことがないと、記されております。
第2に、生ける神があなた方のうちにおられること。
神は死んだ神ではなく、いま現実に生きておられるお方です。
第3に、足の裏で踏む時に神が敵を追い払うことを知ることのあかしとなる。
 大きなチャレンジである。いつになく水かさの増した川へ足を踏み込むように招いている。しかもこの体験こそが、約束の地を手にいれてゆく大切な道程なのです。そこに奇跡が起こりました。川は二つに割れて、いままでの濁流の河床を乾いた地のようにわたれたのである。
<祈り>主よ。あなたの言葉への深い信頼によりきよめの生涯へ足を踏み込み、祝福をいただかせてください。  ア-メン。 
<祈りの課題> 

主題 <真実と誠実を尽くそう>

聖書箇所 ヨシュア記 2章    (2012年 8月29日)

今日のみことば「その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」(14)
 ヨシュアはカナンの地を占領するためにエリコを偵察させます。二人の斥候を遣わします。神の働きにおいて、一人ではなく二人は有益です。主も宣教に二人づつ派遣しています。エリコは昔から栄えた町でしたが、そのような町で、遊女ラハブに出会うことになるのです。彼女はのちには主の先祖にさえなるのです。
 これまでなされた出エジプトやシナイの奇跡は、遠くカナンの地、エリコまで届いていたのでした。カナン人は神が共におり、イスラエルが強大なエジプトを出立して、ヨルダン川の東までの間、次々と勝利をされてきたことを見聞きしていた。キリスト者の救いもきよめの生涯も、信仰のない人々に思いもよらない神のわざが証しされていることをどれほど分かっていたことだろうか
 ラハブは斥候に対して手厚くもてなす。それは神のしもべに対する態度でもある。神のしもべに対したあり方は、彼らと共におられる神の証しが伴っていたゆえでありました。一方それゆえに命をつけねらった王や兵士たちもいたのです。主のしもべはいのちの香りと死のかおりを放つのである。いのちに至るとすれば信仰により神を受け入れるように神のしもべを受入れることである。
 ラハブは神のしもべに真実を尽くしたように、このわたしに真実を尽くして欲しいと訴える。二人の斥候は、確かに真実と誠実を尽くそうと誓う。この誓いはまた神のあなたのよき誠実な神のしもべへのあり方への報いととるべきではないだろうか。
<祈り>主よ。あなたの遣わした神の器のために誠実と愛を行いたいのです。私たちにあなたの真実を現して下さい。

主題 <ただ強く、雄々しく> 

聖書箇所 ヨシュア記 1章    (2012年 8月28日)

今日のみことば「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9)
 イスラエル人を導いていたモーセは、約束の地に入ることなく天に召されました。指導者を失ったイスラエルの人々は悲しみましたが、神はモーセの代わりにヨシュアを次の指導者として立てて下さいました。
 この時のヨシュアはどのような気持ちだったでしょうか。モーセのような経験もなく、どんなにか心細かったでしょう。大勢のイスラエルの民を約束の地に導かなければならない責任に押しつぶされる思いだったでしょう。そのようなヨシュアに主が命令と約束を告げられたのです。
 2~9節に次のような命令と約束を見ることが出来ます。
命令
 神の与えようとする地に行くこと(2節)
 すべての律法を守り行うこと。
 恐れてはならないこと(9節)
約束
 ヨシュアの行くところ、その足で踏む所を与えるすべてを与える(9節)
 律法に従うなら、繁栄すること
 あなたの行くところのどこにおいても神がともにあること(9節)
ヨシュアにとって、この命令と約束はどんなに力強かったでしょうか。ヨシュア記の信仰に答えられた神は、約束通りヨルダン川をせき止め、イスラエルを前進させて下さいました。私たちも、みことばに従って行くときに、同じ勝利を経験できるのです。

主題 <モーセの死とヨシュアへの継承>

聖書箇所 申命記 34章     (2012年 8月27日)

今日のみことば「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命いじられたとおりに行なった。」(9)

 申命記の最後の章は、モーセの死と埋葬、イスラエルによる服喪、ヨシュアによる継承と、結語が述べられている。
 モーセは、32章四9節で主がお命じになっているように、モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。そこから約束の地を見た。そこが、族長たちに与えると主が誓っておられた地が見えた。
 モーセの死は、神の民をエジプトから脱出させ、荒野を40年もさまようという、困難に満ちた奉仕からの解放を意味していた。モーセは今や使命を終えて天に召された。
 彼は主のしもべと呼ばれ、主の命令によって死に(5)、主によって葬られたと言われていることに注目したい(6)。
 モーセは120歳で死んだが、老衰ではなかった。「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とある(7)。主がモーセの死をみこころとされたことを意味している。また、主がモーセの労苦をねぎらわれたことを表している。これにまさる慰めと報いがあるだろうか。
 偉大な指導者モーセの死を悼んで、イスラエルは、30日間喪に服した。
 しかし、一人の指導者の死によって、神のご計画が中断してしまうことがあってはならない。モーセの後継者であるヨシュア(知恵の霊に満たされた人)によって、主のみわざは継続されるのである。
 結語の部分では、再びモーセのことが触れられて、主がモーセを選び、ご自身を啓示された目的が述べられている。

主題 <しあわせなイスラエル>

聖書箇所 申命記 33章     (2012年 8月26日)

今日のみことば「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」 (29)

 6節以降から各イスラエル部族に対して語られた祝福のことばが記されている。ルベンに対しては少数でも生き残るように語り、ユダに対しては、敵からの助けを祈っている。レビに対しては神の御心を求め祭司の務めを果たすように祈り、ベニヤミンには主の保護を祈っている。ヨセフについては、地の産物が豊かに与えられることが預言のように告げられている。ゼブルンとイッサカルは対で登場し、外に出て行っても、天幕の中にいても喜べと呼びかけ、その理由として海の富(海上貿易)による繁栄を挙げている。ガドは雌獅子にたとえられ、最良の地(ヨルダンの東側)に相続地を得る。カナン攻略の時には、イスラエルの先頭に立って戦うことになる。ダンは獅子の子にたとえられ、バジャンからおどり出ると預言されている。ナフタリは、やがてガリラヤ湖西南地域を所有するようになる。アシェルには、オリーブ油に恵まれ、「かんぬきが、鉄と青銅」と表現されるように(25)、防備が堅固であるという、祝福が告げられる。
 26~29節は、モーセによる祝福のことばの結びである。この結びの箇所には、特徴的な二つの呼びかけのことばがある。一つは、イスラエルの詩的愛称である「エシュルン」(26)で、もう一つが「しあわせなイスラエル」である(29)。これらはこの箇所のキーワードと言える。すなわちイスラエルの神は、他に並ぶものがない偉大な神であり、民の住む家となってくださるので、民は真の安らぎを得、くつろぐことができる。また、神の民への祝福が、29節に要約されている。神の民として生きることが真のさいわいであることを覚えたい。

主題 <主への背信> 

聖書箇所 申命記 32章     (2012年 8月25日)

今日のみことば「まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。」(28~29)

 32章はモーセの歌が記されている。今日は19節以降に歌われている主への背信について注目したい。神の恵みをないがしろにしたイスラエルの背信の結果は何であったのか。神は、決して罪を見過ごされることはない方である。
 19~25節には、背信のイスラエルに対する、神のさばきが語られている。民への怒りによって、主は彼らを退けられた。神が顔を隠すという擬人的表現は(20)、神がもはや民を顧みられなくなったことを示している。彼らは、神でないもの(偶像)によって、神のねたみを引き起こしたので、神も同じように神の民ではないもの(異邦人)によって、イスラエルにねたみを引き起こすと、主は仰せられる。義なる神の怒りの激しさが、22節では、焼き尽くす火にたとえられている。「わざわいを彼らの上に積み重ね」とあるように(23)、飢え、災害、悪疫などが(24)、イスラエルの乳飲み子から白髪の老人にまで、容赦なく臨むようになる(25)。
 26~35節には、それが主による復讐であり、報いであることが明らかにされている。もし、民に思慮と知恵があったなら、滅びを免れることができたはずだと、主によって言われている(28)。30節の「彼らの岩」とは主のことだが、31節の「彼らの岩」は、敵の頼みとする偶像の神を指しているので、注意して読む必要がある。
 主への背信の罪に対して、必ずさばかれることが語られている。しかし、その一方でさばきを避けられることに触れられている。それは、今日、神のみことばに聞くところにあることをさとらなければならにことが教えられている。