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2012年9月

2012年9月20日 (木)

主題 <祝福とのろい> 

聖書箇所 申命記 11章     (2012年 8月 4日)

今日のみことば「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。」(13-14)
 「もし……なら」という形式で、モーセは、主から与えられる祝福の条件を示している(13、22)。その条件とは、主のみことばによく聞き従い、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えることである(13)。また、主のすべての命令を忠実に守り行い、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがることである(22)。
 この条件を満たすために何をすべきかを、モーセは、18~20節で明らかにしている。それは、常に、主のことばを心に刻みつけ、子どもたちにもみことばを教えることである。そうすれば、神は穀物の実りと収穫のために、「先の雨」(秋の雨で、この時期に大麦・小麦の種蒔きをする)と、「後の雨」(春の雨で、穀物の豊かな実りをもたらす)を与えてくださる。
 主の祝福は、イスラエルに広大な土地を約束するものであった。荒野からレバノンまで、ユーフラテス川から西の海(地中海)まで、「足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」と約束されている(24)。
 22~32節においては、イスラエルの民が、祝福かのろいかのどちらか一方を選択するようにと、主によって迫られていることがわかる。
 モアブの平原から、ヨルダン渓谷を越えて西に、ゲリジム山とエバル山とが対峙して見える。ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいが置かれ、民はそのどちらかを選択しなければならなかった。
 主の命令に聞き従うならば、祝福が約束されており、その反対なら、のろいが与えられるという。私たちは、主に従うことを第一にし、主の祝福を頂こう。

主題 <主が求めておられることは何か>

聖書箇所 申命記 10章     (2012年 8月 3日)

今日のみことば「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(12~13)  
 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」という問いかけは(12)、出エジプトの時のイスラエルに対してのみならず、現代の私たちにとっても、きわめて重要である。主が民に求めておられることは何であろうか。
 第一に、主を恐れること。この場合の「恐れ」とは、神を神として崇めることである。
 第二に、主のすべての道に歩むこと。これは、私たちの日々の生活に関することで、神の命令を実行し、神を喜ばせる生き方をすること。
 第三に、主を愛すること。まことの愛は私たちのうちにはないので、神から与えていただかなければ持つことのできないものである。イエス・キリストの十字架の愛を思い起こす時、主に応える愛が、私たちの心に呼び起こされるのである。
 第四に、主に仕えること。ただ仕えるのではなく、心を尽くし、精神を尽くして仕えることが求められている。それは、私たちの持っているすべてのものを、神のみわざのために、惜しみなくささげることを意味している。
 第五に、主の命令と主のおきてを守ること。これは、申命記に何度も出てくる教えである。神はモーセを通し、ご自身の命令とおきてを明らかにしておられる。十戒は、それを最も簡潔に表現したものである。今日、神は聖書を通して語りかけ、神の命令とおきてが何であるかを示しておられる。だからクリスチャンは、聖書を毎日規則正しく読む必要がある。

主題 <モーセのとりなしの祈り> 

聖書箇所 申命記 9章      (2012年 8月 2日)

今日のみことば「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。」(25)

 モーセは、罪を犯した民を見捨てることなく、またもや四十日四十夜、断食して神の御前に祈った(18)。とりなしとは、神の御前に、だれかに代わって願うことである。モーセは神の民全体のためばかりではなく、兄アロンのためにもとりなしをした(20)。モーセは、罪を引き起こした鋳物の子牛を火で焼き、打ち砕き、粉々にして川に投げ捨てた(21)。
 荒野の四十年を振り返る時、民はタブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた(22)。民の罪は、一度や二度ではなかったのである。「あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた」と言われるほどに、彼らは日常的に罪を犯してきたのである(24)。
 26~29節に、モーセのとりなしの祈りが記されている。モーセは何を根拠として、神に訴えたのだろうか。まず彼は、イスラエルが「あなたの所有の民」、すなわち神と契約を結んだ民であることを、またそれゆえに、神の偉大な御力によって蹟い出された者であることを強調している(26)。また、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約に訴え(27)、周りの諸国家への証しとなるようにと、神に訴えている(28)。
 結局は、罪を犯した民自身は、契約の当事者ではあるが、神の御前に訴えるべき何の根拠も持たなかったのであり、ただ、神のあわれみにすがるほかはなかったのである。私たちも、自分に当然、神の御前にとりなす資格があるなどと思ってはならない。でも、私たちもモーセのような謙遜なとりなし手となれるように祈ろう。

主題 <主を忘れてはならない>

聖書箇所 申命記 8章      (2012年 8月 1日)

今日のみことば「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。」(11)

 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けられた後、荒野でサタンの試みを受けられた。サタンとの対決の時に、主は申命記6章と8章のことばを思い起され、そのことばを用いてサタンの誘惑を退けられた(マタイ4:1~11)。「人はパンだけで生きるのではない」(3)。「あなたがたの神である主を試みてはならない」(6:16)。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(6:13)と書いてあると言われたのである。申命記のこれらの句は、私たちを、神との交わりの堅固な基礎に導く。
 きょうの箇所でも、「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」(2)というみことばから始まって、イスラエルの民に対する神の過去のご真実についての話が語られている。今までに、平穏な時だけでなく、困難な時にも神があなたの生活の中で示されたいくつかの重要な祝福を思い出してみよう。
 モーセは、約束の地に入ろうとする民に彼のメッセージは、「どなたが、なぜ、あなたがたをここに連れて来られたかを決して忘れてはならない」であった。私たちは特に、物事がうまくいっている時に、主を自分の生活から締め出しやすい。そして、私たちは高ぶる(14)ことがある。そして、主に従う者にとって、高ぶりは死の口づけである(19、20)ということを覚えなくてはならない。
 主のみことばに聞き、従順に歩む者とならせて頂きたい。

主題 <主への従順と祝福>

聖書箇所 申命記 7章      (2012年 7月31日)
主題 <主への従順と祝福> 
今日のみことば「あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。」(9~10)

 イスラエル人たちがこれから入って行こうとしている地で、彼らの生活の政治的、また宗教的環境は、まさに劇的な変化を遂げようとしている。第一にイスラエル人は、自分たちよりも強い多くの敵に軍事的な勝利を収めることになる(1)。第二に、イスラエル人は、軍事と政治の両面で、その地域の主要な勢力となろうとしている。第三に、遊牧の諸部族からなる固定資産のない一つの家族から、自分たちの所有地と呼ぶ国土を持つ一つの国民になろうとしている。
 私だちから見ると、これらの敵を絶滅するという考えは常軌を逸した過酷なことに思われるが、こういう背景の中では、それは軍事的に、政治的に、そして霊的に必要なことであった。人類全体に対する神の救いの計画は、神の民が神に忠実であり続け、また神に従い続けることにかかっていた。それによって、彼らの中から罪を取り除く方、メシヤが到来することができるのである。バアルやアシェラの偶像崇拝との共存は不可能なことであった。だから、それは取り除かなければならなかった。神は、神に対抗する者を許されない。実は、イスラエルの歴史は、この章で彼らに勧められている方針を民たちが実行することができなかったゆえの悲惨な結果を示すことになる。彼らは分裂し、外国の地に捕囚として移され、ほとんど抹殺された状態にまでなる。それはまさに、彼らがこれらの信仰の根本原則について妥協したためである。

主題 <みことばを心に刻む>

聖書箇所 申命記 6章      (2012年 7月30日)

今日のみことば「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 」(6)

 きょうの箇所の8節の命令に文字通りに従って、正統派のユダヤ人はヒラクタリイ(聖句箱。律法のことばが書いてある羊皮紙の入った小箱)を額に結びつけている。おきての小箱をからだにつけるという勧めも、おきてを「家の門柱と門」(9)に書き記すようにという勧めも、私たちの生活のどの部分にも、主のことを語るのに当惑するような場所がないようにさせるためのものである。
 神のおきてと定めが何のために示されたかを理解しないで、その条文を守ろうとするなら、考えもしないでただ守っているかっこうを作ることでせいいっぱいになる。しかし神の道に従うことにはいつも意味と目的がある。それを理解するなら、自発的に従うことができる。そのためにエジプトからの救出の話が再び語られる(21-23)。それは大きな喜びをもたらし(24)、それとともに宗教的な行為や伝統の目的が形式だけでなく意味を持ち始めることになった。教会で行われる式典や教理問答、教会の信仰告白はそのような理解を伴うとき、大きな意味を持つ。私たちは、子どもたちや青年たちに福音を伝えるために、そのような方法をおろそかにしていないだろうか。
 また、礼拝やその他の集まりの中で静かにしていなければならない時に、子どもが人に聞えるような声で質問をしたときも、ただ当惑して黙らせるのではなく、小さい声で説明したり、後で教えると言ってあげることが必要ではないか。子どもが親とともに礼拝することにはそのような意義もある。
 幼いこどもたちにもみことばをしっかり教えていくためにも、親の世代になる私たちがしっかりとみことばに学んでいきましょう。