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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <ベニヤミン族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   8章  (2013年 2月 2日)

今日のみことば「ベニヤミンは、その長子ベラ、次男アシュル、三男アフラク、」(1)

 8章ではベニヤミン族について記されている。ベニヤミン族は、ユダ族、レビ族に続いて挙げられていることから、イスラエル全体の中でも主要な部族の一つとされていると理解できる。
 特に、王家としてのベニヤミン族の系図を見る事が出来る。ベニヤミン族からサウル王が誕生した(33)。彼は、後になって退けられるが、主の召しに応え、王の務めに任じられた最初の人物だった。また、サウル王の子、ヨナタンは(33、34)、ダビデの王としての資質を最初から見通し、ダビデ王を支えた人物であった。さらに時代が下って、預言者エレミヤは、ベニヤミン出身の人物だと思われる(エレミヤ1:2)。彼は南ユダ王国最後の王ゼデキヤに仕えた。
 ベニヤミン族は、その分割地の中にエルサレムを所有し、エルサレムに住んだ(28、32)。ソロモン王の時代にエルサレムに神殿が建設されたが、歴代誌が書かれた当時、この神殿再建をイスラエルの人々は願っていた。ベニヤミン族は主の摂理の中で、神の民の信仰の中心となる場を所有し、支えている立場でもあったことが分かる。
 8章をもって、長い系図が終わる。全イスラエルの系図全体を通して、神の選びの厳粛さを思わされる。神はイスラエルの民全体を選ばれ、彼らを通してみこころをなそうとしていた。彼らの主要な部族は、必ずしも常に主の御前に正しい歩みをしていたわけではなかった。しかし、主はそのような部族を最初から支えてこられ、その後の神殿再建の中でも用いられよとされた主の憐れみを深く覚えたいと思います。

主題 <かつて相続した地>

聖書箇所 歴代誌第一   7章  (2013年 2月 1日)

今日のみことば「イッサカル族の者は、トラ、プア、ヤシュブ、シムロンの四人。」(1)  

 7章は、系図の中で中心的に扱われている部族以外の諸部族について記されている。内容としては①イッサカル族(1-5)。②ベニヤミン族(6-11)。③ビルハの子たち〔ダン族とナフタリ族〕(12、13)。④ヨセフの子たち〔マナセ族とエフライム族〕(14-29)。⑤アシェル族(30-40)。
 この7章中、ヨセフの子たちは「土地」に関係する人々として出てくる。ツェロフハデには男子がなく娘たちだけだったが(15)、彼女たちはモーセに訴え、土地を相続することが認められ(民数27章)、土地分割の折には、ヨシュアが、マナセ部族に配分された中から彼女たちに分割した(ヨシュア17:4)。ヨシュア(27)は、モーセのしもべである。言うまでもなく、彼は主の約束を固く信じ、乳と蜜の流れる地を遠くに見つめていた。28~29節は、エフライム族の所有地、及び居住についてである。ここに挙がっている地名を追っていくと、エフライム族の居住地は、ヨシュア記の分割の時よりも、かなり北方に広がっていることがわかる。これらの諸部族は、主のあわれみのうちに繁栄し、戦いを経験しながら、それぞれの地に住んでいた。しかし、この歴代誌が最初に読まれた当時、すなわち、捕囚から帰還後の神の民がこれを最初に聞いた時、これらの諸部族はすでに、元々は彼ら自身の土地であった場所で生活することはなくなってしまった。
 かつて主から相続した地に帰還した民は戻ってきた時、主の憐れみを深く覚えたことだろう。あらためて、主から受けた恵みを無駄にしてはならないということを教えられたのではなだろうか。

主題 <レビ族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   6章  (2013年 1月31日)

今日のみことば「彼らの居住地はおのおのの地域内の宿営ごとに次のとおりである。」(54)

 6章はレビ族について記されている。その系図は大祭司の系図(1~15)、3つのレビ族(ゲルション、ケハテ、メラリ)の系図(16~30)、3つの歌うたい(へマン、アサフ、エタン)の系図(31~47)、レビ族や大祭司の働きについて(48~53)、レビ人の町についての長いリスト(54~81)が記されている。
 レビ族には、白分たちが固まって定住するような分割地は与えられなかった。なぜなら、他の諸部族分割地の中にレビ族のいるべき地があり、彼らにとって、主の祭司として仕えることが彼らの相続地だったからである(ヨシュア18:7)。
 レビ族や大祭司は主の宮で仕えることが特徴的な部族である。彼らは専ら主の宮で仕えつつも、また「レビ人の町」で生活することにより、他の諸部族が神の民としてふさわしく歩むための助けをする役割もあった。すなわち主に仕えるレビ族の姿は、直接的に宮で仕えることによって明らかにされる。それとともに、宮ではなく各部族の中の諸地域に散らされて生活する中で主に仕えるレビ族の姿勢は、諸部族がレビ族に倣い、礼拝する民としての実質を保つために重要だった。
 このように歩んだレビ族の歩みは、今日のキリスト者にとっても学ばなくてはならない姿勢を教えられるのではないだろうか。私たちも主の民として、礼拝をささげ、主の御心を求め、主に従う者として歩み、その歩みを通して主に栄光を帰す者として世にあって証しする者とならせて頂きたい。

主題 <不信の罪>

聖書箇所 歴代誌第一   5章 (2013年 1月 30日)

今日のみことば「ところが、彼らは、その父祖の神に対して不信の罪を犯し、神が彼らの前からぬぐい去って滅ぼされたその地の民の神々を慕って不貞を犯した。」(25)

 5章は、約束の地に入る手前のヨルダン川東岸に土地を求めたルベン族、ガド族、マナセの半部族のリストである。
 この二部族半は、イスラエル全体がモーセに率いられて約束の地に入る手前で、家畜を養うのに適している地を求めた人々であった(民数32章)。
 二部族半のそれぞれについて、ここで繁栄したことが言われている(9、11、23)。またハガル人(アラブ系の人たち)との戦いにおいて(10、18-22)。彼らはこの戦いを、神に拠り頼んで戦うことによって勝利を得た(20-22)。彼らは神の民である自覚によって、主なる神に従う歩みをしていた。
しかし、5章の終わりにあるように、彼らは主なる神に対して不信の罪を犯し、それゆえアッシリヤに捕らえ移された(25、26)。
 二部族半の民たちは約束の地を前にして、本来与えられるものよりも手近な報いで満足してしまったかのようだった。しかし、彼ら二部族半は、結果的には神の民の中でも、最も周辺地域の敵の圧力を受け、そして真っ先に捕囚となってしまった。本来、主が与えてくださる恵みの豊かさを味わう以前の状態に留まってしまい、むしろ直面する戦いが大きくなってしまったのである。時間の経過の中で、彼らの信仰、神の民としての自覚は衰えてしまったことが伺える。
 私たちも信仰を貫く先にある神の祝福を信じ歩む者とならせて頂きたい。

主題 <ヤベツの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   4章  (2013年 1月29日)

今日のみことば「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(10)
 四章は、三章と同じユダ族についてであるが、主流な者たちのリストとは違って、ほとんど名前の知られていない者のリストである。しかし、彼らもまた、系図の流れの中で記録されるべき人々であり、主のあわれみを豊かに受けた。
 そのような名の羅列の中で、ヤベツは異彩を放っている(9、10)。彼については名前だけでなく、短いとはいえ、彼自身の出生と祈りについて、記録されている。
 ヤべツは、何らかの悲しみや苦しみのある状況の中で生まれたが、主に大胆に祈って、祝福をいただいた人物であった。「地境を広げてください」という求めも特殊である(10。申命記19:14では、地境を移すことが厳しく禁じられている)。恐らく彼は、単なる個人的な祝福を求めたのではないだろう。彼は、すべてを持っておられる主の主権に信頼していたのであり、主の御支配を人生の前提として生きていた。そしてすべてをお持ちのお方が、自分自身の使命の領域を広げてくださることを願い、主のために大胆に生きることを、求めたのだろう。
 そして、ヤベツの祈りは主に聞き届けられたことが端的に記されている。歴代誌に触れた当時の民たちにはこの一文だけで十分分かったともとれるし、何よりも一人の祈りをも主は聞いて応えてくださるお方であることをいよいよ確信させてくださる一文と言える。
 今日、私たちの困難の中にも主を見上げて祈る者となりましょう。

主題 <ダビデ家の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   3章   (2013年1月28日)

今日のみことば「ヘブロンで生まれたダビデの子は次のとおりである。」(1)

 歴代誌の系図はイスラエルの民にとって恥と思われることもしっかり記されているのが分かる。アムノン(1)、アブシャロム(2)、バテ・シュア(バテ・シェバ)の名前は、ダビデの失敗を思い起こさせる。ダビデを美化するならば、このような系図も省略されていたかもしれない。
ソロモン以後の悪王たちの歩みは、最終的には、王と共に民も衰退していくようなものだった。主が約束を与えられた「ダビデの家」はバビロニヤによって消滅してしまったかのような経験を、捕囚とされた神の民は特に辛く味わっていたことを想起させる系図と言えよう。
17節以降はダビデ直系の子孫たちであり、その中のゼルバべルは(19)、捕囚から帰還後、神殿再建の指導に当たる人物だった(エズラ3:8)。この系図は、王国が途絶えてしまったと沈む神の民、そしてゼルバべルたちを励ます意味もあったと考えられる。彼が神殿再建の希望を得るには、全能の神の約束に目を向ける以外になかった。系図はダビデやソロモン個人の偉大さを示すものでなく、諸問題があったとしても、主が「ダビデの王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)という約束を成就されるお方であるということを示している。
 人間の愚かな過ち、失敗を憐れみ、最後には最善を備えて下さっておられる神に信頼する者となりましょう。神は私たち一人一人の人生の歩みに目を注いでいてくださるお方であることを覚えて、主にあって歩んでいきましょう。

主題 <ユダ族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   2章  (2013年 1月27日)

今日のみことば「ユダの子は、エル、オナン、シュラ。この三人は、カナンの女シュアの娘から彼に生まれた。しかし、ユダの長子エルは主の目の前に悪を行ったため、主が彼を殺された。」 (3)  

 2章はイスラエル12部族の一つである、ユダ族の系図が記されている。ユダの系図は、歴代誌の系図全体の中で大きな範囲を占めている。バビロン捕囚から帰還したイスラエル人のほとんどが、南ユダ王国の者たちであり、ユダ族が多かったゆえであろう(エズラ1:5参照)。
 この系図の中には、3節から8節にユダ族の先祖たちが主に背いたことによる、神のさばきが記されている。この系図を読んだり聞いたりする捕囚からの帰還者は、その系図の始まりの部分において、自分たちの部族の愚かさを思わなければならなかったし、また部族の父祖ユダ自身が、ヨセフなどと比較すると、あまりにも低俗なことをした(創世記38章参照)のを思い出すのは、不愉快なことであったかもしれない。しかし、それでもなお知られざる祖先たちと共に、自分たちが主のあわれみのうちに、主によって覚えていただいていることの恵みを、この系図を通して確認したに違いない。
 このユダ族の人々が捕囚後の神殿建設の再建にとりかかっているということはまさに主のあわれみのなにものでもないことを歴代誌は教えてくれている。
 また、ユダ族の系図として挙げられているなまえの多くは聖書の他の箇所に出てこない人が多い。あまり知られる人ではなかった者でも神の選びは確かで、このような人々に続いてユダ族が導かれてきたことを知ったユダ族の人々にとって神の選びの確かさを恵みと覚えつつ確信していくことができたことと思う。
 私たちも主の憐れみの歴史を継承する者となりましょう。

主題 <系図の始まり>

聖書箇所 歴代誌第一   1章  (2013年 1月26日)

今日のみことば「アダム、セツ、エノシュ」(1)

 歴代誌の著者については記されていないが、伝承ではエズラと言われている。主な内容はサムエル記、列王記の内容に重複するものがあるが、ユダ族、神殿礼拝についての記述が他に比べて集中している特徴があり、このことはイスラエルの民が捕囚から帰還した民が再び神の民であるという自覚と神礼拝の復興を意図して編纂されたという目的があったように思われる。神の民としての回復をめざして記されたとすれば、今日の時代に生きる私たちにとっては歴代誌は神と民として生きることを教えてくれる書と言えよう。
1章から9章までは延々と系図が記されている。アダムから始まり1章ではアブラハムの子孫(29-34)、エサウとエドム(35-54)について記されている。
アダムから始まっている系図で気付くのはカインが省かれているということである。カインの罪の故に省かれているようにも思われるが、神へのささげもの惜しむという神を礼拝するという観点から省かれたようにも感じさせられる。
 また、アブラハム(27)、イスラエル(34)も記されている。これらの人はまさにイスラエルのルーツとなる人たちであるが、こヤコブは、最初、イスラエルとは呼ばれていなかった(創世25:26)。ヤコブがイスラエルと呼ばれるようになったのは、ヤボクの渡しで神と戦って、「あなたの名は、もうヤコブと呼ばれない。イスラエルだ」と言われてからである(創世31:28)。しかし歴代誌の中では、ヤコブについては、ほとんどがイスラエルという名前で呼ばれている。これは、歴代誌を最初に読んだ読者である神の民が、捕囚から解放されて後に、「自分たちは神の民イスラエルである、神の祝福の約束の下にある民である」という恵みの立場を覚えるためであろう。

主題 <神のさばき>

聖書箇所 列王記第二  25章  (2013年 1月25日)

今日のみことば「バビロンの王ネブカデネザルはその全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、…」(1)  

 ついに信仰の国ユダ王国も、エルサレムもバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人民が捕囚となって悲しみの期間をすごすのです。歴史の中に神のみ手を見出します。神は、堕落と罪、偶像礼拝に陥ったイスラエルの民を、バビロン王国をもってさばかれたのです。
 けれども、バビロン王国が正しかったとか、正義の神の器なのではなく、神の民をさばく道具とされたのです。やがてバビロン王国も、神のさばきの中に壊滅していくのです。
 栄枯盛衰は今日も同じだが、この捕囚の苦しみを通して、ユダヤ人は重大な経験をした。それは、信仰がきよめられたということです。この捕囚によって、堕落したままのたくさんの人がいたですが、純粋に神に従う神の民がいよいよ熱心に求めるようになり、信仰生活に光が輝いてきました。
 また、捕囚はこのようにいくつものよい結果をも生んだのです。
 神の厳しいさばきとともに、神の備えられた恩恵に目をとめよう。あなたへの厳しいと見える取扱いも、新たな視点から見据えること、神の視点から見るときに、あなたへの期待なのだとわかるはずです。

<祈り>主よ。あなたが私にいつも目を留め、教え、さとし、恵みによって導かれるのです。感謝をもって受け入れる謙虚な信仰を。

主題 <私たちの選択> 

聖書箇所 列王記第二  24章  (2013年 1月24日)

今日のみことば「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。」(20)

 ついに、バビロンによってエルサレムとユダが占領され、捕囚となります。歴史は神の物語、ヒストリーといわれています。神に選ばれた民が神に背き、罪と偶像を崇拝する者となっては、主が投げ捨てなくてはならなくなるのです。
 人間はいかに罪深いものでありましょうか。現在おかれた立場に感謝もしないで、常に不足、不満がある所に、自分に仕える自分好みの偶像を生み出し、偶像を受け入れる素地を形成するものであると思う。
 神はいかなる時にも、より頼む者のとりで、楯である。神を愛し、神に悦ばれる生活こそ、我らが選び取らなくてはならない決断です。
 私たちの今日の選択が、明日の生活、霊性、信仰に大きな関係を持って迫ってくる。自らまいた種を自らが刈り入れるのが人間であるのですから、うみ疲れることなく、善を行うことを求めよう(ガラテヤ人への手紙)ではありませんか。神は侮るべきお方ではないと、旧新約聖書はあかししている。
 選びの民、イスラエルが神によって投げ捨てられる日がきたのですから、私たちも恐れの心を持とうではありませんか。

<祈り>主よ。私の人生をみこころにかなったものとしてください。あなたから投げ捨てられるような事になりませんように。