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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <聖書に帰る>

聖書箇所 列王記第二  23章 (2013年 1月 23日)

今日のみことば「王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、主に、過越のいけにえをささげなさい。」(21)

 ヨシヤ王の大宗教改革である。彼は、汚れた偶像崇拝のものすべてを徹底的に大掃除し、神に仕えます。そこには祭司も、祭壇も、建物も、森もみなはっきりと精算されます。この信仰に生きる決断には多くの反対勢力も数限りなくあったでしょう。しかし、彼は断固として神の計画を実行します。
 何故できたのでしょうか。その根本は契約の書、即ち聖書があったからです。聖書が今まで隠され、忘れられている状態でしたから、民は偶像に仕えたのです。いつの時代も、堕落する原因は聖書を見失った結果です。またリバイバルされる霊的な覚醒は、聖書に立ち帰る結果です。
この素晴らしい宗教改革を今も、継続して行うのが、きょうの決心です。
 昔も今も、聖書に立ち返ることから、信仰復興、リバイバル、宗教改革が始まるのです。
16世紀の宗教改革も聖書にかえり、今私たちの生活も、聖書にかえるところから信仰に生命が戻ります。 ”Back to The Bible.”

<祈り>主よ。契約の書、聖書を正しい位置に置きます。常に聖書によって、歩みを決定し、聖書の指導を待つ者にしてください。

主題 <神を恐れる生活>

聖書箇所 列王記第二  22章  (2013年 1月22日)

今日のみことば「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖タビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2)

 マナセは信仰的な父ヒゼキヤに育てられたのです。小さいときから神に従うことを見て祝福を学んだでしょう。しかし、悪王になり、ヨシヤは不信仰の父アンモンに育てられて偶像礼拝の中で、決定的な正義のクリスチャンになったのです。
 私たちの生活の中で、公的な生活と私的な生活を切り離してはいないでしょうか。敬虔な両親の子供は、両親が公の席ではりっぱなのに、家庭に入ると、ふしだらだったら子供はどう思うでしょうか。
 マナセは若くして世を去った父の教育を受けられなかったかも知れません。人は若い時は、何でも理屈をつけてみたがるものです。しかし、その考えが途中でつくり変えられていくのが大人といえます。マナセは残念ながら変えられていくのが遅すぎたのです。最晩年に悔い改めますが、時既に遅かったのです。<24;3-4>
 一方、ヨシヤは父の悪を見て、決してこうなるまいと決心したろう。よく世間で、酒乱の父をもった子は、決して酒をのまなくなるようにである。我々はそれぞれ父を持っている。心から尊敬し、父を人格者と認められる目を持ちたい。また、神を恐れる生活を日々に歩みたい。

<祈り>主よ。置かれた家庭で、あなたからの訓練を受け取れますよう。

主題 <悔い改める者を待たれる神>

聖書箇所 列王記第二  21章   (2013年1月21日)

今日のみことば「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。」(1)

 ヒゼキヤは善王だったが、彼の子マナセは最悪の王であった。恐らく、マナセはヒゼキヤ時代の反対勢力とくみして、自分の王位を保ったのであろう。彼は五十五年という長い間王として支配した。普通、長い間王となるのは国家にとって良いことなのだが、はたして、彼が長い間、王として治めることがよかったのでしょうか。
 彼の影響は、長い治世だっただけに、よりわざわいを残したと言えます。偶像に仕えるこの王ゆえに、神はこれ以上忍耐ができず、神の民を捕囚にしたのです。
この捕囚の辱めによってより純粋な神を愛する民が、よりわけられてくるのです。マナセは多くの義人を殺し、あの有名な預言者イザヤが殉教させられたのもこの頃といわれる。
 しかしついに、マナセが捕らえられた時に、悔い改め、再びエルサレムの王に帰った時、偶像を整理し、神に仕えたのです。老人になって目覚めたマナセは残念といえるが、しかし、それでも幸いである。
今日、多くのマナセのような人が悔い改めるのを待たれるのは神であります。神は一人でも滅びることを望まず、悔い改めに進むことを望んでおられます。一人の悔い改めの必要な人のためにあなたも祈って下さい。

<祈り>主よ。今を神と人に熱心に生きられますように。私の生涯が、人々に少しでも霊的な感化を与え、祝福を残せる者にして下さい。

主題 <信仰によって行動する賢い者に>

聖書箇所 列王記第二  20章  (2013年 1月20日)

今日のみことば「そのころ、バビロンの王は、…使者を遣わし、…」 (12)  

 ヒゼキヤに死の宣告が下ったが、彼は非常に泣いて、熱心に祈ったことにより、神からの答えが来て、何と15年も寿命がのばされたのです。このためは、日の影が10度戻るという奇蹟も与えて下さったのです。このことは、ヒゼキヤにすばらしいよろこびを満たしたでしょう。
 しかし、人生は皮肉である。このよろこびの直後に、そうです。恵まれた後に、大失敗をしてしまうのです。彼の病気見舞いに来たバビロン王国は、当時はごく小さな国だったが、国家の策略としてアッスリヤを封じ込める政策を立て、ユダと手を結んぼうとしたのです。
そこで、バビロンから来た王の代理の見舞いに来た客に、国にある宝物を全部見せたのです。彼は純粋な男だが、少し軽率なところがあった。宝物はダビデ以来の貯えられた豊かなものでした。
 やがて、直接にはその時の王は攻撃に来ないのだが、彼の後の王がエルサレムを攻撃し、ユダを陥落させ、エルサレムの金銀宝石を奪い、バビロン捕囚へと展開していくことを思うとき、恵まれた後の軽率な失敗が、後々の子孫に大きな禍根を残したのです。私たちもよく陥りやすい点であります。

<祈り>主よ。いつも祈り、信仰によって行動する賢い者にして下さい

主題 <祈りが磨かれる> 

聖書箇所 列王記第二  19章  (2013年 1月19日)

今日のみことば「ヒゼキヤは主の前で祈って言った。」(15)

 聖書学校にいた頃、塾長の市川先生は「諸君の伝道や祈りは、まるで伝道ごっこ、お祈りごっこのようだ。」といわれたことがある。人が責任を負わずにすることの多くが、<ごっこ遊び>のように流れやすいのです。
 しかし、いざ祈らなくてはならないと言う重大な時期に直面することがある。こうした時こそ、祈りが磨かれるし、本物になるのです。
 彼の祈りは、第一に、今、現に臨在されるお方を信じ、神が見、聞いていただき、神の感情に訴えるようにして祈り込むのです。
 第二に、彼はその苦しみをありのまま訴え、過去になした敵の事実に直面し、将来への不安のかげりも神に訴えるのです。
 第三に、具体的な祈りへの希求を、神の御名のあがめられることを願って祈りを閉じている。
 私たちは、この祈りを模範にしたい。この祈りが奇蹟をもって答えられ、預言は次々と成就していきます。この歴史に残る事実をもって、神は我らに何を語ろうとしておられるのだろうか。
 主の前に座り込み、じっくりと腰を据えて祈り込む必要はないだろうか。家族の問題、自分の信仰の成長、教会の祝福、などです。

<祈り>主よ、あなたの前に、見られ、聞かれ、心を動かしていただけるように、祈りの祭壇を築かせてください。

主題 <試みを通過した信仰へ>

聖書箇所 列王記第二  18章  (2013年 1月18日)

今日のみことば「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。」(5)  

 ヒゼキヤはまれにみる信仰深い王であった。彼は、父祖ダビデに近い霊的な人物である。国家にとって、敬虔なクリスチャンが支配することは、大きな希望であり、力であることがわかります。
 自分の信仰が、時々本物になっているかどうか疑うことがある。いや、時々神はそのことを試されるのです。それは試練を通してです。私たち現代のクリスチャンは、自分は信仰があると思いながらも、頭のこやしだけのようで、内的な強い確信にまで至っていないことが多い。
だから、試練は我々を試すよい機会である。神は倒すためでなく、我々を益するため、内に持った信仰を本物にするために、悲しみや周囲の無理解、苦しみを与えて内に持っている信仰を引き出して下さるのです。
 5節にも、ヒゼキヤは主に信頼していたといわれていることが、本章後半において、猛烈なゆさぶりをかけられ、信仰が問われてくる。
 今、あなたにとって、信仰が生きていますか。また、試練にあっている最中の兄姉よ、この試練の時を正しく生かせて、用いることができるように祈りましょう。
 苦しみにあったことは私に幸せでした。これによってあなたの御ことばを学んだと言いたい(詩篇119篇)。

<祈り>主よ。試みを通過した信仰へと訓練してください。

主題 <正しくないことをひそかに行ない>

聖書箇所 列王記第二  17章  (2013年 1月17日)

今日のみことば「イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、…」(9)

 罪は公然と行なうのではなく、秘密の中に行なおうとする。罪は人間が神をしめ出してしまうところからはじまる。しかし、神をしめ出す者は、神からしめ出される。彼らがひそかに行なうということは、きわめて神に対してぼうとく的行為であるのです。
 私たちは、お互いの生活における交わりも、生きた神に対する態度いかんなのです。私たちは光の中を歩くなら、互いに交わりを持つと、ヨハネは教えました(Ⅰヨハネの手紙1章)。
ダビデも罪を犯した時、神との間におおいができたと悲しみを告白しています。(Ⅱサムエル記、詩篇)
 決してひそかにはできない神に対し、人間はこれをおおいに隠そうとする。こんな人間に対して、神は大いなる忍耐をもっておられる。
しかし、神は常に警告を与えて、光の中を歩むように警戒を与えておられる。
 今日も、ヨハネがすすめたように、光の中を歩むよう、ひそかに行なわず、光の中に持ち出し、ゆるしを求めるべきなのです。(Iヨハネの手紙1;7~9)
 神との交わりがあるという、すばらしい世界へ今日も進むのです。

<祈り>主よ。あなたに対する罪を犯し、ひそかに隠そうといたします。いつも光の中を歩む、光の子どもにしてください。

主題 <世のものに心をとらわれて>

聖書箇所 列王記第二  16章 (2013年 1月 16日)

今日のみことば「彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入り口も、アッシリヤの王のために主の宮から取り除いた。」(18)

 私たちは仙人ではなく、この世にあって生きている。キリストも、この世を去るに際し、『彼らをこの世から取り去ることではなく、守ってくださることです』と祈られた(ヨハネの福音書17章)。多くのキリスト者、ことに世的なキリスト者は、この世との妥協点をどこに置くのかに迷うのです。
 試練の時、王は異邦人に助けを求め、宮の中の宝物をもってお礼をしたのです。彼等はもはや、主に対する自分の信仰で守り、進むのでなく、この世の力を用いて自分を守ろうとしています。
このために、10節からの礼拝そのものまで異教的になってくる。その結果、18節のように、<安息日のための備え>もあったものではなくなったのです。
 若いキリスト者である方々は、世のものに心をとらわれてはならないと心を定めてほしい。礼拝を守り、神に奉仕することを第一にしてほしい。世との妥協点を見つけ出そうとすることは、霊的生命を奪い、後々に禍根を残すことになるのです。
神殿は本来の神との出会いの本当の用を失ってしまったのです。

<祈り>主よ。自分の繁栄と欲望を遂げるためのどんなことでもしようとする、みにくい罪をきよめて下さい。

主題 <心の中に宿る高慢>

聖書箇所 列王記第二  15章  (2013年 1月15日)

今日のみことば「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までらい病に冒され、隔離された家に住んだ。」(5)

 アザルヤ(ウジヤ王のこと)は52年間治めた、良い王の一人で、神中心に行なっていた国王でした。しかし、残念なことに、晩年に高ぶり、神に打たれたのです。
 人間にとって最も大きな敵は外ではなく、心の中に宿る高慢である。人間はことに祝福された時に誇るのです。彼は有終の美を飾ることができず、子どものヨタムが摂政として国を治めるのです。
 はじめは謙遜で、神と人に仕える人も、わずかな成功に、たちまち自分の持っている本当の姿を、正体を暴露してしまう人がいる。
聖書はよくよく高ぶりに警告をしている。「高ぶりは滅びに先立つ」と教えます。ミカ書にも、神とともにへりくだって歩むことこそ、神が一番求められている信仰だと教える(ミカ書6章8節)。
 パウロはその晩年においても、使徒として高ぶらず、「われ、わが走るべき道のりを終え、…栄光の冠が待つ。」と最後まで完走したのです。凡人の私たちにとってはなおさらよく注意し、謙虚で主の導きを求める信仰に歩むことにより、高慢に陥る病気から勝利すべきです。

<祈り>主よ。高慢にふるまう自分の罪に気付かせてください。罪のさばきのしるしを背負いつつ生きるのでなく、恵みのしるしに生きられるよう導いてください。 

主題 <主の目にかなうことを行なった>

聖書箇所 列王記第二  14章  (2013年1月14日)

今日のみことば「彼は主の目にかなうことを行なったが、彼の父祖、ダビデのようにではなく、すべて父ヨアシュが行なったとおりを行なった。」(3)

 アマツヤは悪王ではなかったが、さりとて善に熱心でもなかったというのです。
父ヨアシュは、祭司エホヤダがいたときは敬虔だった王です。アマツヤは自分から積極的に神に従うことをせずに、自分の父親程度の信仰をしていればそれで良いだろう、と生きたのです。そして、その結末は父のように殺されている。可もない、不可もない消極的な信仰は消極的な結果であり、最悪の死を招くことを語るのではないだろうか。
 彼は父祖ダビデのように積極的な信仰ですべてのことを取り組むべきだったし、服従すべきだったのです。
 黙示録3章15~16節「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私の口からあなたを吐き出そう。」と、主イエスさまは激しく信仰生涯を歩んでほしいと求めておられる。
 神が私たちに聖霊を与えて、力強く押し出してくださるように祈り、期待するのです。

<祈り>主よ。信仰による生き方を軽んじていた先輩たちにならうのでなく、信仰的に生きた人々を模範とさせてください。