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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <戦いに勝利していくダビデ> 

聖書箇所 歴代誌第一  18章   (2013年2月12日)

今日のみことば「彼はエドムに守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(13)

 ダビデはまずペリシテ人とモアブ人を打った(1、2)。この二つの民族は、ダビデにとって親しさを感じる人々だったことだろう(Iサムエル27:2~7)しかし、ダビデは人間的なつながりには左右されず、主の約束に従って戦いを始めたことがわかる。それに続く戦いとして、ツォバとアラムの連合軍との戦いがある。彼らには多くの戦力があったゆえ、ダビデにとって、最初から勝利が見えているような戦いではなかった(4、5)。また、さらにはエドム人との戦いにおいてダビデは苦戦が予想された。
 しかし、ダビデとイスラエルの民は、周囲の敵対する人々との戦いにおいて連続して勝利をおさめた。そのすべての戦いは、勝利を得ることができると、考えられるものではなかった。私たちもまた、信仰の戦いにおいて、人間関係にとらわれたり、またはこの世の物質的な力量に圧倒されたりして、ほとんど勝利の見込みがなく、絶望的にさえなるような経験をするだろう。ダビデがそれぞれの戦いを最後まで戦い、勝利したのは、主とのとこしえの契約への信頼と(17:4)、恵みによって導くお方が共にいてくださるという確信があったからと言える。ダビデはこの戦いの直前には、主を礼拝するために多くの時を過ごし、労力を費やした。礼拝者ダビデは、その後の戦いにおいても、神を恐れて歩む者として臨んだ。ダビデはいつでも、一人の礼拝者として、神の御前にある態度においては変わりなく、一貫していた。
 私たちも問題に直面する時こそ主へに信頼を失うことなく、主に栄光を帰していくことができますように。

主題 <ダビデの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   17章  (2013年2月11日)

今日のみことば「今、あなたは、おぼしめしにより、あなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてくださいました。主よ。あなたが、祝福してくださいました。それはとこしえに祝福されています。」(27)

 ダビデは、主の契約の箱を安置し、神殿の建設を考えた(1)。しかし預言者ナタンを通して、主はその提案を退け、同時にダビデの家にとこしえの王国を立てることを約束された(4-14)。ダビデは約束に対する感謝をもって祈りをささげました。
 ダビデは祈りの冒頭で、自らを「しもべ」と呼んでいる(17)。ダビデは大きな祝福の中に置かれていても、それが主のあわれみによるものと見なしていた。主はダビデをよくご存じのお方であり、みこころのままにすべてをなされるのである(19)。
 また、ダビデは、主なる神を人間的な思いで小さくしてしまうことはない。主が異教の神々とは異なり、歴史を支配なさるお方であることを覚えて祈っている(21)。彼の祈りは個人的であるとともに、民全体を代表する祈りでもある(22)。彼は主の恵みの豊かさが、自らとイスラエルとに与えられることを確信している。自分の生涯以前と以後のイスラエルの歴史を支配しておられるお方に、信頼して祈りました。
 ダビデには神殿を建てることは許されなかった。しかし主は、ダビデの家に起こされる王国が、主によって堅く立てられるという祝福を約束された(10-14)。ダビデはその約束が、そのことばどおりになされることを願って祈りました(23、24)。
 ダビデの主への信頼とその姿勢にならい、私たちも主にゆだね、主による祝福に期待して祈る者となりましょう。

主題 <主への賛美>

聖書箇所 歴代誌第一   16章  (2013年2月10日)

今日のみことば「主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。」 (8)  

 契約の箱の移動終えて、ダビデは箱の前で、初めて主を賛美し礼拝する(7)。ダビデの主への賛美は、サムエル記第二には書かれていない。歴代誌は、王ダビデの、模範的な信仰の態度を記録している。
 7節以降は主を礼拝しささげられた賛美が記されている。この賛美の特徴は、命令形で歌われていて、主の前になすべきこととして歌われている。教育的な要素が含まれた賛美であった。
 第一に、主への感謝が勧められている(8-14)
 第二に、主の導きと憐れみを覚えるように勧められている(15-22)
第三に、主を賛美するように勧められている(23-27)
第四に、主に礼拝をささげるように勧められている(28-36)
 ダビデは契約の箱の移動を終えて、この大きな事業を通して、神は聖なるお方であり、賛美を受けるにふさわしいお方であることを覚え、それはダビデのみならずイスラエルの民全体が共に主をほめたたえていくことが重要であることを捕囚後のイスラエルの民は確認しなくてはならないこととして教えるように記録されていたということが分かります。
 私たちが聖なる主に賛美をささげるにふさわしく整えられているか、本当に主を礼拝しこころからの喜びがあるかを問われているように思います。
 私たちも主に真の礼拝者となって賛美をささげ歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <みことばに徹する>

聖書箇所 歴代誌第一  15章   (2013年2月 9日)

今日のみことば「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(13)

 主の厳しいさばきのもとに、神の箱の運搬がとどめられ、三か月以上が過ぎた(13:14)。この期間は、全イスラエルにとって、重要なものだった。14章の二つのペリシテとの戦いを中心に、彼らは神に求め、聞き従うことを改めて学んでいた。さらに彼らは、聞き従うことには恵みが伴うという確信をもって、再度、モーセの教えに忠実に従い(15)、契約の箱を運ぶ備えをした。具体的に言うと、ダビデはレビ人を、箱を直接運ぶ役割に任命した(民数7:9参照)。彼らの運び方は、モーセの教えに忠実であった。彼らは聖なる箱を運ぶのにふさわしく、自らを聖別した。ウザの死を通して知った過ちを悔い改め、厳密にみことばに従った(14、15)。ダビデは、以前の厳しいさばきは、主を「定めのとおりに求めなかったから」だと言う(13)。「主を求める」態度は、みことばに従うことによって示されることが、ダビデとイスラエルの行いから知ることができる。
 16節からは、契約の箱をエルサレムヘ運び入れる、行列の様子が記されている。契約の箱に関わる全般的なことをレビ人が負ったが、幅広い奉仕に徹するレビ人もいた。このようにして契約の箱が運ばれることにより、全イスラエルに喜びが生じた(28)。
 ところが、この様子を離れたところから見ていたダビデの妻ミカルは、神の箱に表されている、主の臨在を喜ぶダビデをさげすんだ。
 主のみことばに徹し切ったところに主の祝福と喜びがあったことをまず覚えたいと思います。

主題 <主への恐れを起こさせる>

聖書箇所 歴代誌第一   14章  (2013年2月 8日)

今日のみことば「こうして、ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。」(17)  

 15章1~7節にはツロの王ヒラムから、王宮を建てるための資材提供があったことが言われているが、それは後の神殿建設の良い備えともなった。ダビデは、神の民以外の者からも良い評価を得、またたくさんの子孫にも恵まれた(3)。
8~17節にはペリシテ人との二度の戦いについて記されている。ダビデ王とイスラエルは、ペリシテと二度の戦いを経験する(バアル・ペラツィムの戦い。ギブオンからゲゼルまでの戦い)。それらの戦いに共通するダビデの特徴としては、「神に伺う」(10、14)という点が挙げられる。それぞれの戦いにおいて、ダビデは主の導きを常に求め、聞き従った。
神の民イスラエルがペリシテを破ったことは、諸国にも知れ渡った(16)。諸国の人々はイスラエルを恐れるとともに、イスラエルの神、主を恐れる、ダビデを恐れた(17)。
すべてのことは主の導きのうちに整えられ、すべてのことは主に導きを求め、それに従おうとする姿勢が大きな勝利をおさめていったことを見る時、私たちも徹底して主に導きを求め、従って行かなくてはならないことを教えられるのではないでしょうか。そして、いつも主を恐れていたダビデの姿を通して、人々がダビデの信じる神を恐れるようになったように、私たちを通して、神を恐れる思いが起こされていくような証し人になれるように祈っていきたいと思います。

主題 <主への恐れ> 

聖書箇所 歴代誌第一  13章  (2013年2月 7日)

今日のみことば「その日ダビデは神を恐れて言った。「私はどうして、私のところに神の箱をお運びできましょうか。」(12)

13章の内容は、サムエル記第二、6章にもある。サムエル記では、契約の箱の移動の決定も、ダビデ一人によるという印象を受ける。しかし、ダビデは民のリーダーたちと共に箱の移動を決定し、また民全体を集合させることで、ダビデ個人の事業ではなく神の民全体の働きとして進めていることがわかる(1)。「エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまで」と言われている地域は(5)、当時のイスラエル人の生活圏の北から南までである。ダビデ王は全イスラエルによって王とされた。そして神の御前での民の整えの始まりに、契約の箱を自分たちのもとに取り戻すことも、全イスラエルによって始められた。彼らには大きな喜びがあった。
全イスラエルが喜びを豊かに味わっている途中で、その喜びが全く逆転してしまう、いわゆる「ウザ打ち」と呼ばれる出来事が起こった。ダビデ自身は、主が怒りを燃やされた理由が明確にわからなかったのだろう。「ダビデの心は激した」(11)。最初、彼の心は主の怒りに対して、怒りを抱くものであった。しかし、後には主への「恐れ」に変わる(12)。15章2節を見ると、箱を運ぶ方法に不適切な点があったことがわかる。ダビデは、主の怒りはウザに対するものであり、またこの動きの先頭に立っていた彼自身に対するものであることを自覚するゆえに、神の箱を運ぶことを一時中断した(12)。ウザに対する神の怒りは、民の動きに対する神のご介入でもあった。私たち信仰者も、限界を持つ人間なので、主のための熱心さのゆえの行動であっても、主の教えていることを充分に理解していない欠けがあることもあることを知らなくてはならないことを教えてくれている。

主題 <ダビデと民を導かれる神>

聖書箇所 歴代誌第一   12章  (2013年2月 6日)

今日のみことば「誠実な心で、並び集まったこれらの戦士たちは、ヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にした。」(38)

 12章は11章から続いてダビデを王として立てられたことの記述の続きである。主に、ツィケラグでの王として立てられた記述とヘブロンで王として立てられた記述が記されている。
この2箇所で王として立てられたことの記述が収められていることは何を意味しているかと言えば、ツィケラグとはダビデがサウル王に追われて逃れていたペリシテの領地であった。ダビデは順風満帆に王に就いたのではなく、大きな試練を経て来ている。それを助ける者たちが多くあったことを示し、支えられていく中に主の御心は示されてきたことを教えてくれている。
そして、ヘブロンにてダビデが王とされたと記されているが、この時に至ってダビデはさらに主の前に整えられて王とされていったことを強調している。特筆すべきは、ダビデのもとに集まった人々として、具体的にイスラエルの各部族を挙げ、その中の戦いに備えた者の人数を数え上げていることである。彼らは心を一つにして(33、38)ダビデのもとに集まり、そして彼を全イスラエルの王とした。このことを通して、ダビデがイスラエル全体の総意によって王とされたことを確認できる。
 神のご主権のうちに、ダビデは王とされた(23参照)。それはダビデ個人の栄光になることではなく、神が全イスラエルを顧み、そして支えておられたことが、ここでは強調されている。
 神は、ダビデのように一人一人の信仰者を導かれるとともに、神の民全体を絶えず顧み、愛しておられたということである。

主題 <ダビデと勇士たち>

聖書箇所 歴代誌第一  11章   (2013年2月 5日)

今日のみことば「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(11)

 11章からは、ダビデ王が登場する。
 ダビデを王とするために集まってきたのは、全イスラエルだった(1)。この箇所の並行箇所である、サムエル記第二、5章を見ると、ダビデに最初に油注いだのは南ユダの地域の全部族であったことがわかる(Ⅱサムエル5:1、5)。しかし歴代誌は、ダビデが王となる経緯について簡潔にまとめ、彼が全イスラエルの王として、「民」によって認められ、それが主のことばどおりになされたことを強調している(3)。ダビデが王となったのは、民のダビデに対する認証と、何より主のことばの成就の結果だったことが強調されている。
 ダビデには早い時期から彼を助ける勇士がおり、同じことが記されている平行箇所サムエル記第二23章と比べるとその名前が多く記されていることから、実際にダビデを支える人が非常に多くいたことが伺える。
 ダビデが王として立てられ、それを全イスラエルが認証して、それを支えていくという国の一体感を感じさせられる内容が記されている。これは歴代誌の特徴でもあると思うが、神によって立てられた者を中心に一致して再び復興していかなくてはならない捕囚後の民にとって確認しなくてはならないこととして記されているように思われる。
 私たちも自分の支配、権力欲で行動するのではなく、信仰の土台であるみことばに聞き、主にあって共に一致した兄弟姉妹との交わりを大切に支え合って共に主の前に建て上げられることが出来たらと願います。

主題 <不信の罪>

聖書箇所 歴代誌第一   10章  (2013年2月 4日)

今日のみことば「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、」(13)

 10章からはイスラエルにおける歴史上の出来事の記述が始まる。最初の王サウルについて記されている。しかし歴代誌においては、輝かしいイスラエル王国の始まりを記しているというよりは、サウルの死に焦点が向けられて記されている。
 最初の王サウルの死は主のさばきとしての死であるということが明確に記されている(13、14)。
歴代誌を最初に読んだ人々、つまり捕囚の身から解放された民に対して、イスラエルの歴史に霊的な暗黒の状態と無関係ではないことを、示していたことが分かる。
 サウルの生涯についての評価は、13~14節で語られている。サウルの罪を包括的に説明することばとして「不信の罪」ということが言われている。具体的には、彼が、主のことばを守らず、霊媒によって伺いを立て、主に尋ね求めなかった、という三点であった。また、13章には、ダビデ王と比較すると、サウルは契約の箱を重視しなかったと記されている(13:3)。彼は内なる信仰においては、主に対して不従順であり、また信仰の表れとしての具体的な礼拝の形においても、欠けたものがあった。そして彼の死は、主のさばきとしてもたらされたことが明確に言われているのである。
 歴代誌10章は現代の私たちにうわべだけでない真の信仰として歩むことを示してくれている。そのためにも重要なことはこれまでの歩みを悔い改め、主にあって新しい歩みをしていくという決断が必要であることを覚えたいと思います。

主題 <エルサレムに住んだ人々>

聖書箇所 歴代誌第一   9章  (2013年 2月 3日)

今日のみことば「ところで、彼らの所有地である彼らの町に最初に住み着いたのは、イスラエル、祭司たち、レビ人および宮に仕えるしもべたちであった。」 (2)  

 歴代誌は、バビロンに捕囚の民とされ、後にペルシヤ王クロスによって帰還が許されて、自分たちの国へ戻った神の民イスラエルに対して書かれた書物である(1、2)。延々と系図が語られたのは、捕囚から戻った民が、主によってはるか昔から用いられてきた民であることを、自らに思い起こさせるためであっただろう。本章は、捕囚から戻ってエルサレムに住んだ人々のリストである。
 神殿があり、イスラエル人の信仰あるいは政治等の中心地であったエルサレムに、捕囚から帰還した民はだれもが住みたかったのではないかと、我々は想像しがちである。しかし、バビロンの侵略によって荒廃したエルサレムには、ほんのわずかの人々しか住もうとはしなかった(ネヘミヤ11:12)。安全や食物の供給に対する不安が、人々の中にあったのだろう。
 捕囚帰還後、人々が積極的には住もうとしなかったエルサレムに最初に住みついたのは、祭司やレビ人だった(2)。神殿の再建によって神の民イスラエルとしての信仰の再興を熱心に求めていた人々が、生活の困難があるとしても、まずそこに定住することで、神殿再建の願いが現実となることを求めたのである。
 今日、私たちキリスト者も地域の中に住み、その中で証して生きていくことがいかに重要であるかを思わされます。私たちが主を第一として歩むその姿勢が地域の中に証されているということを覚え歩んでいく者とならせて頂きたいと思います。