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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <人の苦悩を理解する道>

聖書箇所  ヨブ記 21章     (2013年5月23日)

今日のみことば「あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。」(2)

 ツオファルの罪人の運命について語ったことには真実が含まれている。だがそれがすべてなのではない。この世には罪を犯す悪人があらゆる幸福を手にしているのを見ることがしばしばあるからだ。
ヨブにとっての論点は、神はなぜ、悪人の繁栄を許しているのかである。それをただ悪人の上には災いが下るといい、そのヨブが悪人であることを責め立てていても、愛がなければ、正義の言葉も救いや希望の道筋さえつけることはできないのだ。
 地上の生活には、神がおられるならもっと明確な線引きがあり、悪を行う者がさばかれていいのではないか。それなのに、かえってすることなすことが成功しているように見える。神を侮りつつ、子孫が繁栄し、事業はうまくいっているように見える。健康でつまづきがない。
 ただそうした世界に映るのは一面からの見方であって、真実から別な見方もある。主がルカ16;19-25にはこの地上で豊かな報いを受けた者は御国では失われることを語っているのである。
 ヨブが苦悩するのは、なぜ苦悩があるのか、この苦しみなどない方がいいと叫んでいるのではない。そうではなく、この苦しんでいるヨブそのものの叫びを受け止めてほしいのだ。苦しみを人が解決することがほとんどできないとしても、深い共感していただけたという実感が重要なのである。
 ヨブ記を読む上で、私はとても深くこのことを考えさせられている。人を簡単にレッテルを貼り、わかったような考えでいるということがないか。人生はもっと深く、豊かで、味わい深いものなのだ。そのことを自分自身だけでなく、他者の苦悩と関わることに意味があるのだ。

主題 <悪意ある証言に直面する>

聖書箇所  ヨブ記 20章     (2013年5月22日)

今日のみことば「これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。」(29)

 2-3節のツオファルのはじめの反論には驚くほどだ。もっとも19;28-29で苦難の中にいるヨブから警告されたことにいらだち、逆ギレしたのである。このような口論や議論では人を説得したり、心の痛みを和らげることは不可能だ。かえって悲しみが増す一方になるのである。
ヨブの苦難は、苦難そのものよりも周囲のいたわりのない言動からもたらされたものであった。あなたも同じような試練に直面して同じような悲しみを増した経験があるでしょう。彼のヨブへの言葉は、でっちあげたような罪を次々とあげつらうのである。責める友人達が一緒になっている。その集団に忠告やいさめる人物がいればよいが、ますますエスカレートしてゆくのである。
 19―21節には、ヨブが踏みにじり、かすめ奪い、むさぼっていると非難する。富んだ者へのねたみやあらぬ訴えをねつ造する。
 22-26節には、満ち足りていても貧しくなり、若くして健康だった者が戦いで生命を落としてしまうという。なんというひどい非難の言葉だろう。その極めつけが、「これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。」(29節)と言うのだ。
 今日は、悪意あるグループにいることがどんなに問題かを見極めていこう。そして悪を語る人間にだけはなるまいと決心しよう。
 こうした非難に立たされた痛みを持つヨブを推察し、一緒に悲しむ人の場に立てるようになりたいと自己訓練をしたい。悪意ある人たちのいる場に立つこともあるでしょう。でも主にゆだね、他者が立っているときには精一杯に弱い者の側、支える者の側に立とうではないか。

主題 <私を完全にあがなう方がいる>

聖書箇所  ヨブ記 19章     (2013年5月21日)

今日のみことば「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25)
 この聖句はヨブ記の中心である。苦難の中で「私を贖う方は生きておられる」と確信している。私を贖う方は親族の立場の者である。だから神はヨブにとって家族でもあるという意味だ。苦難に遭わせることを許した神だが、そこに家族よりの深いいたわりがあることを。
13―14節にある神の取り扱いは、「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。」と嘆くが、それはヨブをして神への信頼へと道を開いてゆくための道具立てだったのだ。ヨブにとっての頼りとした家族や親族の支えを神は砕かれてしまった。
 同じ出来事ではないが、神は私たちにも同様な取り扱い方をなさるのです。人間的な頼りとするものを神は砕かれてしまう。だが、そこで親族よりも深くて強い確かな神の存在を見いだすためであるのだ。
 ヨブは新しく神を発見する。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)と。私を贖う方がいる。私に味方し、私を愛し、完全な救いをもたらし、いっさいを成し遂げてくださる。完全な状態にまで神は変えてくださるのだ。「後の日」とは、この世の終わりの時を指している。自分のちりのような者を引き上げ、喜んでくださることを言い表した。今現在の状況などに、関心を向け、心を奪われている時間はないのだ。
 試練に持つ意味は、地上の事柄に心を奪われないで、神の国への確かな希望を抱くためである。そうして心がきよめられ、人格が神に似た性格が形造られてくる。でも消して地上を無視しない。なぜなら、「ヨブの最後を見よ」、とヤコブは語っている(ヤコブの手紙5;11)。

主題 <いつ、けりをつけるのか>

聖書箇所  ヨブ記 18章     (2013年5月20日)

今日のみことば「不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(21)

 再びビルダデがヨブに託宣する。いつまで自我を主張して自分を正しいとし、忠告を受け入れないのか。明らかにヨブが間違えており、試練に遭うのはヨブに問題があったからなのだ。「いつ、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。」と。友らの考えを受け入れれば、話し合ってもいいという高飛車な態度を感じるのだ。ヨブの反論から、より激しい反論となっている。
 5節の「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。」は、新共同訳聖書の訳のように『神に逆らう者の灯はやがて消え/その火の炎はもはや輝かず』という意味である。悪者とは罪や悪を行うという意味ではない。神を信じていない人間のことである。ヨブが神を信じていないと断定するのである。
 7-8節には、「彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。」と悪しき者には必ず危険と不幸があり、ヨブがそうなのだと決めつける。自分で自分を正しいとして落とし穴を作り、自分で落ち込んだようだといさめる。19節には「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかにはひとりの生存者もなくなる。」とまで決めつけられる。極めつきは、「不正をする者の住みかは、まことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(21節)とまで言われた。
 ヨブへの最後通告のような言葉だ。友人だからと言いたい放題ではないか。こうした取り扱いをされた経験を持つ方もいると思う。そこにヨブ記を読む深み方とその真実が読み取れよう。

主題 <神のみが信頼し得るお方だ>

聖書箇所 ヨブ記  17章     (2013年5月19日)

今日のみことば「どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。」 (3)  

 1節で、ヨブの深い決定的な失望と失意を告白する。「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」
 2節で友人のあざけりの中で眠ることができない。「しかも、あざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。」
 3節で神以外には信頼できる方がいないと。神だけがヨブの保証をしてくれ、支持してくれる方は神のみなのだ。16;19の「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。」(新共同訳聖書)という確信をいっそう深めるのである。
 苦悩と孤独、友人からの拒絶を通してヨブはさらに一歩高くされてゆく。さらに強くなってゆく。さらに天に確信を深める。
 現実の試練とその試練に対する友人の取り扱いの中で、さらにさらに惨めな気持ちになってゆく(5-18節)のだが、だからこそ、天に望みを託せるようになるのである。この地上での人間的な希望がくじけ、失われ、かえってダメージを与えるのみだ。だから天に望みを一層向けるようになってきたのだ。やがて、19;25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」と突き抜けるのだが、それはさらにもう一つの訓練の段階が必要なのかも知れない。
 こうしてヨブにとっての試練はより一層完全な者へと変えられる契機となってきた。人生の試練は思いもかけない祝福へと導こうとしているのに気付かないことが多い。実は、隠れたところで神は働かれていた。あなたを聖化し、主のみ形にまで成長させる道具だったと。

主題 <保証してくださる方に祈ろう>

聖書箇所 ヨブ記 16章   (2013年5月18日)

今日のみことば「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(19)

 ヨブの悲しみとそこからくる応答を読み、心が砕かれてくる。エリファズの正統的な、しかも自意識過剰な扱い方(15;11「神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」)に対する真っ向からの反論である。
 3節を読むと、冷静と見えたエリファズさえ声を荒げて迫っていたのかも知れない。ヨブは、もしも立場が逆転したら、彼のような慰めの仕方をしていたろうと嘆くのである(1-6節)。
 それにしても、神に打たれ、打ち砕かれ、破れに破かれ、徹底的に責め立てられていることをこんなにも深く表現している言葉を読んだことがない。(7-16節)
救い主イエス・キリストが神に見捨てられた悲しみを十字架の上で告白し祈っているが、それにほんとうに近い思いがする。
 その上での友人達からの徹底したさばきの言葉だ。ヨブは耐えられるのだろうか。もう数年もすれば私は帰らぬ旅路につくからです、と決意する。(22節)
 しかしここでこそ、ヨブにとって天に保証してくださる方がいることを知っていたのだ。友が私をあざけるが、私の目はただ神に向かって涙を流すのみですと。(19-20節)
 ヨブの真実の保証人となってくださる方をのみ信頼するのである。究極の信仰の根拠を思わせる。天において保証してくださる方、救済してくださる方がいる。苦悩のただ中にあってこそ、天に目を向け、そこに支えと希望を向けるのである。ここに、主イエス・キリストの大祭司として私たちを弁護してくださる姿をはっきりと感じ取れる。

主題 <他者へのまなざし>

聖書箇所  ヨブ記 15章     (2013年5月17日)

今日のみことば「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(4)
 再びエリファズがヨブを責め立てる。彼の言葉は、痛み苦しむヨブへの思いやりのかけらも感じられないのである。時々、牧師と言われる人の中にも、この思いを感じない人を見ることがある。宗教家だからだろうか、律法にはきわめて厳格そうだが、そこに流れる神のいつくしみにふれられないのがひどく寂しい思いがすることがある。激しい苦難、子ども10人を一夜にして失い、全財産を失い、健康がすっかり失われている。そのヨブを見てギスギスした論理だけがまかり通ってはばからないのだ。信仰を捨て、祈ることをやめていると。
人はそんなに強いのだろうか。人は小さな出来事に直面して震え上がり、人々のうわさに心が冷え切ってしまうことがしばしばあるのだ。その彼を囲んであれこれ弱さと痛みに塩をすり込むようなことをしている。そうした宗教家を私は嫌う。主が関わられた人々を取り囲み、罪をさばき、自己を高揚している群れがあった。一般の人々を平民として見下げ、律法を知らないただの人と扱っていた。だが新約時代の律法学者、パリサイ派の人々をはるかに超えるキリストがおられる。主は傷ついた婦人、取税人、罪人をきわめて大切に扱っている。
実際にはヨブは祈りをやめてはいない。これまでの3人への反論の中にさえ神への祈りの中にあったことがわかる。ただ、人を簡単に切り捨ててその人をわかったような取り扱い方をされることがある。
ヨブ記を読みつつ自分の襟を正していかなくては、と思う。5-6節を見ると、「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」決めてかかっているのだ。他山の石としたい。

主題 <人生とは何ぞや>

聖書箇所  ヨブ記 14章     (2013年5月16日)

今日のみことば「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。」(1)

 <人間と何ぞや>と問うことほど意味のある時間はない。なぜなら、順調な日々を過ごしていては、真実に人間とは何かを問うことはほとんどないからである。試練に直面し、前に進めないと絶望的な状況に立ってはじめて考えるのである。まことに賢いようで人間は愚かだ。しかし、与えられた試練の日々こそ、心がかき乱される時間こそ大切なのではないか。
 今、人一倍に大きな試練に直面している方には辛いようですが、深く立ち止まり思考する時間と変えられていくのである。人間の苦悩する姿に比べて自然界、木には望みがある。切られても再び芽を出すからだという(7節)。
 しかし、人は死ねば再び問うことすらなくなるのだ。こう考えることから神を真剣に求めるのである。それが『人間』である。
神の国には、神が選んだ人間ならぬ兵士がいる。神の国のために生きる兵士、戦う兵士、そしてやがて戦いを終えて戦場から引き揚げる時が来る。それが戦闘途中での引き上げか、戦争が終結して帰還する兵士なのだろうか。その時に忠実に戦った兵士には豊かな報酬が待っている。人生の戦場という召された場で、いかに深く戦ったか。この戦いは自分の生を問うことにほかならない。短い人生で、心がかき乱される日々の中で、神を熱心に追い求める者でありたい。やがて、神から栄光の冠という報酬を受け取ることになるのです。
人生で悩むことをやめないでください。短いことを強く意識して、大切な苦しみを土台として歩んでください。やがて栄光のキリストに会い、同じように栄光の冠を受賞する日が来るのですから。

主題 <神への絶対の信仰>

聖書箇所  ヨブ記 13章     (2013年5月15日)

今日のみことば「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。」(15~16)

 この聖句はヨブの信仰の核を表している。神への絶対的な信仰は、たとえ神が私を殺しても、神が救いとなることを確信している。
 神が世界を支配し、正しい者に幸いを、悪の人に災いを報われるという伝統的な神学も心得ている。それで私の苦悩を解決できると思っているのか。私にとっては神と直接に論じ合いたいと言うことだ(1-3節)。そこで神のみこころが何処にあるのかをはっきりとさせたいと願っている。
 神は私を殺すかも知れない。しかし、私はなおも神を待ち望むというのである。以前の口語訳聖書では、『絶望だ』と訳したが、新改訳聖書のほうが適訳である。昔の文語訳聖書は『彼われを殺すとも我は彼に依頼まん。』であり、ヨブの信頼をよく表している。
 神を敬わない者は神の前に出ることができないからだという。それは神との距離を置こうとする人間の姿勢である。しかし、神の救いと祝福にあずかれるのは、求めて始めてやってくるものだ。神を自分の直接の相手として私の道、歩み、すべてを主張しよう。人が私を正しいと言おうが、悪いと言われようが、神の前における生活こそ、神の国がやってくるのだ。神の国は激しく攻める者が奪うのだ。
「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイの福音書11;12)。神が自分を殺すようなことがあっても神を信じることを貫くという力強い告白をすることができる。

主題 <私にも悟りがある>

聖書箇所  ヨブ記 12章     (2013年5月14日)

今日のみことば「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」(3)

 ヨブがツオファルに対して応答しているが、いつしかヨブの苦難のことよりも議論の内容が中心に移ってしまったようだ。私たちも、時として議論のための議論に精神をすり減らして時間を使うことがある。
 ヨブを責める友のことばには、すっかりヨブが嫌気をさしている。だから、2節にある「確かにあなたは人だ。」、3節の「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」と応答したのである。そして、自分が友の思いやりあるいやしの言葉よりも、ヨブを責める正当性に傾いていることを悲しんでいる。その上で、だからこそ自分が友の物笑いとなっていることに痛みをもっているのだ。
 その痛みと悲しみを持つ友に対しては、ま心を置きたいのである。教える教師はいらない。正しいことで簡単に仕切る職員はいらない。
 なぜヨブは一層苦しみを深めるのか。正しい人が栄えることよりも、神を怒らせる者のほうが安らかなのだ。荒らす者の天幕は栄えていると見えることだ。こうした中で傷を負った戦士の訴えを聞いてほしいのだ。傷ついているヨブの痛みにいっしょに立ってほしいだけなのだ。
 かつては神を呼び、こたえられた聖徒が、今や自分より以下と思える人々に物笑いとなっていることに傷ついていたのだ。安らかそうな人間が衰えている者を踏みつけてとくとくとしている。だんだんヨブは獣のように陥り、人間的な思考を失っていく。
 感情で説き伏せようとする者へのヨブの応答に圧倒される。ここから他者への配慮、苦しむ者へのいたわりが大事かを学び取りたい。