« 2013年1月 | メイン | 2014年6月 »

2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <あなたは自分の悪を改めれば>

聖書箇所  ヨブ記 11章     (2013年5月13日)

今日のみことば「あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14)

 ヨブの三人の友人のうちでツオファルは感情的に走る人物である。エリファズは教条主義者、ビルダテは建前主義者、そしてツオファルは感情露出家で、もうヨブへの同情心などはないのである。そして二人の友人の言葉とヨブの応答を聞いていて我慢ができなかった。すぐに出てきた言葉が、2節の「ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。」と。別訳には口が達者なら正しいとされるかと。
 友人達の言葉には正しいことがほとんどである。ただ、彼らに欠けていたものは何かと言えば、深い思いやり、苦難のただ中にいるヨブへの同情を土台とすることである。教会でも、議論に陥るケースは、一人一人への思いをくみ取ろうとしないで、一般社会のように問題に関わろうとすることがある。たしかに、正しいと思えるが、相手に対して何とかして教えよう。何とかして説得しよう。間違いを探して正しい道へと導けるぞ、と思ってしまうことである。
 ヨブはとてつもない苦難に置かれているのである。しかも、そこにあるいは神から打たれているのではと言う不安もあるのだ。
 このヨブに追い打ちをかけるようにして「あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14節)と訴えかける。ほんとうに必要なのは、たとえどんなに罪を犯し、社会的に失敗しているとしても、さばきの目や解答を与えることではなく、そこに置かれている兄弟の苦悩に対して思いやる心だ。あとでどんなに正統なことを言っても、心に届かないのである。届かない正統的なものはかえって悲しみを増すことを心に刻もう。

主題 <神よ。教えてください。>

聖書箇所 ヨブ記  10章     (2013年5月12日)

今日のみことば「私は神に言おう。「私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。」 (2)  

 不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。」ヨブはこれ以上生きていたくないほどだと。そして自分の不平をぶちまけるのは神さまに対してだと。そして神よ。知らせてほしいと。
 私は牧師として多くの方々に苦難の意味を教えてほしいと求められる。それが人間的に絶望的と見える問題であったりする。だが、私たちに残されている力、道がある。神への祈りである。その中心は「神よ。なぜですか。なぜ、この私と争われているのですか。知らせてください。」と。今、あなたにとっても、どうしても了解のできない問題に取り囲まれているかも知れない。
あなたはだれかにその問題を話し、わかってほしいと訴えたことも何度もあるでしょう。誠実に応答してくれる人もいたでしょうが、たいていは耳を貸すことさえいやがる人もいるのです。そして社会や周囲に嫌気がさしてしまう。人は信じられないと。そうです。だからこそ、これからの神の出番を待たなくてはなりません。神こそ、あなたの苦難をだれよりも理解し、支え、苦しみに変えて祝福と繁栄を回復される方です。
 今は、忍耐をもって許される限り祈ろう。「神よ。教えてください」と。神は生きた神、人間を、あなたを愛されている神である。こたえないはずはないのです。そしてこれまでの余分と見える事柄を脱ぎ捨ててシンプルに生き始めてみようではないか。
 神は必ず天を裂き、あなたの所に帰ってくださる。それまで祈り続けようではないか。「主よ。来てください。」とは聖書の最後の祈りだ。

主題 <自分には問題があるが言わなければ気が済まない> 

聖書箇所 ヨブ記  9章   (2013年5月11日)

今日のみことば「神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。」(4)

 ヨブと友人の信頼関係は崩れました。ヨブの苦悩と絶望感はいっそう深くなるばかりです。2節の「まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」のように、正統的な神学もヨブの一切の問題を救うことができない。ことに信仰の問題は人格的なものだからである。
 ヨブはビルダテに対しても反論する。たしかに、君の言っていることは正しいのだろう。その通りだ。だから自分の正しさを振りかざして反論できるわけではない。そのうえ神に対してはなおさらだ。神に身をこわくして強がっても、反抗してもどうにもならないのだ。こうして自分を懸命に主張しても、それが無駄であることを知りつつも主張せざるを得ないのだ。これがヨブの苦悩なのである。
 ヨブの自分を正当化する言葉をたくさん見る。17-18節「神は理由もなくあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。」と。
 そして、21―22節には「私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。」と悲鳴を上げているのだ。だれがこのヨブの悲しみの告白の深い嘆きを知るだろうか。みんな友人の側に立っているようなものだ。ヨブの嘆きに心を一つにする人々がいないばかりか、苦しめるのだ。
 だからこそ、ヨブは自分を主張しないわけにはいかない。自分には人間であるゆえに、完全でもなく、問題がないわけではない。だが、自分を自分で支えなくてだれが支えてくれようか。これが叫びだ。

主題 <もし、あなたが純粋で正しいなら>

聖書箇所 ヨブ記   8章     (2013年5月10日)

今日のみことば「もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」(6)

 三人の友人の一人ビルダテは、エリファズの言葉へのヨブの反論を聞いていてはじめからヨブを責め立てるのである。
 2節に見る「いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。」とヨブが罪を犯しているからであると断定して次の内容を語る。
第一に、神は正しいお方であることが前提である(3節)。
第二に、ヨブには罪があるから災禍が来たと事実認識をする(4節)。
第三に、ヨブが純粋で正しいとするのは間違いだ判断する(5節)。
 そして8節から19節までに、伝統的な考え方を通してヨブを説得するのである。「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。」と語る姿勢には、毅然とした思いが伝わる。なぜなら人間の生涯は短いから究極の知恵を探れないので、先祖達の知恵からわきまえなくてはならないと言う(9-10節)。その上で、ヨブに対して「すべて神を忘れる者の道はこのようだ」と断定する(13節)。そのうえ自然界、植物の比喩を用いて、ヨブのかつての繁栄と現在の苦難とを言い当てているのである(16-19節)。
 20―22節で、神は信仰において正しい潔白な者を助けるが、悪を行う者の働きには助けることをしないと明言する。
 だからこそ、21節のようについにはヨブが悔い改めに進み、将来に繁栄を取り戻す期待が込められている。伝統的な神学に立脚し、内容には問題がないが、独善的な態度なので、ヨブを慰め、信仰を燃やしていくことができないのである。同じことをしていないだろうか。

主題 <神に心底から訴えたい> 

聖書箇所  ヨブ記  7章    (2013年5月 9日)

今日のみことば「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」(17)

 この章は、二つの部分に分けられる。前半の1-6節は、友人へ自己の主張を述べるのでなく、自分自身に内なる独白を言い立てるのである。後半の7節以降は、友への反論ではなく、神への祈りに向かうのである。このように、私たちは苦悶する現実に立ちつつ、自らに語りかけ、そして神に語りかけているのである。苦悩の極限状態となっていることを現している。
 前半の独白には、むなしい月々、苦しみの夜があること、むなしい日々が過ぎ去ると苦悩があふれ出てくるのである。苦しみには少しも目的もなく、充実した時間を過ごす意味もないと思うものだと。
 一方、神に訴える道をもっている。私は、もし神を知らなかったら、そう思うとぞっとするのだ。神がおられることを信頼するので、奥底からの嘆きを訴えることができる幸福があるからだ。11節にあるとおり、「それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。」と素直に自分に語りかけ、神に語りかける。自分の口を押さえ込まないで、ありのままに神に語れるのだ。詩篇の叫びに通じるものがある。
 だから、私は自分のいのちをいとうと言い、いつまでも生きたくありませんとだだをこねられる。私はここにヨブの自由な霊性を見る。
 17節の今日の言葉には、とても皮肉な表現をしている。言葉そのものには信仰ある言葉であり、詩篇8;4や144;3には、神への信頼を表明されているす。だがここでのヨブが表白しているつぶやきは、深い神への信仰を見いだせるのではないか。偽善的な祈りもできよう。しかし、真実の叫びを上げ得たのだ。ここに真実を見る思いだ。

主題 <何を責めたてているのか>

聖書箇所  ヨブ記  6章 (2013年5月 8日)

今日のみことば「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」(25)

 ヨブは、エリファズの愛と理解がないことにひどく失望した。
だから、2-4節にあるように、ヨブの苦難の重さがどれほどであることかを知らない友のひどさを訴える。その悩みは海の全部の砂よりもはるかに重いだろうと。その中心が、神から見放され、神に責められているのだと断定されていることだ。友人の残酷な言葉にヨブは黙って引き下がることができないのだ。
 8-10節で、神が私を絶つことが御思いだったら、喜んで死んでゆけるのだと。私はこおどりしてそれを喜ぼうと。なぜなら、私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ、とヨブの激しい思いを見せられる。ここにヨブの生きる根拠があったからである。
 12節のように、苦難を忍び、乗り越えるには、石の力、青銅の強固さが必要だ。だが、忍耐には限度があるのだ。
 14節にあるように、今、友人の友情こそ、最も必要としているのだ。ヨブは切に友の力を必要としていることを力説する。
 そして、24~25節に見られる、苦しみに遭っていない君たちこそが、ほんとうの意味でのヨブを教えるべきなのだ。どんな過ちが自分の中にあるかを理解した上で。
 そして痛烈な言葉を返すのです。「まっすぐなことばはなんと痛いことか。」と。正しく見える言葉でも、いや正しいと見えるからこそ、その言葉に深く傷つくのである。
29節に記されるように「どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」というのだ。今日、日常の言葉に、愛と平和な豊かさを持ちたい。

主題 <あなた自身でこれを知れ、とは>

聖書箇所  ヨブ記  5章     (2013年5月 7日)

今日のみことば「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(27)

 エリファズは、なおもヨブを責め立てる。
1節の言葉には、神と仲介してくれる聖者(天使のこと)は不信仰な者に対して取りなすことをしないと。そして2節に愚か者(決して知恵のないものを言うのでなく、不信仰者をさしている)は、自分の憤りで殺しているようなものだと。ヨブの苦しみから発せられた嘆きを受け入れず、かえって否定している。ヨブには神に責められる大きな理由、すなわち罪があるのだ。神に懲らしめられることには、きちんとした理由があるのだ。神に苦しめられるヨブよ。今、苦難を幸いなものとし、悔い改めをしなさい、と忠告する。
 6節にある「なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。」と。神の支配には決して偶然はなく、苦しみに遭わせて、苦しみが襲い来るのは神によるのだという。
 たしかに、神を信じる者には、神が働かれる摂理の中で神の御手を信頼するほかはないのだ。詩篇91;14-15節を読んでみよう。神を愛する心を注ぐゆえにと。神は助けるのだと。試練の中で、神を疑わないで乗り越える道があるとすれば、Ⅰコリント人への手紙10;13にある試練とともに逃れる道を用意する神を信じるべきだ。
 エリファズの考え方がヨブを苦しめる。彼らは、この調べ上げた真理はここにある正しいものだ。あなた自身でこれを知れ。知るべきことだ。すなわち自分自身に語りかけて、罪があることを認識して悔い改めよ、と言うのである。
 神の真理を知ることができない人間に、他者をさばく力はない。神にゆだねる心が絶対に必要だ。高慢な言葉は心に届かず、無益である。

主題 <理解を欠いた忠告>

聖書箇所  ヨブ記  4章     (2013年5月 6日)

今日のみことば「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(7)
 ヨブ記の中で、ヨブの最初の率直な叫びが3章に記されていた。三人の友人が7日間何も言葉にできない状況の後のことである。これまで内側に潜んでいた思いがあふれ出た。<友遠方より来たる。また楽しからずや>である。友には自分の率直な思いを吐露できるからです。
ところが、3人の中の長老格のエリファズは、ヨブのあまりの試練を見、自分の生まれた日をのろう姿に、一つの確信を持つのです。それは、神を本当に信じ、おそれている人には決してこんな苦しみは来ないだろうと確信したことによります。この言葉には、一つの人類に共通する問題が浮き彫りになる。正しい人には苦難がないとする思想です。罪があるから苦難がある。苦難への理解を欠くのである。
エリファズは黙って沈黙し、ヨブと苦難を分け合うことができない。苦難の深みに届くことができない。自分を抑えることができない。
そして苦しむヨブを責める思いに立つのである。2節に「もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。」と口を開くのです。
 エリファズを始め3人の友人には、ヨブへの友情があった。しかし、彼らにはヨブが苦難の中にいる意味を理解することができなかったのである。これがこれから激しい議論を展開する原因である。
 理解を欠いた者の言葉に耳を傾けることは、どんなにつらいことだろう。しかし、この忠告を読み進むうちに、同じことを自分もしていることに気付くのです。何か、過去の優れた言葉や自分の経験に照らして、人を教え、戒め、さばき、否定することをしてしまうのだ。
 他者の苦難や問題に、一歩、身を引いて神から聞く知恵を求めたい。

主題 <最も恐れたものとは>

聖書箇所 ヨブ記  3章     (2013年5月 5日)

今日のみことば「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」 (25)  

東方一の大富豪で、神を信じるヨブが、大きな試練に直面した。その告白を読んでみると、彼の悲しみと絶望、恐れが表れている。
ヨブは10人の子供を失い、全財産を失い、健康を失い、妻からは不信仰の言葉を受ける。そこに3人の友人がはるばる訪ねて来て1週間沈黙する。だからまず、ヨブは自分のことを語り始める。
この時にヨブは自分の生まれた日をのろったのである。同様な独白を預言者エレミヤもしている(エレミヤ書20;14-15)。
自分が生まれてこなかったことを願うが、生まれてしまったからには、母親のひざの上でなぜ育ったのかと悔いるのだ(11、12節)。
死ねば、力のなえた者が天の御国で憩こうているではないかと。
そして成人した今、もっと早く死ねば良かったのにと生きて苦しむ自分を恨むのである。「死を待ち望んでも死は来ない」(20節)は、何というつらい思いだろう。
そして、ヨブは25節に「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」という。そこにあるのは人間に共通した弱さであり、迷いである。私の最も恐れていたこと、と今の幸福な状態がいつ失われるかも知れないという漠たる不安である。神への深い信頼、神が愛であることを疑う人間的な弱さが見られる。人間はなんと弱く、もろい存在だろう。
私には、少しも安らぎがなく、休みも、いこいもなく、心はかき乱されているのだ(26節)。
本当の休みは、主イエス・キリストのもとにある。マタイの福音書11;28-30を読んで、改めて神は愛であることを確信しよう。

主題 <幸いも災いも神から受ける> 

聖書箇所 ヨブ記  2章      (2013年5月 4日)

今日のみことば「しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(10)
 ヨブについては、神が信頼する人物であったことを語る。神を信じる人物よりも、神に信頼される人物になりたいと思う。彼の信仰的な姿勢は、天上の会議の評価でもあったのです。(3節)
 さて、サタンがヨブを試練に遭わせることを願う。サタンはいつも人間の中に失望や高慢を起こそうと働いている。その上で、神は試練に遭うことを許しているのである。ただきわめて大事な事実を覚えなくてはなりません。それはいずれも制限を付けたもの、すなわち神が試練において垣根を巡らしていることです。これ以上の耐えられない試練に遭わせないばかりか、逃れる道を用意しているのである。6節(Ⅰコリント人への手紙10;13もよく読んでみよう)。
 さすがに妻はヨブの試練を見て悲しみ、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)とヨブに訴えたのです。この時にも、ヨブは今日の聖句のように驚く言葉を語って妻をいさめている。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」何という深い信仰であろうか。
幸福の日には楽しみ、不幸と思える日には考えよ、この二つを相共に交えて与えると伝道者の書7;14にある。どちらも愛に満ちた神が備えているので、感謝して受け取るのである。
ヨブの言葉に妻は率直に語るが、たぶん納得はできなかったろう。だからこれから始まる三人の友人を挟んだヨブの叫びを整理し、書き留めたのだろう。私はヨブ記の著者は、ヨブの妻であると考えている。