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2013年7月

2013年7月 3日 (水)

主題 <試練にあって罪を犯さない秘訣>

聖書箇所 ヨブ記   1章     (2013年5月 3日)

今日のみことば「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」(22)
 いよいよヨブ記を通読します。これまで人類に与えられた書の中で最も強い影響を与え、人生に強い光を投げかける書物です。私は、牧会の中で毎日のようにこの書についての問いかけを聞く思いである。
 私たちの日々は、ヨブ記によって、正しい人がなぜ苦しむのか、苦しみには何の意味があるのか、神は苦しみにどのように関係しているのかを考え、深めるのである。
 ヨブの人としての歩みが、まず紹介される。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(1節)
地上にこれ以上の人物を捜すことができない。人格、信仰、家族、聖潔において、神にとってこれほど自慢の息子はいないのである。
 しかし、ある日ヨブの生涯に突然のように嵐が吹き荒れるのである。しかも、この試練の背後には天上での会議の模様が紹介される。神はヨブを自慢する。いかに優れた者かと。そこでサタンはヨブを苦難にあわせることの許可を得ている。なぜ、神は許されたのだろうか。
 私たちの理解を超えた神の摂理を思う。その神への信仰をヨブは精一杯の言葉で告白とした。それがすばらしい21節の言葉です。
「そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』自分を生かし、ヨブを豊かに祝福を与えられた神。その神が与え、取り上げられた。この地上の生涯を閉じたら、私は裸でかしこに帰ろうと言う。主の御名は、「ほむべきかな」と賛美している。
 神への信仰こそ、罪を犯さず、神に対して愚痴をこぼさない秘訣がある。神は変らずにヨブを愛していることを信じる告白である。

主題 <プリムの祝日> 

聖書箇所 エステル記  9章   (2013年5月 2日)

今日のみことば「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、…貧しい者のに贈り物をする日と定めるためであった。」(22)

 驚くべき救いの日を、ユダヤ人はプリムの祝日として今日まで守り続けるようになりました。現代でもこの日を国家の祝日として守っています。この日は互いに御馳走をし、ハマンの耳という食べ物を食べて貧しい人に贈り物をする休日です。(イスラエル大使館に聞きました。)
 悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わったという民族としての体験は、1つの原点、出発点なのです。
 この日をプリムと名付けます。プリムとは、プルというくじを意味する語の複数形の言葉です。人はくじを投げますが、そのくじの結末は神の御手の中に握られております。この世界の目に見えない事の背後に、神が働かれ、神がすべての事をよきに変えて下さるという信仰告白がプリムの日の本当の意義なのです。
 ユダヤ人ばかりでなく私たちの日々の生活の中に、思いがけない場面に立たされて、悲嘆にくれる日々を送るような時、このプリムという日を思い出したい。いや、今日もまたその一日であることに思いを向けておきたい。見よ。今は恵みの時、救いの日です。

<祈りの課題>現実に埋没せず、主の御手の中にある確信を     

主題 <光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった>

聖書箇所 エステル記  8章    (2013年5月 1日)

今日のみことば「ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。」(16)

 人生に起こる1つ1つの出来事が神の働かれる場にすぎないことを徹底して悟りたい。神は人をして、ご自分の栄光と力を現わそうとしておられる。それだけに人間の側に誇り得る何ものかがあれば、神は働くことができないのです。ちょうど生まれつき目の不自由な人を、主が「この人に上に神の栄光が現われるために」とご覧になり、目を開くみわざで栄光を示したようにです。
 ユダヤ人にとって決定的敗北の状況が、王の命令によってひっくり返ってしまいましたが、この状況をまのあたりにし、「光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった」とは、想像のつかない勝利に満たされた感動が伝わる。人生、捨てたものではありません。敗残者のように下向きの目を、天に向け神に向けて歩みましょう。神は光であって少しも暗いところがないのです。神はその光をご自分の民に照らし、輝やかされる。どんなに落ち込んでいても、最終的には天の御国でその顔を輝かされるからです。それなら、天にいく前に信仰をもって賛美しはじめようではないですか。

<祈りの課題>現実を見て落ち込まず、信じて感謝する信徒に。

主題 <エステルの賢さ>

聖書箇所 エステル記  7章    (2013年4月30日)

今日のみことば「王妃エステルは答えて言った。「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。」(3)

 ついにエステルは自らの身分を明かしたのです。たとえ王妃であっても、王の好意を得なくては一切の特権は失われることは明らかでした。エステルの出身、ユダヤ人であることを明らかにし、ユダヤ人の絶滅の危機を王に訴えて、民族の命を王に求めたのです。「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(4;16)という告白表明の通り、文字通り生命をかけたとりなしでした。この王への願い事を言える時をどれだけ待ったことでしょうか。このとりなしを願うために、王に対し心くばりをし、「王国の半分でも、それをかなえてやろう」といわしめるための尽力は、並々ならぬ努力だったでしょう。
 栄光が一転して挫折に変わったハマンは、エステルに命乞いをし、それがまた悪印象となってモルデカイのために用意した柱に自分自らがつけられたのです。それで、王の憤りはおさまった(10節)という。激しい野望は王の怒りとなり、さばきとして終了したのです。
 それにしてもエステルの賢さはどこからくるのでしょうか。神の知恵と献身は祈り求める者に授けられるのです。

<祈りの課題>自己保身でなく、自己献身の生活を

主題 <一夜のことが>

聖書箇所 エステル記  6章    (2013年4月29日)

今日のみことば「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(1)

 モルデカイが木につるされようとする前夜、思いもかけない出来事が王の寝室で起こったのである。眠れぬ夜を過ごすのは誰でもよくあることです。でも、この1つの部屋で起こった不眠が、歴史を変えていくことになったのです。辱かしめの当日に、栄光の冠と一変したこの息もつけない一日を忘れることができない。
 13節のハマンの妻ゼレシュと知恵者の言葉は印象的です。「あなたはモルデカイに負けておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」。彼らがまだ話しているうちに、人々がやってきて急がせ、連れていったのでした。栄光が一転して屈辱に、全滅の危機が栄光へと変えられるのは、一夜のこと、その道は急がれています。焦らず、怒らず、くさらずに祈りに専念したいものです。
 すっかり忘れられていた国王暗殺計画を未然に防いだモルデカイの功績は、最もふさわしいときに報われたのでした。人の知恵の及びもつかない世界で神は働かれているのです。

<祈りの課題>急ぐ自己から、ゆだねる自己へ 

主題 <神に委ねる祈り>

聖書箇所 エステル記  5章    (2013年4月28日)

今日のみことば「ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。」 (9)  

 成功と失敗はどのようにして決まるだろうか。全ユダヤ人が滅亡する危機に立った時、エステルは侍女たちと共に断食して祈っている。そして、全ユダヤ人も共に3日間の断食をして神を仰いでいた。
 エステル記には、神や信仰、祈りという言葉は出てこないのは、異教の大国の中で記録文書という形で残さないためといわれている。そこで祈りを「断食」と表わしたのです。ハマンの計略はみごとに成功し、予定通りに着々と進行していきます。しかも、常々目ざわりとなっていたモルデカイを地上高くつるし上げることができるのです。王妃招待の晩餐会への期待は、ハマンにとって立身出世とユダヤ人撲滅による莫大な物となって報われるのです。彼のモルデカイへの激しい憤りがこうして静められようとしています。ここで1つの大成功が進むと思えるのです。
 一方、静かに、沈潜するように祈りが続けられていました。政治家を動かし、多勢の力を頼み、論理の力を頼みとしてくつがえそうとするのではありません。祈りが働き、神のみ手が動き始めるのある。

<祈り>主よ。自分で復讐しないで、神に委ねきる祈りをさせて下さい。

主題 <この時のため> 

聖書箇所 エステル記  4章    (2013年4月27日)

今日のみことば「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(14)

 この章には、必死という言葉がふさわしい緊迫した状況が読み取れます。モルデカイの嘆きとともに全ユダヤ人の悲しみと無力感。危機の中に人がどう考え、行動を取るかがはっきりと表面化してきます。その人の信仰が文字通り決定的な役割を果たすのです。
 ふだん直接表れてこない王宮や民衆の生活の中に、危機の中から信仰が浮び上がってきました。モルデカイのエステルへのメッセ-ジ(13~14節)には、強い神への信仰とエステルへの期待が迫り来ている。
王妃という特権も実はこの時のためだったと意味づけている。
 一方エステルは、3日3晩断食と祈祷に費やして、「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(16節)と決断している。愛には愛、命には生命をかけた交わりがある。この生命がけの歩みこそ、ふだんの培われた信仰が見事に実を結んだのである。

<祈り>主よ。私が「この時のため」といえる者にして下さい。
<祈りの課題>自分の生涯の使命を自覚できるように

主題 <ハマンの陰謀>

聖書箇所 エステル記   3章   (2013年4月26日)

今日のみことば「もしも王さま、よろしければ、彼ら(ユダヤ人)を滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀一万タラントを量って渡します。そうして、それを王の金庫に納めさせましょう。」(9) 

 思いがけないことですが、ユダヤ人の宿敵であったアガグの子孫がペルシヤで王に次ぐ立場を得たのです。Iサムエル15章のアマレク人の王アガグの子孫といわれている。しかも王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏していたのである(2節)。
  一方モルデカイは、このハマンに神のような礼拝はしなかったし、できないのです。この態度が王の家来に不快となり、ハマンに憤りを感じさせたのです。その怒り方が厳しく、怒りの矛先がモルデカイだけでなく、ペルシヤにいる全ユダヤ人に及ぶこととなったのです。
 ハマンはこのために、銀一万タラントもの莫大な財宝を王に献上するのです。この額がいかにすごいかは、当時のペルシヤの全納税額の3分の2に相当したほどの金額です。もっとも、ユダヤ人を撲滅させれば、この金額に相当する以上の金品は奪い取れるのです。
 この世の子らは、神の御国の子らよりも巧みです。世的な人の方が、霊的な人よりも成功していくのです。ところがこれが、まったく逆の立場に変化するのですから、神のわざは不思議です。

<祈り>主よ。短気を起こして、立腹しやすい心を静めて下さい。
<祈りの課題>環境に支配されない信仰を

主題 <好意を得たエステルの人柄>

聖書箇所 エステル記  2章   (2013年4月25日)

今日のみことば「このおとめは、ヘガイの心にかない、彼の好意を得た。」(9)

 同じ様み『好意を得た』ことが15、17節にも記されている。エステルの人柄を垣間見ることができる。
 彼女は両親がいなかった。伯父モルデカイがわが子のようにいつくしみ育ててくれたが、彼女はわがままも、ひねくれもしない素直な少女として成長した。姿も顔立ちも美しかった(7節)とありますから、得意になることも出来たのに、彼女は謙遜でした。伯父モルデカイが自分の出身を明かすなといわれると、「ハイ」と忠実に守り、宦官ヘガイがいうもの以外は持っていかない無欲で、しかも従順なのです。
 こんなやさしいエステルは周囲の人々に心地よい涼風のようなさわやかさを与えたのでしょう。彼女に関わる人々がみな好意を得ることとなったのです。
 しかし、エステルのもう1つの面、それは従順だが、言うべきことははっきり告げられるしっかりした性格でした。本章最後の王殺害計画、すなわちクーデター発覚を王に告げて王を守るだけの度量と決断する意志があるのです。
 しかし、この背後にモルデカイの献身的な苦労もまた見逃すことができません。

<祈り>主よ。従順な者に。またささげる献身を。共に二つを与えて下さい。

主題 <王妃ワシュティ>

聖書箇所 エステル記  1章    (2013年4月24日)

今日のみことば「しかし、王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、…」(12)

エステルが登場する背景が述べられている。王のふるまい、権勢、組織、生活を十分に読み取ることができ、興味が尽きません。
 しかし、エステル記には「神」という言葉が出てこない聖書の中の唯一の書ですが、実に<神の時>がそこここに見られるといわれているほど、神の摂理の御手を拝察するのです。
 ことに、12節で王妃ワシュティが王の命令を拒みます。なぜだったのでしょう。気持ちが悪かったのでしょうか。あるいは、美人で気位が高かったのでしょうか。病気でしょうか。想像して下さい。いずれにしても王妃は王の命令を拒み、王を怒らせ、王妃の冠がはがされてしまうのです。
 そして、不思議な神の配在は、その地位にユダヤ人エステルを据えられることとなるのです。まったくふさわしくない婦人です。エステルは、奴隷の娘の身分でした。ところがアハシュエロス王の第7年に王妃につき、第12年にユダヤ人大虐殺が行われようとしています。その救いの準備として、一王妃のわがままが1章に記されているのです。

<祈り>主よ。私たちの周囲の自己中心な混乱さえ、あなたがかかわるときに聖化に導かれます。