2013年7月 3日 (水)

主題 <ユダ族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   2章  (2013年 1月27日)

今日のみことば「ユダの子は、エル、オナン、シュラ。この三人は、カナンの女シュアの娘から彼に生まれた。しかし、ユダの長子エルは主の目の前に悪を行ったため、主が彼を殺された。」 (3)  

 2章はイスラエル12部族の一つである、ユダ族の系図が記されている。ユダの系図は、歴代誌の系図全体の中で大きな範囲を占めている。バビロン捕囚から帰還したイスラエル人のほとんどが、南ユダ王国の者たちであり、ユダ族が多かったゆえであろう(エズラ1:5参照)。
 この系図の中には、3節から8節にユダ族の先祖たちが主に背いたことによる、神のさばきが記されている。この系図を読んだり聞いたりする捕囚からの帰還者は、その系図の始まりの部分において、自分たちの部族の愚かさを思わなければならなかったし、また部族の父祖ユダ自身が、ヨセフなどと比較すると、あまりにも低俗なことをした(創世記38章参照)のを思い出すのは、不愉快なことであったかもしれない。しかし、それでもなお知られざる祖先たちと共に、自分たちが主のあわれみのうちに、主によって覚えていただいていることの恵みを、この系図を通して確認したに違いない。
 このユダ族の人々が捕囚後の神殿建設の再建にとりかかっているということはまさに主のあわれみのなにものでもないことを歴代誌は教えてくれている。
 また、ユダ族の系図として挙げられているなまえの多くは聖書の他の箇所に出てこない人が多い。あまり知られる人ではなかった者でも神の選びは確かで、このような人々に続いてユダ族が導かれてきたことを知ったユダ族の人々にとって神の選びの確かさを恵みと覚えつつ確信していくことができたことと思う。
 私たちも主の憐れみの歴史を継承する者となりましょう。

主題 <系図の始まり>

聖書箇所 歴代誌第一   1章  (2013年 1月26日)

今日のみことば「アダム、セツ、エノシュ」(1)

 歴代誌の著者については記されていないが、伝承ではエズラと言われている。主な内容はサムエル記、列王記の内容に重複するものがあるが、ユダ族、神殿礼拝についての記述が他に比べて集中している特徴があり、このことはイスラエルの民が捕囚から帰還した民が再び神の民であるという自覚と神礼拝の復興を意図して編纂されたという目的があったように思われる。神の民としての回復をめざして記されたとすれば、今日の時代に生きる私たちにとっては歴代誌は神と民として生きることを教えてくれる書と言えよう。
1章から9章までは延々と系図が記されている。アダムから始まり1章ではアブラハムの子孫(29-34)、エサウとエドム(35-54)について記されている。
アダムから始まっている系図で気付くのはカインが省かれているということである。カインの罪の故に省かれているようにも思われるが、神へのささげもの惜しむという神を礼拝するという観点から省かれたようにも感じさせられる。
 また、アブラハム(27)、イスラエル(34)も記されている。これらの人はまさにイスラエルのルーツとなる人たちであるが、こヤコブは、最初、イスラエルとは呼ばれていなかった(創世25:26)。ヤコブがイスラエルと呼ばれるようになったのは、ヤボクの渡しで神と戦って、「あなたの名は、もうヤコブと呼ばれない。イスラエルだ」と言われてからである(創世31:28)。しかし歴代誌の中では、ヤコブについては、ほとんどがイスラエルという名前で呼ばれている。これは、歴代誌を最初に読んだ読者である神の民が、捕囚から解放されて後に、「自分たちは神の民イスラエルである、神の祝福の約束の下にある民である」という恵みの立場を覚えるためであろう。

主題 <神のさばき>

聖書箇所 列王記第二  25章  (2013年 1月25日)

今日のみことば「バビロンの王ネブカデネザルはその全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、…」(1)  

 ついに信仰の国ユダ王国も、エルサレムもバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人民が捕囚となって悲しみの期間をすごすのです。歴史の中に神のみ手を見出します。神は、堕落と罪、偶像礼拝に陥ったイスラエルの民を、バビロン王国をもってさばかれたのです。
 けれども、バビロン王国が正しかったとか、正義の神の器なのではなく、神の民をさばく道具とされたのです。やがてバビロン王国も、神のさばきの中に壊滅していくのです。
 栄枯盛衰は今日も同じだが、この捕囚の苦しみを通して、ユダヤ人は重大な経験をした。それは、信仰がきよめられたということです。この捕囚によって、堕落したままのたくさんの人がいたですが、純粋に神に従う神の民がいよいよ熱心に求めるようになり、信仰生活に光が輝いてきました。
 また、捕囚はこのようにいくつものよい結果をも生んだのです。
 神の厳しいさばきとともに、神の備えられた恩恵に目をとめよう。あなたへの厳しいと見える取扱いも、新たな視点から見据えること、神の視点から見るときに、あなたへの期待なのだとわかるはずです。

<祈り>主よ。あなたが私にいつも目を留め、教え、さとし、恵みによって導かれるのです。感謝をもって受け入れる謙虚な信仰を。

主題 <私たちの選択> 

聖書箇所 列王記第二  24章  (2013年 1月24日)

今日のみことば「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。」(20)

 ついに、バビロンによってエルサレムとユダが占領され、捕囚となります。歴史は神の物語、ヒストリーといわれています。神に選ばれた民が神に背き、罪と偶像を崇拝する者となっては、主が投げ捨てなくてはならなくなるのです。
 人間はいかに罪深いものでありましょうか。現在おかれた立場に感謝もしないで、常に不足、不満がある所に、自分に仕える自分好みの偶像を生み出し、偶像を受け入れる素地を形成するものであると思う。
 神はいかなる時にも、より頼む者のとりで、楯である。神を愛し、神に悦ばれる生活こそ、我らが選び取らなくてはならない決断です。
 私たちの今日の選択が、明日の生活、霊性、信仰に大きな関係を持って迫ってくる。自らまいた種を自らが刈り入れるのが人間であるのですから、うみ疲れることなく、善を行うことを求めよう(ガラテヤ人への手紙)ではありませんか。神は侮るべきお方ではないと、旧新約聖書はあかししている。
 選びの民、イスラエルが神によって投げ捨てられる日がきたのですから、私たちも恐れの心を持とうではありませんか。

<祈り>主よ。私の人生をみこころにかなったものとしてください。あなたから投げ捨てられるような事になりませんように。

主題 <聖書に帰る>

聖書箇所 列王記第二  23章 (2013年 1月 23日)

今日のみことば「王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、主に、過越のいけにえをささげなさい。」(21)

 ヨシヤ王の大宗教改革である。彼は、汚れた偶像崇拝のものすべてを徹底的に大掃除し、神に仕えます。そこには祭司も、祭壇も、建物も、森もみなはっきりと精算されます。この信仰に生きる決断には多くの反対勢力も数限りなくあったでしょう。しかし、彼は断固として神の計画を実行します。
 何故できたのでしょうか。その根本は契約の書、即ち聖書があったからです。聖書が今まで隠され、忘れられている状態でしたから、民は偶像に仕えたのです。いつの時代も、堕落する原因は聖書を見失った結果です。またリバイバルされる霊的な覚醒は、聖書に立ち帰る結果です。
この素晴らしい宗教改革を今も、継続して行うのが、きょうの決心です。
 昔も今も、聖書に立ち返ることから、信仰復興、リバイバル、宗教改革が始まるのです。
16世紀の宗教改革も聖書にかえり、今私たちの生活も、聖書にかえるところから信仰に生命が戻ります。 ”Back to The Bible.”

<祈り>主よ。契約の書、聖書を正しい位置に置きます。常に聖書によって、歩みを決定し、聖書の指導を待つ者にしてください。

主題 <神を恐れる生活>

聖書箇所 列王記第二  22章  (2013年 1月22日)

今日のみことば「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖タビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」(2)

 マナセは信仰的な父ヒゼキヤに育てられたのです。小さいときから神に従うことを見て祝福を学んだでしょう。しかし、悪王になり、ヨシヤは不信仰の父アンモンに育てられて偶像礼拝の中で、決定的な正義のクリスチャンになったのです。
 私たちの生活の中で、公的な生活と私的な生活を切り離してはいないでしょうか。敬虔な両親の子供は、両親が公の席ではりっぱなのに、家庭に入ると、ふしだらだったら子供はどう思うでしょうか。
 マナセは若くして世を去った父の教育を受けられなかったかも知れません。人は若い時は、何でも理屈をつけてみたがるものです。しかし、その考えが途中でつくり変えられていくのが大人といえます。マナセは残念ながら変えられていくのが遅すぎたのです。最晩年に悔い改めますが、時既に遅かったのです。<24;3-4>
 一方、ヨシヤは父の悪を見て、決してこうなるまいと決心したろう。よく世間で、酒乱の父をもった子は、決して酒をのまなくなるようにである。我々はそれぞれ父を持っている。心から尊敬し、父を人格者と認められる目を持ちたい。また、神を恐れる生活を日々に歩みたい。

<祈り>主よ。置かれた家庭で、あなたからの訓練を受け取れますよう。

主題 <悔い改める者を待たれる神>

聖書箇所 列王記第二  21章   (2013年1月21日)

今日のみことば「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。」(1)

 ヒゼキヤは善王だったが、彼の子マナセは最悪の王であった。恐らく、マナセはヒゼキヤ時代の反対勢力とくみして、自分の王位を保ったのであろう。彼は五十五年という長い間王として支配した。普通、長い間王となるのは国家にとって良いことなのだが、はたして、彼が長い間、王として治めることがよかったのでしょうか。
 彼の影響は、長い治世だっただけに、よりわざわいを残したと言えます。偶像に仕えるこの王ゆえに、神はこれ以上忍耐ができず、神の民を捕囚にしたのです。
この捕囚の辱めによってより純粋な神を愛する民が、よりわけられてくるのです。マナセは多くの義人を殺し、あの有名な預言者イザヤが殉教させられたのもこの頃といわれる。
 しかしついに、マナセが捕らえられた時に、悔い改め、再びエルサレムの王に帰った時、偶像を整理し、神に仕えたのです。老人になって目覚めたマナセは残念といえるが、しかし、それでも幸いである。
今日、多くのマナセのような人が悔い改めるのを待たれるのは神であります。神は一人でも滅びることを望まず、悔い改めに進むことを望んでおられます。一人の悔い改めの必要な人のためにあなたも祈って下さい。

<祈り>主よ。今を神と人に熱心に生きられますように。私の生涯が、人々に少しでも霊的な感化を与え、祝福を残せる者にして下さい。

主題 <信仰によって行動する賢い者に>

聖書箇所 列王記第二  20章  (2013年 1月20日)

今日のみことば「そのころ、バビロンの王は、…使者を遣わし、…」 (12)  

 ヒゼキヤに死の宣告が下ったが、彼は非常に泣いて、熱心に祈ったことにより、神からの答えが来て、何と15年も寿命がのばされたのです。このためは、日の影が10度戻るという奇蹟も与えて下さったのです。このことは、ヒゼキヤにすばらしいよろこびを満たしたでしょう。
 しかし、人生は皮肉である。このよろこびの直後に、そうです。恵まれた後に、大失敗をしてしまうのです。彼の病気見舞いに来たバビロン王国は、当時はごく小さな国だったが、国家の策略としてアッスリヤを封じ込める政策を立て、ユダと手を結んぼうとしたのです。
そこで、バビロンから来た王の代理の見舞いに来た客に、国にある宝物を全部見せたのです。彼は純粋な男だが、少し軽率なところがあった。宝物はダビデ以来の貯えられた豊かなものでした。
 やがて、直接にはその時の王は攻撃に来ないのだが、彼の後の王がエルサレムを攻撃し、ユダを陥落させ、エルサレムの金銀宝石を奪い、バビロン捕囚へと展開していくことを思うとき、恵まれた後の軽率な失敗が、後々の子孫に大きな禍根を残したのです。私たちもよく陥りやすい点であります。

<祈り>主よ。いつも祈り、信仰によって行動する賢い者にして下さい

主題 <祈りが磨かれる> 

聖書箇所 列王記第二  19章  (2013年 1月19日)

今日のみことば「ヒゼキヤは主の前で祈って言った。」(15)

 聖書学校にいた頃、塾長の市川先生は「諸君の伝道や祈りは、まるで伝道ごっこ、お祈りごっこのようだ。」といわれたことがある。人が責任を負わずにすることの多くが、<ごっこ遊び>のように流れやすいのです。
 しかし、いざ祈らなくてはならないと言う重大な時期に直面することがある。こうした時こそ、祈りが磨かれるし、本物になるのです。
 彼の祈りは、第一に、今、現に臨在されるお方を信じ、神が見、聞いていただき、神の感情に訴えるようにして祈り込むのです。
 第二に、彼はその苦しみをありのまま訴え、過去になした敵の事実に直面し、将来への不安のかげりも神に訴えるのです。
 第三に、具体的な祈りへの希求を、神の御名のあがめられることを願って祈りを閉じている。
 私たちは、この祈りを模範にしたい。この祈りが奇蹟をもって答えられ、預言は次々と成就していきます。この歴史に残る事実をもって、神は我らに何を語ろうとしておられるのだろうか。
 主の前に座り込み、じっくりと腰を据えて祈り込む必要はないだろうか。家族の問題、自分の信仰の成長、教会の祝福、などです。

<祈り>主よ、あなたの前に、見られ、聞かれ、心を動かしていただけるように、祈りの祭壇を築かせてください。

主題 <試みを通過した信仰へ>

聖書箇所 列王記第二  18章  (2013年 1月18日)

今日のみことば「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。」(5)  

 ヒゼキヤはまれにみる信仰深い王であった。彼は、父祖ダビデに近い霊的な人物である。国家にとって、敬虔なクリスチャンが支配することは、大きな希望であり、力であることがわかります。
 自分の信仰が、時々本物になっているかどうか疑うことがある。いや、時々神はそのことを試されるのです。それは試練を通してです。私たち現代のクリスチャンは、自分は信仰があると思いながらも、頭のこやしだけのようで、内的な強い確信にまで至っていないことが多い。
だから、試練は我々を試すよい機会である。神は倒すためでなく、我々を益するため、内に持った信仰を本物にするために、悲しみや周囲の無理解、苦しみを与えて内に持っている信仰を引き出して下さるのです。
 5節にも、ヒゼキヤは主に信頼していたといわれていることが、本章後半において、猛烈なゆさぶりをかけられ、信仰が問われてくる。
 今、あなたにとって、信仰が生きていますか。また、試練にあっている最中の兄姉よ、この試練の時を正しく生かせて、用いることができるように祈りましょう。
 苦しみにあったことは私に幸せでした。これによってあなたの御ことばを学んだと言いたい(詩篇119篇)。

<祈り>主よ。試みを通過した信仰へと訓練してください。