2013年7月 3日 (水)

主題 <ダビデと民を導かれる神>

聖書箇所 歴代誌第一   12章  (2013年2月 6日)

今日のみことば「誠実な心で、並び集まったこれらの戦士たちは、ヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にした。」(38)

 12章は11章から続いてダビデを王として立てられたことの記述の続きである。主に、ツィケラグでの王として立てられた記述とヘブロンで王として立てられた記述が記されている。
この2箇所で王として立てられたことの記述が収められていることは何を意味しているかと言えば、ツィケラグとはダビデがサウル王に追われて逃れていたペリシテの領地であった。ダビデは順風満帆に王に就いたのではなく、大きな試練を経て来ている。それを助ける者たちが多くあったことを示し、支えられていく中に主の御心は示されてきたことを教えてくれている。
そして、ヘブロンにてダビデが王とされたと記されているが、この時に至ってダビデはさらに主の前に整えられて王とされていったことを強調している。特筆すべきは、ダビデのもとに集まった人々として、具体的にイスラエルの各部族を挙げ、その中の戦いに備えた者の人数を数え上げていることである。彼らは心を一つにして(33、38)ダビデのもとに集まり、そして彼を全イスラエルの王とした。このことを通して、ダビデがイスラエル全体の総意によって王とされたことを確認できる。
 神のご主権のうちに、ダビデは王とされた(23参照)。それはダビデ個人の栄光になることではなく、神が全イスラエルを顧み、そして支えておられたことが、ここでは強調されている。
 神は、ダビデのように一人一人の信仰者を導かれるとともに、神の民全体を絶えず顧み、愛しておられたということである。

主題 <ダビデと勇士たち>

聖書箇所 歴代誌第一  11章   (2013年2月 5日)

今日のみことば「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(11)

 11章からは、ダビデ王が登場する。
 ダビデを王とするために集まってきたのは、全イスラエルだった(1)。この箇所の並行箇所である、サムエル記第二、5章を見ると、ダビデに最初に油注いだのは南ユダの地域の全部族であったことがわかる(Ⅱサムエル5:1、5)。しかし歴代誌は、ダビデが王となる経緯について簡潔にまとめ、彼が全イスラエルの王として、「民」によって認められ、それが主のことばどおりになされたことを強調している(3)。ダビデが王となったのは、民のダビデに対する認証と、何より主のことばの成就の結果だったことが強調されている。
 ダビデには早い時期から彼を助ける勇士がおり、同じことが記されている平行箇所サムエル記第二23章と比べるとその名前が多く記されていることから、実際にダビデを支える人が非常に多くいたことが伺える。
 ダビデが王として立てられ、それを全イスラエルが認証して、それを支えていくという国の一体感を感じさせられる内容が記されている。これは歴代誌の特徴でもあると思うが、神によって立てられた者を中心に一致して再び復興していかなくてはならない捕囚後の民にとって確認しなくてはならないこととして記されているように思われる。
 私たちも自分の支配、権力欲で行動するのではなく、信仰の土台であるみことばに聞き、主にあって共に一致した兄弟姉妹との交わりを大切に支え合って共に主の前に建て上げられることが出来たらと願います。

主題 <不信の罪>

聖書箇所 歴代誌第一   10章  (2013年2月 4日)

今日のみことば「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、」(13)

 10章からはイスラエルにおける歴史上の出来事の記述が始まる。最初の王サウルについて記されている。しかし歴代誌においては、輝かしいイスラエル王国の始まりを記しているというよりは、サウルの死に焦点が向けられて記されている。
 最初の王サウルの死は主のさばきとしての死であるということが明確に記されている(13、14)。
歴代誌を最初に読んだ人々、つまり捕囚の身から解放された民に対して、イスラエルの歴史に霊的な暗黒の状態と無関係ではないことを、示していたことが分かる。
 サウルの生涯についての評価は、13~14節で語られている。サウルの罪を包括的に説明することばとして「不信の罪」ということが言われている。具体的には、彼が、主のことばを守らず、霊媒によって伺いを立て、主に尋ね求めなかった、という三点であった。また、13章には、ダビデ王と比較すると、サウルは契約の箱を重視しなかったと記されている(13:3)。彼は内なる信仰においては、主に対して不従順であり、また信仰の表れとしての具体的な礼拝の形においても、欠けたものがあった。そして彼の死は、主のさばきとしてもたらされたことが明確に言われているのである。
 歴代誌10章は現代の私たちにうわべだけでない真の信仰として歩むことを示してくれている。そのためにも重要なことはこれまでの歩みを悔い改め、主にあって新しい歩みをしていくという決断が必要であることを覚えたいと思います。

主題 <エルサレムに住んだ人々>

聖書箇所 歴代誌第一   9章  (2013年 2月 3日)

今日のみことば「ところで、彼らの所有地である彼らの町に最初に住み着いたのは、イスラエル、祭司たち、レビ人および宮に仕えるしもべたちであった。」 (2)  

 歴代誌は、バビロンに捕囚の民とされ、後にペルシヤ王クロスによって帰還が許されて、自分たちの国へ戻った神の民イスラエルに対して書かれた書物である(1、2)。延々と系図が語られたのは、捕囚から戻った民が、主によってはるか昔から用いられてきた民であることを、自らに思い起こさせるためであっただろう。本章は、捕囚から戻ってエルサレムに住んだ人々のリストである。
 神殿があり、イスラエル人の信仰あるいは政治等の中心地であったエルサレムに、捕囚から帰還した民はだれもが住みたかったのではないかと、我々は想像しがちである。しかし、バビロンの侵略によって荒廃したエルサレムには、ほんのわずかの人々しか住もうとはしなかった(ネヘミヤ11:12)。安全や食物の供給に対する不安が、人々の中にあったのだろう。
 捕囚帰還後、人々が積極的には住もうとしなかったエルサレムに最初に住みついたのは、祭司やレビ人だった(2)。神殿の再建によって神の民イスラエルとしての信仰の再興を熱心に求めていた人々が、生活の困難があるとしても、まずそこに定住することで、神殿再建の願いが現実となることを求めたのである。
 今日、私たちキリスト者も地域の中に住み、その中で証して生きていくことがいかに重要であるかを思わされます。私たちが主を第一として歩むその姿勢が地域の中に証されているということを覚え歩んでいく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <ベニヤミン族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   8章  (2013年 2月 2日)

今日のみことば「ベニヤミンは、その長子ベラ、次男アシュル、三男アフラク、」(1)

 8章ではベニヤミン族について記されている。ベニヤミン族は、ユダ族、レビ族に続いて挙げられていることから、イスラエル全体の中でも主要な部族の一つとされていると理解できる。
 特に、王家としてのベニヤミン族の系図を見る事が出来る。ベニヤミン族からサウル王が誕生した(33)。彼は、後になって退けられるが、主の召しに応え、王の務めに任じられた最初の人物だった。また、サウル王の子、ヨナタンは(33、34)、ダビデの王としての資質を最初から見通し、ダビデ王を支えた人物であった。さらに時代が下って、預言者エレミヤは、ベニヤミン出身の人物だと思われる(エレミヤ1:2)。彼は南ユダ王国最後の王ゼデキヤに仕えた。
 ベニヤミン族は、その分割地の中にエルサレムを所有し、エルサレムに住んだ(28、32)。ソロモン王の時代にエルサレムに神殿が建設されたが、歴代誌が書かれた当時、この神殿再建をイスラエルの人々は願っていた。ベニヤミン族は主の摂理の中で、神の民の信仰の中心となる場を所有し、支えている立場でもあったことが分かる。
 8章をもって、長い系図が終わる。全イスラエルの系図全体を通して、神の選びの厳粛さを思わされる。神はイスラエルの民全体を選ばれ、彼らを通してみこころをなそうとしていた。彼らの主要な部族は、必ずしも常に主の御前に正しい歩みをしていたわけではなかった。しかし、主はそのような部族を最初から支えてこられ、その後の神殿再建の中でも用いられよとされた主の憐れみを深く覚えたいと思います。

主題 <かつて相続した地>

聖書箇所 歴代誌第一   7章  (2013年 2月 1日)

今日のみことば「イッサカル族の者は、トラ、プア、ヤシュブ、シムロンの四人。」(1)  

 7章は、系図の中で中心的に扱われている部族以外の諸部族について記されている。内容としては①イッサカル族(1-5)。②ベニヤミン族(6-11)。③ビルハの子たち〔ダン族とナフタリ族〕(12、13)。④ヨセフの子たち〔マナセ族とエフライム族〕(14-29)。⑤アシェル族(30-40)。
 この7章中、ヨセフの子たちは「土地」に関係する人々として出てくる。ツェロフハデには男子がなく娘たちだけだったが(15)、彼女たちはモーセに訴え、土地を相続することが認められ(民数27章)、土地分割の折には、ヨシュアが、マナセ部族に配分された中から彼女たちに分割した(ヨシュア17:4)。ヨシュア(27)は、モーセのしもべである。言うまでもなく、彼は主の約束を固く信じ、乳と蜜の流れる地を遠くに見つめていた。28~29節は、エフライム族の所有地、及び居住についてである。ここに挙がっている地名を追っていくと、エフライム族の居住地は、ヨシュア記の分割の時よりも、かなり北方に広がっていることがわかる。これらの諸部族は、主のあわれみのうちに繁栄し、戦いを経験しながら、それぞれの地に住んでいた。しかし、この歴代誌が最初に読まれた当時、すなわち、捕囚から帰還後の神の民がこれを最初に聞いた時、これらの諸部族はすでに、元々は彼ら自身の土地であった場所で生活することはなくなってしまった。
 かつて主から相続した地に帰還した民は戻ってきた時、主の憐れみを深く覚えたことだろう。あらためて、主から受けた恵みを無駄にしてはならないということを教えられたのではなだろうか。

主題 <レビ族の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   6章  (2013年 1月31日)

今日のみことば「彼らの居住地はおのおのの地域内の宿営ごとに次のとおりである。」(54)

 6章はレビ族について記されている。その系図は大祭司の系図(1~15)、3つのレビ族(ゲルション、ケハテ、メラリ)の系図(16~30)、3つの歌うたい(へマン、アサフ、エタン)の系図(31~47)、レビ族や大祭司の働きについて(48~53)、レビ人の町についての長いリスト(54~81)が記されている。
 レビ族には、白分たちが固まって定住するような分割地は与えられなかった。なぜなら、他の諸部族分割地の中にレビ族のいるべき地があり、彼らにとって、主の祭司として仕えることが彼らの相続地だったからである(ヨシュア18:7)。
 レビ族や大祭司は主の宮で仕えることが特徴的な部族である。彼らは専ら主の宮で仕えつつも、また「レビ人の町」で生活することにより、他の諸部族が神の民としてふさわしく歩むための助けをする役割もあった。すなわち主に仕えるレビ族の姿は、直接的に宮で仕えることによって明らかにされる。それとともに、宮ではなく各部族の中の諸地域に散らされて生活する中で主に仕えるレビ族の姿勢は、諸部族がレビ族に倣い、礼拝する民としての実質を保つために重要だった。
 このように歩んだレビ族の歩みは、今日のキリスト者にとっても学ばなくてはならない姿勢を教えられるのではないだろうか。私たちも主の民として、礼拝をささげ、主の御心を求め、主に従う者として歩み、その歩みを通して主に栄光を帰す者として世にあって証しする者とならせて頂きたい。

主題 <不信の罪>

聖書箇所 歴代誌第一   5章 (2013年 1月 30日)

今日のみことば「ところが、彼らは、その父祖の神に対して不信の罪を犯し、神が彼らの前からぬぐい去って滅ぼされたその地の民の神々を慕って不貞を犯した。」(25)

 5章は、約束の地に入る手前のヨルダン川東岸に土地を求めたルベン族、ガド族、マナセの半部族のリストである。
 この二部族半は、イスラエル全体がモーセに率いられて約束の地に入る手前で、家畜を養うのに適している地を求めた人々であった(民数32章)。
 二部族半のそれぞれについて、ここで繁栄したことが言われている(9、11、23)。またハガル人(アラブ系の人たち)との戦いにおいて(10、18-22)。彼らはこの戦いを、神に拠り頼んで戦うことによって勝利を得た(20-22)。彼らは神の民である自覚によって、主なる神に従う歩みをしていた。
しかし、5章の終わりにあるように、彼らは主なる神に対して不信の罪を犯し、それゆえアッシリヤに捕らえ移された(25、26)。
 二部族半の民たちは約束の地を前にして、本来与えられるものよりも手近な報いで満足してしまったかのようだった。しかし、彼ら二部族半は、結果的には神の民の中でも、最も周辺地域の敵の圧力を受け、そして真っ先に捕囚となってしまった。本来、主が与えてくださる恵みの豊かさを味わう以前の状態に留まってしまい、むしろ直面する戦いが大きくなってしまったのである。時間の経過の中で、彼らの信仰、神の民としての自覚は衰えてしまったことが伺える。
 私たちも信仰を貫く先にある神の祝福を信じ歩む者とならせて頂きたい。

主題 <ヤベツの祈り>

聖書箇所 歴代誌第一   4章  (2013年 1月29日)

今日のみことば「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(10)
 四章は、三章と同じユダ族についてであるが、主流な者たちのリストとは違って、ほとんど名前の知られていない者のリストである。しかし、彼らもまた、系図の流れの中で記録されるべき人々であり、主のあわれみを豊かに受けた。
 そのような名の羅列の中で、ヤベツは異彩を放っている(9、10)。彼については名前だけでなく、短いとはいえ、彼自身の出生と祈りについて、記録されている。
 ヤべツは、何らかの悲しみや苦しみのある状況の中で生まれたが、主に大胆に祈って、祝福をいただいた人物であった。「地境を広げてください」という求めも特殊である(10。申命記19:14では、地境を移すことが厳しく禁じられている)。恐らく彼は、単なる個人的な祝福を求めたのではないだろう。彼は、すべてを持っておられる主の主権に信頼していたのであり、主の御支配を人生の前提として生きていた。そしてすべてをお持ちのお方が、自分自身の使命の領域を広げてくださることを願い、主のために大胆に生きることを、求めたのだろう。
 そして、ヤベツの祈りは主に聞き届けられたことが端的に記されている。歴代誌に触れた当時の民たちにはこの一文だけで十分分かったともとれるし、何よりも一人の祈りをも主は聞いて応えてくださるお方であることをいよいよ確信させてくださる一文と言える。
 今日、私たちの困難の中にも主を見上げて祈る者となりましょう。

主題 <ダビデ家の系図>

聖書箇所 歴代誌第一   3章   (2013年1月28日)

今日のみことば「ヘブロンで生まれたダビデの子は次のとおりである。」(1)

 歴代誌の系図はイスラエルの民にとって恥と思われることもしっかり記されているのが分かる。アムノン(1)、アブシャロム(2)、バテ・シュア(バテ・シェバ)の名前は、ダビデの失敗を思い起こさせる。ダビデを美化するならば、このような系図も省略されていたかもしれない。
ソロモン以後の悪王たちの歩みは、最終的には、王と共に民も衰退していくようなものだった。主が約束を与えられた「ダビデの家」はバビロニヤによって消滅してしまったかのような経験を、捕囚とされた神の民は特に辛く味わっていたことを想起させる系図と言えよう。
17節以降はダビデ直系の子孫たちであり、その中のゼルバべルは(19)、捕囚から帰還後、神殿再建の指導に当たる人物だった(エズラ3:8)。この系図は、王国が途絶えてしまったと沈む神の民、そしてゼルバべルたちを励ます意味もあったと考えられる。彼が神殿再建の希望を得るには、全能の神の約束に目を向ける以外になかった。系図はダビデやソロモン個人の偉大さを示すものでなく、諸問題があったとしても、主が「ダビデの王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)という約束を成就されるお方であるということを示している。
 人間の愚かな過ち、失敗を憐れみ、最後には最善を備えて下さっておられる神に信頼する者となりましょう。神は私たち一人一人の人生の歩みに目を注いでいてくださるお方であることを覚えて、主にあって歩んでいきましょう。