2013年1月16日 (水)

主題 <憎しみの悲劇>

聖書箇所 サムエル記第二 13章 (2012年11月28日)

今日のみことば「彼が語り終えたとき、そこに王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣た。 」(36)

アムノンは妹タマルを辱める事件が起こった。その背後にはヨナタブの悪賢い入知恵があったが、何が正しいことがを見失い、欲望のままに行動したアムノンの罪は重い。その後、アムノンは妹タマルを愛するどころか憎むようになり、タマルは兄アブシャロムのもとに留まることとなった。
 タマルがアブシャロムの家で、やもめのようにひっそりと暮らすようになり、満二年が過ぎた(23)。妹を辱めたアムノンに対する憎しみの火は、アブシヤロムの心の中にも燃え続けていくこととなった。アブシヤロムは、羊の毛の刈り取りの祝いに、アムノンと王の息子たち全員を招いた。アブシャロムはこの機会にアムノンを殺害した(28、29)。
 アブシャロムはアムノンに抗議するのではなく、憎しみで命をうばうという実行に移してしまうところに、アブシャロムの問題があることを思わされる。正義を振りかざした行動は時として誤った形となって事態をさらに混乱させていくこととなる典型的な例ではないだろうか。
アブシャロムによるアムノン殺害はダビデ家のこの後、王位継承の問題と絡んで大きな問題となっていくこととなった。しかし、この時点で、ダビデは激怒するも殺害を実行したアブシャロムに会うことなく、三年の時間が流れてしまうこととなった。憎しみ、赦しという間の大きさ、深さがあることを痛感させられる事件ではなかっただろうかと思わされる。

主題 <悔い改めのことば> 

聖書箇所 サムエル記第二 12章 (2012年11月27日)

今日のみことば「ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」(13)
 主は、ナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンの語る、身勝手な金持ちの振る舞いを聞いて、ダビデは烈火のごとく怒り、「主は生きておられる。そんな男は死刑だ。」と叫んだ(5)。富んでいる人が、客に出すための羊や牛を、自分の群れの中から取るのを惜しみ、代わりに貧しい人のかわいがっていた子羊を取り上げて客に供するなどという身勝手は、断じて許されるものではないというのである。そのとき、ナタンはすかさず「あなたがその男です」と言い渡し(7)、王がいかに理不尽な許しがたい行為をしたかを悟らせようとした。主がダビデを聖別して王とし、あらゆる良きものを惜しみなく与えたのに、どうして主の戒めに背き、ウリヤを殺すまでして、彼の妻を自分のものとしたのか、とナタンはダビデを責め、このことのゆえにダビデがこれから被らなければならない災いを告げた。それは、剣がいつまでもダビデの家から離れないこと、ダビデの妻たちが、白昼公然と犯されるというものだった。ダビデは自分の罪を率直に認め、「私は主に対して罪を犯しました」と告白した(13)。ひたすら罪を認め、告白した、まことに簡潔な悔改めのことばであった。それに対し、ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と語り、主の赦しを宣言した(13)。赦しがたい罪を犯した自分を、主が赦してくださり、なおも生かし、王としていてくださるという驚くべき恵みを、ダビデは深く味わったことであろう。
あなたは主の前に隠している罪はないだろうか。罪の報いの重さを知らされるが、その罪を悔い改めるときに赦される恵みにゆだねる者となりましょう。

主題 <罪の誘惑>

聖書箇所 サムエル記第二 11章 (2012年11月26日)

今日のみことば「喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。」(27)

  イスラエルの全軍が、アモン人の都ラバの包囲戦を戦っていたとき、王はエルサレムの宮殿にとどまっていた。ある夕暮れ時、たまたま一人の「非常に美しい」女の人が水浴びをしている姿が、目に入って来た。どうやら王は、すぐに目をそらせることをせず、しばらく眺めているうちに、欲情に支配されてしまったようである。使いをやって彼女を召し入れ、彼女と寝てしまった。やがて、女がみごもったことが、ダビデに知らされた。
 王はヨアブに連絡して、ウリヤを戦場から急濾帰還させ、家に帰して妻と寝るように仕向けた。身ごもった子を、夫の子にして、自分の罪を隠そうとしたのである。しかしウリヤは、どうしても家に帰ることを拒んだ。多くの者が戦場で野営しているのに、自分だけが家に帰り、妻と寝ることなど到底できないと考えたのである(U。
ウリヤを帰宅させることに失敗した王は、ウリヤを死なせる計画を考えた。それも自分の手を汚さず、戦死という形で彼を始末しようとしたのである。こうしてウリヤは、戦場の激戦地へと出ていきそこで倒れた。「ヘテ人ウリも死にました」という戦地からの知らせに、王は安堵したことだろう(24)。王は、喪の明けるのを待って、何事もなかったように彼女を自分の妻として迎えた。 「しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」(27)
 ダビデは罪の誘惑に勝つことができず、さらには自らの罪を隠そうとした。しかし、神の前にこの罪をかくすことなどできないことを知らされることになる。

主題 <平和のために最善を尽くす>

聖書箇所 サムエル記第二 10章 (2012年11月25日)

今日のみことば「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。」」 (12)  

 アモン人の王ナハシュが死に、その子のハヌンが代わって王となったとき、ダビデは「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と考え、「家来たちを派遣して、彼の父の悔やみを言わせた」(2)。ところがハヌンは、彼らは敵の様子を偵察に来たのだとの、側近たちの警告を受け、使者たちを捕らえ、「ひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した」ということをしてきた(3、4)。使者たちの恥ずかしい姿は、王が彼らを迎えに、人を遣わさなければならないほどであった。
 真実な行為に対して屈辱的な対応をしたアモン人に報いるために、王はヨアブに全軍を託して送り出した。ヨアブは、全軍を二手に分け、自らえり抜きの精鋭部隊を率いて敵に向かい、残りの者を兄弟アブシャイの手に託して敵に向かわせた。ヨアブは、戦いの形勢を見て助け合うことを兄弟と申し合わせた後、「強くあれ。われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる」という信仰のことばで、作戦会議を締めくくった(12)。戦いはイスラエルの勝利に終わり、ヨアブは軍を引き上げてエルサレムに帰還した。ハダデエゼルはアラム諸国と協力し、イスラエルに再び挑んで来た。しかし王は全イスラエルを率いて彼らと戦い、勝利した。アラムはイスラエルと和を講じ、イスラエルのしもべとなった。
 アモンに対する誠実を尽くそうとしたことが、思わぬ戦いに発展してしまったが、主にある勝利を得て講和することができた。主の導き求め平和をつくる者とならせて頂きたい。

主題 <約束を実行する誠実さ>

聖書箇所 サムエル記第二  9章 (2012年11月24日)

今日のみことば「ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」」(1)

 かつてダビデとヨナタンとの間に結ばれた「契約」は、ダビデの心の中にしっかりと刻みつけられ、消え去ることはなかった。ヨナタンは、「もし、私か生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。……私か死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」と言って、ダビデと契約を結んだ(Iサムエル20:14~16)。ヨナタンは深い友情をもってダビデを愛し、彼のいのちをねらう父の手に、決してダビデを渡さないと誓い、それを守り通した。ダビデは、彼の王権の確立された今こそ、ヨナタンとの契約に従い、ヨナタンの家に恵みを施すべきだと考えたのであろう。サウルの家の者で、生き残っている者はいないかと調べさせた。サウルのしもべであったツィバを通して、メフイボシェテというヨナタンの子が、まだ生きていると知ったダビデは、人をやって彼を連れて来させた。彼が5歳の時に、乳母が抱いて逃げるときに彼を地に落としてしまい、そのために彼は両足とも不自由になっていた。ダビデはメフィボシェテに「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」と語り、サウルの地所を全部彼に返すことを宣言し、その土地を耕すしもべとして、改めてツィバを任命した(7~10)。また、メフイボシェテがいつも王の食卓で「王の息子たちのひとりのように」食事できるように手配した(7)。そこでメフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした(12、13)。
 私たちも、時が移り、状況がすっかり変わっても、神の御前での真実をもって、「約束」を果たすことができたら、何と幸いだろうか。

主題 <正しく治める者に>

聖書箇所 サムエル記第二  8章 (2012年11月23日)

今日のみことば「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。」(15)  

 ダビデの統治は充実し、安定するようになった。しかし、彼の戦いにおける連勝の秘訣は、彼自身の才覚にではなく、その背後にあって働かれる主の御力にあった。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」と繰り返し語られている(6、14)。
 彼は、西のペリシテ人を打ち(1)、東のモアブを打ち(2)、北のツォバの王と、アラムを打ち(3-5)、南のエドムに勝利を収めた(13)。彼らはダビデのしもべとなり、貢物を納める者となった。「ハマテの王トイは、ダビデがハダデエゼルの全軍勢を打ち破った」と聞いて(9)、「その子ヨラムをダビデのもとにやって、安否を尋ねさせ、……祝福のことばを述べさせた」(10)。ヨラムは、ダマスコのさらに160キロも北方からダビデを訪ねて来たが、その手には、銀、金、青銅の器が携えられていた。そのようにしてダビデは周囲の国々を征服し、アラムとエドムには守備隊を置いた。ダビデが王となってからは、周囲の国々から攻められることなく、むしろ貢物の使者を迎える国になった。ダビデは、征服したすべての国々から取った銀や金や青銅を「主に聖別してささげ」、私腹を肥やすことはしなかった(11)。
 「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行った。」(15)とあるように国内にける統治の組織が整えられ、ヨアブは軍団長、王と民の意思の疎通を助ける参議にヨシャパテ、祭司はエブヤタルの子アヒメレクに、ツァドクが加えられた。
 ダビデはその王権を私腹に肥やすのではなく、主のために、民のために存分に用いました。ダビデの姿にゆだねられた責任を果たすものの模範を見るのではないでしょうか。

主題 <神との交わりと導き> 

聖書箇所 サムエル記第二  7章 (2012年11月22日)

今日のみことば「ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。 」(18)

 ダビデは、エルサレムに都を移し、王宮を建てた。ペリシテ人を追討し、6章では神の箱をエルサレムに運び込んだ。これあのことが整い、「主が……彼に安息を与えられた」(1)という言葉の中にあらわされていると思われる。 
 このような中で、預言者ナタンの言葉によって、ダビデは神の箱を納めるための神殿の建設を思いついた。ナタンも賛成した。しかし、その夜、神はナタンに語りかけられた。
 神はナタンを通して、ダビデに恵みを与え、祝福するという約束を与えてくださった(8~16)。神は、本来、人が神の愛を受ける価値のない者であるにもかかわらず、無限の愛を注いでくださる恵み深いお方である。
 ダビデは、ナタンから神のことばを聞いたときに、「主の前に座し、そして言った」(18)。彼は、神が語られた約束のことばを深く思い巡らし、祈った。
 ダビデは神の箱の取り扱いを考え始めて、その結果、ダビデは神からの祝福の約束を頂いている。神のことを第一にしていくときに、さらなる祝福を頂いていったと言えます。また、ダビデはこの導きを主の前にへりくだり祈ることをもって確信していきました。 
 このような姿から、今一度、私たちの神との交わりについて確認させて頂きたいと思います。神のことばをしっかりと聞き、そして神に祈る者とならせて頂きたいと思います。

主題 <喜びを持って主の御前に>

聖書箇所 サムエル記第二  6章 (2012年11月21日)

今日のみことば「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」(14)

絶えず、主に拠り頼み、主に導かれて来たダビデにとって、「万軍の主の名で呼ばれる神の箱」を、自らの統治の中心に据えることは、何よりも最優先されるべきことであった。神の箱は、ペリシテ人との戦いに破れたときに、一旦は奪い去られたが、不思議な経緯で送り返されて来て以来、長い間、ユダのバアラのアビナダブの家に置かれたままになっていた(Iサムエル7:1)。ダビデは、民と共に出かけて行き、神の箱を新しい車に乗せて、エルサレムに運び上ろうとした(2、3)。彼らは、「歌を歌い」、楽器をかなで、「主の前で、力の限り喜び踊った」(5)。
しかし喜びは、思いがけない一つの出来事によって、恐れに変わってしまった。車が大きく揺れて、神の箱が引っくり返りそうになった時、そばにいたウザは思わず手を伸ばして神の箱を押さえたことにより死んでしまった(7)。ダビデは、神の箱を運び上ることを恐れ、ガテ人オベデ・エドムの家に回した。  
ところが神の箱がとどまっていた三ヶ月間、オペデ・エドムの家は祝福された。それを知ったダビデは、思い直して再び神の箱をエルサレムに運び上ることにした。今回は、神の箱の本来の運び方に従って、しかも肥えた牛をいけにえとしてささげながら、主を恐れつつ運び上った。しかし彼は、今回も喜びを内に抑えていることができず、「主の前で、力の限り踊った」(14)。エポデだけを身に着けての踊りだったようである(14、20)。サウルの娘ミカルは、彼の喜びを理解できず、裸で踊る夫をさげすみ、家族を祝福しようと帰宅した夫を、皮肉なことばで迎えた(20)。
主の御前に喜びを持って踊ったダビデの姿に喜びをもって主を礼拝する者の姿勢を学びたいと思います。

主題 <大いなる者となる>

聖書箇所 サムエル記第二  5章 (2012年11月20日)

今日のみことば「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。」(10)

イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来て、主の前で契約を結び、ダビデに油を注いで、王とした(3)。サムエルによって油を注がれ、イスラエルの王とされたにもかかわらず、これまでは、ダビデはサウルに仕え、またサウルの追っ手から逃げ回る、忍耐の日々を過ごさなければならなかった。しかし、ダビデはこの時を自分の力で切り開くのではなく、神の導きにゆだね待ち望んだというところにダビデの信仰の勝利をみるのではないだろうか。
王とその部下がエルサレムに来たとき、その地はまだエブス人の土地だった。彼らは「ダビデがここに来ることはできない」と考え、ダビデを軽蔑した(6)。しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取り、これをダビデの町と呼んだ(7)。このとき以来エルサレムは、部族を越えた、主の民の都となった。ダビデの評判を聞いて、ツロの王ヒラムは、友好的な申し出をしてきた。その地の名産の杉村と大工、石工が送られて来て、ダビデのために王宮を建てた。「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。」(12)
ダビデが王となったことを聞いて、ペリシテ人がダビデをねらって攻め上って来た。ダビデは主に伺いを立て、示されたところに従って行動し大勝した。
ダビデの王権はまさに神と共にあることにより、ますます栄えていきました。私たちも主と共にあることを切に求め歩んで行きましょう。

主題 <正義を持って神の時を待つ>

聖書箇所 サムエル記第二  4章 (2012年11月19日)

今日のみことば「まして、この悪者どもが、ひとりの正しい人を、その家の中の、しかも寝床の上で殺したときはなおのこと、今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか。」(11)

 将軍アブネルがヘブロンで死んだという知らせは、彼が王として擁立したサウルの子イシュ・ボシェテをはじめとするサウルの家の者たちに、大きな衝撃を与えた(1)。そのような絶望的な情勢を読み取り、活路を切り開こうとレカブとバアナは、寝室で昼寝をしていたイシュ・ボシェテを殺して首をはね、その首を持って、一晩中歩いてヘブロンのダビデのところにやって来た。彼らはイシュ・ボシェテの首をもってダビデに取り入ろうとしたその行動はまさに自分の利得、名誉のための何物でもなかった。
しかし、ダビデの答えは、彼らからすれば全く意外なものであった。かつて、王冠と腕輪を証拠に、サウル戦死の「良い知らせ」をもたらしたアマレク人に、ダビデは、ほうびではなく死をもたらしたと同じように(1:14~16)、「私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか」と言って、彼らを討たせた(11、12)。
 ダビデはここでも、王の子に対する謀反には加担していなかったことを明示した。ダビデにとっては、サウルも、イシュ・シェテも、滅ぼすべき敵ではなかった。ダビデは、サウルから始まったイスラエルの王権を、引き継ごうとしていたのである。王座を占めている者を、その座から引きずりおろそうという考えは、ダビデには少しもなかった。ひたすら神の時が来て、神ご自身が彼を王座に着かせてくださると、信じて待ち続けたのである。