2013年1月16日 (水)

主題 <主のみこころを求めて>

聖書箇所 サムエル記第一 24章 (2012年11月 8日)

今日のみことば「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」(12)

 あと少しというところでダビデを取り逃がしたサウルは、彼がエン・ゲディの荒野にいると知らされると、三千人の精鋭を率いて、再びダビデを捜しに出て来た。たまたま、彼が用を足そうと道ばたのほら穴に入ったところ、その奥にダビデとその部下が潜んでいた。ダビデの部下が言うように、それはまさに、主がダビデに与えたチャンスのように思われた。しかし、ダビデはサウルに手を下すことをしなかった。ただ置かれていた上着のすそを切り取っただけであった。サウルが「主に油を注がれた方」であって、彼に「手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」とダビデは考えたからであった(6)。 ダビデは切り取った上着のすそをサウルに示しながら、自分の手中にあったサウルを殺さなかったことは、サウルに対する悪意や背きの意志が全くないことの証拠だとし、自分のいのちをつけねらって追い回すサウルの不当な仕打ちを、主が正しくおさばきくださるようにと訴えた(11、15)。
 サウルはダビデの公正な態度に心を動かされ、彼の正しさと自分の不正を率直に認め、主が彼を必ず王とし、彼の手によってイスラエル王国が確立することを確認した。ダビデはサウルの求めに応じて、サウルの家を滅ぼさないと誓った。
 この一連の出来事は見た目には、ダビデの部下が言ったようにダビデがサウルに反撃するチャンスが神のときと考えやすい。自分の都合に合わせて、「みこころ」を判断してはならないことを教えてくれる出来事だった。本当のみこころを求めて行くとき、真実を尽くし、ゆだねていくことも一つの導きであることを覚えたい。

主題 <主に伺うダビデ>

聖書箇所 サムエル記第一 23章 (2012年11月 7日)

今日のみことば「ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」(4)

  逃亡の身にあったダビデのもとに、ペリシテ人がケイラに攻めてきているという報を聞いた。この時、ダビデは主に伺っている(2、4)。22章までは、ダビデの主に対する信仰や、主がダビデと共におられたことの記述が多く、ダビデの個人的な主との対話は、ほとんど記されていない。しかし、この時に至って初めてダビデの積極的な行動として、「主に伺う」ことが記されている。おそらく前章に書かれている祭司一族の滅亡がダビデを大きく変えたとも見ることができる。ダビデは神に求め、神は確かに彼の求めに応えてくださった。
ダビデたちはペリシテ軍からケイラの人々を救ったが、そこを主から導かれてすぐにダビデたちは離れ逃げていった。ペリシテ人からケイラを救ったダビデを、サウルたちは攻めて封じ込めようとした。
そのような中でサウルの息子ヨナタンが来た。彼はサウルの息子ではあるが、ダビデの親友であり、「神の御名によってダビデを力づけた」(16)。真の友の励ましはダビデを勇気付けたことだったろう。
今、いっぽのところまでサウル王はダビデにせまったが、ペリシテ軍が攻めてきた知らせを聞き、結局、ダビデ討伐をやめた。でもそれは「神はダビデをサウルの手に渡さなかった」からと言われていることを確認したい(14)。神はダビデを危機から救ってくださった。同じように神は、現代の信仰者のことも、多くの危機から守ってくださるお方である。神は、ご自身を慕い求める者の祈りを確かに聞いてくださり、ご自身の「時」に、最善をなしてくださるお方であることを覚えよう。

主題 <ダビデの立ち上がる備え>

聖書箇所 サムエル記第一 22章 (2012年11月 6日)

今日のみことば「私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」」(23)

 ダビデはアキシュのもとから離れ、アドラムの洞穴に避難した。それを聞いたダビデの家族たち、さらには、何らかの問題を抱えた者たちがダビデのもとに集まり約四百人の者が、彼と共にいるようになった(1、2)。孤独に逃亡し続けていたダビデには心強くされたかもしれない。
しかし、アドラムのほら穴に潜んでいることがサウル王に知られ、さらには祭司アヒメレクがダビデを逃亡させるのに支援したと告げる者もあって、事態は急変していくこととなってしまった。
結果的に、何も事情を知らなかったアヒメレクをはじめ祭司たちはサウル王の命令でそこにいたエドム人のドエグによって殺されてしまった。
しかしアヒメレクの息子エブヤタルは、逃れてダビデの元に行き、ダビデはその悲惨な事件について聞き、心を痛めた。
これらの一連の出来事を通して、ダビデは責任を大きく感じたことであろう。そして、これらの経験はダビデにとってこれからサウル王の次に王となる備えとなった。つまり、さまざまな問題に対処していく時に、真実を尽くしていかなくてはならないということである。自分の身を偽り続けていくときに、問題も大きくなってしまうものである。
むしろ、問題に向き合い、解決の糸口を主に求めていかなくてはならないことを教えられる。

主題 <逃亡するダビデ>

聖書箇所 サムエル記第一 21章 (2012年11月 5日)

今日のみことば「ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。 」(12)

 ダビデは、サウルにいのちを狙われ、親友ヨナタンの手引きによって脱出し、本格的な逃亡生活が始まっていくこととなった。
ダビデは最初に祭司アヒメレクのもとを訪れた。一人でやってきたダビデにアヒメレクは不思議に思うが、ダビデは今の状況を語らず、食料と武器を手に入れた。特に、武器に関してはかつてペリシテのゴリヤテの剣がそこにあり、ダビデはそれを持って旅立っている。かつて、勇敢に戦い、ゴリヤテにも勝利したダビデが、今は、サウル王によっていのちが狙われて逃亡の身となっていることを深く悲しむべき状況になってしまったことを実感したのではないかと思う。いずれにしてもダビデはこの状況を何とか打開しようと奔走していく。
続いてダビデはガテの王アキシュのところを訪れた。そこでは、アキシュの家来たちがダビデであることに気付き、アキシュに進言するのに気付いたダビデはとっさにアキシュの前で、自分の身の安全を図るため、気が違ったかのようにふるまった(13)。アキシュはダビデと聞いて恐れていたが(12)、ダビデの方は逃亡の身となっていて、かつてのような勇猛果敢に戦う姿はなく、アキシュを恐れて、気違いを装うしかなかったのだった。
人前に出ることもはばかるような弱さを持った人間の姿はまさにダビデの姿のようではないだろうか。今、私たちは問題から逃げていることはないだろうか。その問題をまず主によって解決を求めていかなくてはならいことを覚えよう。

主題 <苦難の中に見られた友情>

聖書箇所 サムエル記第一 20章 (2012年11月 4日)

今日のみことば「子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」 (41)  

 ダビデの逃避行は続き、最終的にサウル王の内心を知るためにヨナタンが行動した。
 父サウルから新月祭の会食の席にダビデがいない理由を問われたヨナタンは、ダビデから言われたとおりの筋書きで事情を説明したが、その結果、父子関係は極めて険悪になってしまった。
 ダビデの肩を持つヨナタンを、サウルは口汚くののしり(30)、ダビデを侮辱することばを浴びせ(31)、なおダビデをかばう彼を、槍で打ち殺そうとまでした(33)。父サウルが、本気でダビデを殺そうとしていることを知ったヨナタンは、激しく怒り、また心を痛めた(34)。
 この一連のことをダビデに会って連絡することは、非常に危険な状況にあった。ダビデの所在が父に知られてはならなかったし、ヨナタンがダビデに連絡したとわかるのもよくなかった。そこで安全にダビデを逃がすために、ヨナタンは、あらかじめダビデに告げていたとおりの巧妙な方法で、彼に迫る危険を知らせることに成功した。子供の背に向けて投げかけられた「早く。急げ。止まってはいけない」は、実はそのまま、子供のもっと先に身を潜めているはずのダビデに向けて、ヨナタンの精一杯の友情の表れであった。このヨナタンの友情に気づいたダビデは、危険を冒してまでヨナタンの前に姿を現し、丁重に感謝を表した。苦難の逃避行中に見られた友情であった。
 苦難の中で真実な信頼関係を築き、主の最善を求めて行く姿に学びたいと思います。

主題 <主の守りの中で>

聖書箇所 サムエル記第一 19章 (2012年11月 3日)

今日のみことば「サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。」(10)
 ダビデは敵にではなく味方から、それも自らが家来として仕える王であり、義父でもあるサウルから、いのちを付けねらわれ、絶えず身を守ることを考えなければならない状況となってしまった。しかし、主は、繰り返しダビデに迫る危機から、いろいろな仕方で、彼を救い出された。
 第一に、親友ヨナタンのとりなしによって、危機は回避された。父がダビデを殺そうとしていると知ると、ヨナタンはいち早くダビデにそのことを告げて、ダビデの身を隠させ、父サウルには「ダビデの良いことを話し」、彼が死に値することを何一つしていないばかりか、ペリシテに対する大勝利かダビデのいのちがけの戦いの結果であることを思い起こさせ、父に、ダビデ殺害計画を思いとどまらせた(4、5)。
 第二に、妻ミカルの機転によって、ダビデは難を逃れることができた。立琴を弾いてサウルの心を静めようとしていたダビデを、またしてもサウルは槍で壁に突き剌そうとした。自宅に逃げ帰ったダビデを捕らえようと、踏み込んで来たサウルの使者たちが見たものは、寝床に置かれたテラフィムで、すでにダビデは、ミカルの手引きによって窓から逃走した後だった。
 第三に、主ご自身の直接的な介入によって、守られた。ダビデが逃げて行った先は、ラマのサムエルのところであった。そのことが王に告げられると、王はダビデを捕らえようと使者たちを遣わしたが、神の霊が彼らの上に臨み、彼らは預言した。同じことが三度繰り返された後、王自身がダビデ逮捕に赴いたが、逆に彼までも神の霊に捕らえられて、預言する羽目になった。ダビデは主のよって守られて生き延びていきました。今日、主の守りがあることを祈りましょう。

主題 <どこに行くににも主が共におられること>

聖書箇所 サムエル記第一 18章 (2012年11月 2日)

今日のみことば「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。」(14)  

 ペリシテ軍との戦い後、ダビデはサウル王に謁見が許され、ダビデは千人隊の長となった(5、13)。主がダビデと共におられたので、「その行く所、どこででも勝利を収めた」(14)。彼が民の先頭に立って行動していたので、民は彼を愛した。
 しかし、民たちのダビデに対する高評価はサウルにとって王位を脅かす存在と見られ、ダビデを恐れるようになった(13~16)。
 ダビデに対してねたみと疑念を抱くようになったサウルは、発作的に起こる彼の病的な苛立ちを静めようと、懸命に立琴を弾くダビデめがけて、いきなり槍を投げっけた。ダビデは二度も身をかわし、危うく難を逃れた。
 ゴリヤテを倒した者に約束された、王の婿となる話は、一旦はダビデにとって恥辱となる結果になったが、ペリシテ人の手でダビデを始末しようと図るサウルは、ダビデを愛するミカルを、危険な花嫁料と引き替えにダビデに与えた。しかし、結果は彼の思惑どおりにはならなかった(25-27)。
 サウルは、主が自分のところから去って、ダビデと共におられるのを見てダビデを恐れ、「いつまでもダビデの敵となった。」(12、29)
 ダビデの功績は賞賛されるべきことであったが、サウル王からのねたみの原因となってしまう。この時からダビデはサウル王から命を狙われるという苦難の日々が始まって行く。しかし、ダビデはこのような窮地にあっても主に信頼しつづけていたことに学びたい。

主題 <主の戦いという確信> 

聖書箇所 サムエル記第一 17章 (2012年11月 1日)

今日のみことば「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(47)

 ペリシテ軍はサウル王との前に、代表戦をもちかけてきた。その代表戦の相手は巨人のようなゴリヤテが出てきた。そのいでたちと勢いにイスラエル勢は恐れてしまっていた。
 そのような中、父の使いでやってきたダビデはゴリヤテとの戦いを「主の戦い」だとした(47)。彼は主にあって、主のために、主の御力で戦おうとしたのである。
 一騎打ちに臨むダビデとゴリヤテ、二人のいでたちは、まことに対照的だった。
 ゴリヤテは自分の神々によってダビデをのろい(43)、ダビデは主の御名によってゴリヤテに立ち向った(46)。ダビデは単に勝利を確信していただけではなく、彼の勝利によって人々が「主が剣や槍を使わずに救うこと」、主の御力の偉大さを知るようになることを望んでいた(47)。
 勝負は一瞬のうちについた。石投げから放たれた、たった一つの石によって、重装備の巨人はあっけなく倒れた。
 この戦いの結果、イスラエル軍は奮い立ち、ペリシテ軍は総崩れとなり大敗した。
 ダビデは主の名のもとに戦い、勝利を収めました。主が共におられる故に戦いに出て行きました。単なる勇気ではなく、信仰による確信があったということを覚え、私たちも信仰をもって一歩を踏み出す者となりましょう。 

主題 <主は心を見る>

聖書箇所 サムエル記第一 16章 (2012年10月31日)

今日のみことば「しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」(7)

  サウルが王位から退けられたのは、彼の能力や手腕に問題があったからではなく、ただ、主のみことばに聞き従わなかったからであった。そ
 主はサムエルに新たな王を選ばれるに際して、すべきことを教えると約束なさり(3)、サムエルもまた、主が告げられたとおりを行なった。
 サムエルの前に連れて来られた、エッサイの七人の息子たちの中には、主が選んでおられる者はいなかった。サムエルが「容貌や、背の高さ」を見て、この人こそと思ったエリアブも、主は退けられた。  
エッサイの末子ダビデは、野で羊の番をしていた。彼はまだ若過ぎると、父エッサイは考えた。しかし、その外された者こそ、主がお選びになった者であった。主の選びは、しばしば人の思いを越えていることが分かる。
 油注ぎと共に主の霊を受けたダビデは、ただちに王位に着かせられることはなく、その祝福された音楽の賜物を用いて、悪しき霊に脅かされるサウルを慰め癒す者として仕えることになった(23)。
 主の選びは見た目のうわべではなく、その人の心であるということは、今日の私たちにも同様の主の目が注がれているということを覚え、私たちの心の内側をとりあつかってくださる主の前に真実に生きることができるように祈りましょう。

主題 <聞き従うことはいけにえにまさる>

聖書箇所 サムエル記第一 15章 (2012年10月30日)

今日のみことば「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22)
 サムエルからサウル王に命じられたことはアマレク人を打つというものでした。そして、主の命じられるとおりに行動し始めるサウル王でしたが、アマレクの民を聖絶したが、王のアガクは生け捕りにし、さらには家畜の中でも良い物を惜しんで、値打ちのない物だけを聖絶するということをしました。
 サウルはサムエルから、なぜ主の御声に聞き従わなかったのかと問いただされたとき、「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました」と言い切るほど、彼の心は頑なになっていた。そればかりか「いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来た」のだから、むしろ良いことをしたのではないか、と開き直っている(20、21)。
  「私は罪を犯しました」と、ようやく悔改めのことばを口にしたサウルであったが、その後にすぐ「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」という言い訳のことばが続くところをみると、その悔改めは場を繕うためのものでしかなかったように思われる(24)。実際、あくまで同行を求めてサムエルに食い下がるサウルの心にある思いは、王位から退けられたという深刻な事態にもかかわらず、「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」のことばのとおり、民の前に王としての自分の面目を保つことでしかなかったのである(30)。
私たちはみことばに対する不従順の罪の重さに気づく信仰者でありたい。