2013年1月16日 (水)

主題 <主がお助けになられるという信仰>

聖書箇所 サムエル記第一 14章 (2012年10月29日)

今日のみことば「ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」」(6)

 14章では、ペリシテ軍との対決に際して、ヨナタンと道具持ちの二人が先陣をきっていくところから始まっている。
ヨナタンは「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」と考え(6)、道具持ちと二人だけで敵陣に乗り込んでいった。大軍のペリシテ軍に対して、ヨナタンは無謀とも言える行動をとったかに見えるが、彼にとってどのような状況にあっても主が共におられるという確信が実行に移されていく理由だった。
 たった二人だけで大群の先陣に切り込んでいくという、ヨナタンと道具持ちの大胆な信仰の行為は、思いがけない戦況の展開をもたらす結果となった。彼らの行動は、ペリシテ軍の間に恐れを生じさせ、その恐れは瞬く間に全軍へと広がっていった。そして、ペリシテ軍内部の混乱はペリシテ軍の敗走という結果となった。
 しかし、せっかくの好機に際して、サウル王は民たちに追撃させる間、食事をとならないということを誓わせたり、完全な勝利を得られなかった原因をヨナタンの罪として断罪するという行動をとるという結果となってしまった。
 私たちも信仰的決断と行動が人間的な判断で阻んでしまうことがないか注意しなくてはならない。

主題 <主の御声を待ち望み>

聖書箇所 サムエル記第一 13章 (2012年10月28日)

今日のみことば「サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。」 (13)  
 王制を支えるための三千人規模の常備軍が編成され、二千人がサウルのもとに、千人がサウルの息子ヨナタンのもとに置かれた(2)。ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打ち殺したことをきっかけに、ペリシテ人との戦いが始まった(3、4)。
 この戦いは、一般的な見方をするなら、初めから勝ち目のない戦いであった。圧倒的な軍事力を誇るペリシテ軍に対して、イスラエル軍は、手にする武器すら、ろくになかったのである(5、22)。イスラエルの人々はペリシテ軍の脅威の前に恐れをなし、逃げ隠れた。サウルに従う兵士たちの士気は低く、「震えながら彼に従っていた」(6、7)。
戦いを前に、主を礼拝しなければならなかったが、サムエルは、約束の七日間を過ぎてもやって来なかった。民が離れて行くのを恐れたサウルが、自分の権限を越えて全焼のいけにえをささげ終わったその時、サムエルが到着した(8-10)。民の離散、サムエル到着の遅延、情勢の緊迫化を理由に、自分のしたことを正当化しようとするサウルに対して、サムエルは、主がみこころにかなう次の王をすでに用意しておられると告げた。彼が「主の命じられたことを守らなかったから」である(11-14)。
 私たちはサウルのような失敗を時に、サウルがしたように正当化して反論することはないだろうか。この時、問われたことは、主の前に忍耐して待つことであったと思うが、これが本当に難しいことでもある。主に対する全幅の信頼こそがいつの場合でも問われるということを覚えたい。 

主題 <王ではなく、主を恐れ> 

聖書箇所 サムエル記第一 12章 (2012年10月27日)

今日のみことば「もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。」(14)

 サムエルは、サウル王の就任式に集まったイスラエルの人々に、今まさに、その歩みが始まったばかりの、「王制」という新しい体制における民のあり方について、幾つかの心得を語っている。
 主が王をお立てくださったからと言って、ただ自分たちを治める王に従っていればよいというわけではない。今まで同様、「主を恐れ、主に仕え、主の御声に従う」べきであることを、サムエルは強調した(14、15)。
 王制という恒常的な体制が整いさえしたら、すべてはうまく行くかのような民の安易な考え方を打ち破るために、サムエルは、小麦の刈り入れ時には普通見られない、雷と雨をお下しくださるように神に祈り、実際にそのようになった。「民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。」(18)
 サムエルは、王制に移行しても、民の生き方は根本的には変わらないことを重ね重ね強調し、「心を尽くし、誠意をもって」主に仕えるようにと命じると同時に、主の御声に従うことをやめてしまうなら、王も民も滅ぼされてしまうであろうと警告した(15、24、25)。
 私たちは目に見える頼りがいのある人を見ると安易に依存してしまうことはないだろうか。どのような場合でも、主に信頼していくことを忘れてはならないことを覚えたい。

主題 <神の霊が激しく下った>

聖書箇所 サムエル記第一 11章 (2012年10月26日)

今日のみことば「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。」(6)  
 王となったサウルにとって、最初の戦いとなるアモン人との対決はイスラエルの民に王として示す機会となる出来事でした。
 イスラエルの弱体ぶりを嘲笑うかのように、ヤベシュの人々に突きつけられたアモン人ナハシュの要求を耳にしたとき、サウルは神の霊に満たされ、怒りに燃えて、彼らの救出に立ち上がった(2、6)。
 かつて前代未聞の不祥事を引き起こしたベニヤミンの地ギブアに対する戦い(士師記20章)が思い起こされるような方法で、サウルはイスラエルの民を招集された(7)。そして、今度は、ベニヤミンに属するギブア出身のサウル王が、イスラエルの民を率いてヤベシュの人々の救出に立ち上がった。
 かつては統率者のいない中で、忌まわしい出来事の始末のために、同胞を滅ぼそうと戦ったイスラエルが、この度は窮地に立たされた同胞のために、王のもとに一致団結して外敵と戦い、救出に成功したのであった。そのこと自体が王制移行の成果であり、イスラエルの霊性の回復の兆しでもあると言えよう。このことを受けて、民は改めてサウルを王としてたてる就任式を行った。
 今日の箇所で、注目すべきは、士師記の後半では主の霊が臨まず、民一人一人が正しいと思われることを行っていった時があったが、ここでは、再び、サウルの上に神の霊が臨まれ、そして、勝利へと導かれて行ったというところに、主の最善がなされたことを見る事ができたということである。
 主の導きを絶えず仰がなくてはならないことを教えられるところではないだろうか。

主題 <主によって新しくされた者としての自覚> 

聖書箇所 サムエル記第一 10章 (2012年10月25日)

今日のみことば「サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。」(9)

 王の任職の油注ぎが、サムエルによって初めて行われた。サウルは、神に仕えるしもべとしての王に選任されたのである(1)。このことが、神ご自身から出たことだということを確証するためと思われる一連のしるしが、具体的に、また詳細に、サムエルによって告げられたが(2-6)、それらのすべてが、そのとおりに、その日のうちに起きた(9)。
 サウルがギブアで預言者の一団と出会うと、告げられていたとおり、聖霊が彼の上に激しく下り、「彼も彼らの間で預言を始めた」(10)。サウルを知っている地元の人たちにとって、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」ということわざができたほど、そのような彼の姿は、あまりにも意外であったのだろう(12)。サウルは「新しい人」に変えられた(6、9)。
 しかし、サウルは王としての任職の油を注がれ、聖霊を受けたにもかかわらず、王としての自分の立場を明らかにすることに、積極的ではなかった。「サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった」し(16)、くじによって民の間で王として確立された時にも「荷物の間に隠れている」ところを見つかっている(22)。また王として選ばれたサウルを軽蔑し、彼についていこうとしなかった者たちの不遜な態度を、黙って見過ごしにした。
 ここにはサウルの王として召されながらもまだ自覚しきれていない弱さが見られる。結果的に、その弱さは神への徹底した従順にならなかったことを後にみることになってしまった。私たちも主の召しに速やかに従順に仕えられるように備えていかなくてはならない。

主題 <主の御心が示される時>

聖書箇所 サムエル記第一 9章  (2012年10月24日)

今日のみことば「主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。」(15)

 前章でイスラエルの民は王を求め、この求めを聞き入れるように言われた主は一人の王をたてられようとする。それがサウルであった。このところにも主の導き、御心を示されていく。
 「サウルが来る前の日に」サムエルに対して、明確な導きがあったことは興味深いことである(15、16)。主は充分な配慮をなされ、サムエルに対して、事前にサウルの来訪を知らせただけではなく、彼がサウルと初めて出会った時には、「ここに、わたしがあなたに話した者がいる」と誤解しようがないほど明確に告げられた(17)。サムエルはサウルとは面識がなかったが、主の確かな導きのゆえに、王の候補者を取り違える心配はなかった。
 サウルの来訪を事前に知らされたサムエルは、彼のために席を設け、食事を整えさせ、まだ見ぬ王の候補者を迎えるための備えを怠らなかった(23、24)。それはサウルが、このような思いがけない事態を、本気で受け止めるための助けになったに違いない。
 いきなり、自分がイスラエルの王の候補者とされていると知った、サウルの驚きと戸惑いは、どれほどであったろうか。彼が尻込みをしても、仕方がないように思える(21)。しかし、サムエルはためらうことなく、どんどん事を進めて行った。サウルには選択の余地など与えられていなかったのである。神の導きは、時には準備のないままに受け取らざるをえないような、強引な形で示されることもある。
 サウルはサムエルの言われるとおりに受け止めていく。私たちもいつどのような時にも主のみこころを求めていくが、それと同時に示されたならば受け止めて行く備えもして行かなくてはならないことを教えられる。

主題 <王制を求めた民>

聖書箇所 サムエル記第一 8章  (2012年10月23日)

今日のみことば「主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。」(22)
 サムエルが活動した時代は、イスラエルの歴史の中でも特に大きな変化の時代であった。王制という、それまでの神の民のあり方とは大きく違った制度への移行が求められていた。直接の理由づけは、さばきつかさとして任命されていたサムエルの二人の息子たちへの不信任であった(3-5)。エリの二人の息子たちの場合と同様、サムエルの家庭の事情にも、聖書は全く触れていないが、残念なことに、良き信仰者の子弟が、必ずしも良き信仰者にならなかった事例として見る事ができる。
 王制を求める民の声を、サムエルが不快に思ったのは、息子たちへの不信任のためではなく、神を退けて、王を求めたからである。しかし彼は、この問題を自分の感情の赴くままに扱うことをせず、すぐさま主の御前に持ち出して祈った(6)。主のお答えは意外にも「民の声を聞き入れよ」であった(7、9)。神は、民がご自身を退けて、王に拠り頼もうとしていることを承知しつつ、あえて民の要求を受け入れようとされたのである。
 民に属するあらゆる物を徴用する権利が、王にあることを告げられても(11-18)、民は少しも動揺することなく「どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません」と、王の必要性を強行に主張し続けた(19、20)。主は再度サムエルに「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ」と命じられた(22)。民は王による恒久的な秩序と安全を切望したのであろう。主は、その求めを受け入れられ、民を新たな方法で導かれようと備えられた。
 今日の私たちも主にある秩序と導きはどうあるべきかを考えていかなくてはならなだろう。

主題 <主を慕い求めて>

聖書箇所 サムエル記第一 7章  (2012年10月22日)

今日のみことば「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(2)

 ペリシテ人との戦いに敗れ、主の契約の箱を奪い去られ20年が経過していた。神の箱による奇跡的な勝利を期待したイスラエルであったが、神を恐れぬ過ちに気づかされてきたイスラエルの民の心は主に向けられるようになっていた(2)。
 サムエルはこの機を捉え、民が偶像を捨てて主にのみ仕えるなら、主はイスラエルをペリシテ人の手から救ってくださると力強く語った(3)。民はサムエルに聞き従った(4)。ミツパに召集されたイスラエル人は罪を告白して悔い改めたが(6)、ペリシテ人の領主たちが攻めて来たと聞いて恐れた。しかし、かつてのように主の箱を戦場に持ち出すようなことはせず、サムエルにとりなしの祈りを要請した。主に叫ぶなら、主が答えて救ってくださると信じたのである(7、8)。
 実際、主はサムエルの祈りに答え、「その日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱した」ので、イスラエルの大勝利となった(10)。主への祈りが、思いがけない大勝利をもたらしたのである。かつては神の箱自体に魔術的な力を期待するような、形骸化した信仰によって、ペリシテ人に大敗を喫したイスラエルであったが、今や祈りの力の偉大さを知らされることになった。
 私たちも改めて、何事においても主の前に祈り求めて、主の導き、助けを求めていく者となりましょう。

主題 <神への恐れ>

聖書箇所 サムエル記第一 6章  (2012年10月21日)

今日のみことば「ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」」 (20)  
 ペリシテ人の町々を襲ったわざわいと神の箱の関係をめぐって、ある人たちは、わざわいが神の箱によってもたらされたとは認めず、「偶然に起こったこと」とし、「心をかたくなに」して、神の箱を送り返すことに反対したようである(6)。そのため神の箱が「七か月もペリシテ人の野にあった」 (1)。
 ペリシテ人の中のそのような人たちを説得して、彼らの上に重くのしかかる「神の手」が去るように努めたのは、ペリシテ人の祭司、占い師たちでだった。彼らはこの件の解決には「償い」が必要で、五つの金のねずみ(腫物の媒介役を果たしたらしい)の像を神の箱に添えて返すことによって「イスラエルの神に栄光を帰」さなければならないと説いた。そうすることによって、わざわいが「神の手」によることを認めることになると考えたのであろう(3-5)。神の箱の返し方についても、彼らの提案は思慮に富んでいた。「くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛」に引かせた、神の箱を積んだ車が、子牛の待つ牛小屋ではなくイスラエルへの道を進んで行くなら、わざわいは神の箱によってもたらされたことになると彼らは考えた(7-9)。神のご介人なしに、そのようなことは起こりえないからである。そしてその、普通なら起こりえないことが起きた(10-12)。
 神の箱を喜び迎えたベテ・シェメシュの人たちは、全焼のいけにえをささげて神を礼拝したが、主の箱の中を見たために、主に打たれた(19)。
 ペリシテにあって恐れを覚えさせた神の箱は、ベテ・シェメシュでは好奇心となって、打たれてしまっている。神への恐れということをもう一度考えさせられる出来事であった。

主題 <神の手が働いている> 

聖書箇所 サムエル記第一 5章  (2012年10月20日)

今日のみことば「アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」」(7)

 ペリシテ人は戦利品である神の箱を、彼らの神ダゴンの宮に運び込み、安置した(2)。しかし翌朝、彼らはダゴンが「主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れて」いるのを見た。さらにその翌朝は、ダゴンのからだはバラバラになって倒れていたのである(3、4)。神の箱の捕獲にもかかわらず、ペリシテ人は主に勝利してはいなかった。
 神の箱がたらい回しにされて運び込まれるペリシテの町々の上に、主の御手が「重くのしかかり」、人々を「腫物で打って脅かし」、「ひどいめに会わせ」、「非常な大恐慌を引き起こし」た(6、7、9)。ペリシテ人の領主たちは、わざわいが神の箱によって引き起こされているものと考え、神の箱を「もとの所に」戻すことにした。彼らは災いが、「神の手」によることを承知していたようだ(7、12)。
 私たちは、異教の地にあっても主の主権的なご支配があり、力強いみわざがなされるということを、忘れてはいないことを教えてくれている出来事として覚えて行かなくてはならない。 
 現代の日本に生きる私たちは、異教の地に置かれているということを覚え、偽りの神々のひしめく日本においてさえ、主こそが、まことの主権者であることを思い起こし、信仰者として立っていくことができるいよに祈りましょう。