2013年1月16日 (水)

主題 <目に見えるものにすがる>

聖書箇所 サムエル記第一 4章  (2012年10月19日)

今日のみことば「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」」(3)  

 サムエルが全イスラエルにおいて預言者として活動し始めた頃、イスラエルとペリシテ人との間で戦いが起きた。イスラエルに不利になった時、長老たちは、主の契約の箱を陣営に持ち込むならば、それによって勝利することができると考え、エリの二人の息子、ホフニとピネハスの手によってそれを実行した(3、4)。しかし実際は逆効果で、契約の箱を迎えたイスラエルの大歓声は、ペリシテ人に危機感を覚えさせ、奮起させ、イスラエルは惨敗した。多くの兵が倒れ、「神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ」(9~11)。主の契約の箱自体に力でもあるかのように思い、契約の箱に拠り頼んだイスラエルの「信仰」は、現実的で合理的なペリシテ人の前には通用しなかった。
 目に見えない神に信頼し、拠り頼む代わりに、目に見える何かに、特別な力や効果を期待して身に着けたり持ち歩いたりしていないだろうか。
 神の箱のことを気遣い、戦況の知らせを待っていたエリにとって、イスラエル惨敗の報、とりわけ彼の二人の息子の死と、神の箱が敵に奪い取られたとの知らせは、あまりにも衝撃的で、彼は席からころげ落ち、首を折って死んだ(18)。
 出産間近であった祭司ピネハスの妻は、悲報に触れるや出産した。彼女はその子にイ・カボデ(「栄光は去った」)と名づけ、栄光がイスラエルを去ったと嘆いた。

主題 <主のみことばを聞くために> 

聖書箇所 サムエル記第一 3章  (2012年10月18日)

今日のみことば「それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。」(9)

 主の宮で寝ていた少年サムエルは、再三にわたって、彼を呼ぶ主の声を聞いたが、エリが呼んでいるものと思い、彼のもとに駆けつけた。「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった」からである(7)。その度に、帰って寝るようにと指示していたエリであったが、同じことが三回繰り返されたとき、主がサムエルを呼んでいるのだと気づき、「今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」と、指示を与えた(8、9)。サムエルが、エリの指示どおりに主に申し上げた時、主はサムエルに、主のことばを語り始められた。
 この一連のことを考える時、幼い時から主の前にあっても、主の御声を聞くということについて、教えていく必要があることを思わされる。クリスチャンホームに育つ子弟たちに教えていく責任が家族、教会にあることを示される。また、みことばを聞こうと、耳を傾けて待ち望む者に、主はお語りくださること覚えたい。私たちが聖書を通読するときにも、単に「読む」というよりは、主の語りかけを「聞く」という姿勢をもって、主のみことばを待ち望む者でありたい。
 サムエルが初めて聞く主のことばは、エリの家に対する、厳しいさばきに関するものだった(11-14)。それを告げることを恐れるサムエルに、エリは、主の語られたすべてを隠さずに告げるようにと、厳しく迫った。サムエルが告げたすべてのことばを聞いて、エリはそれが主から出たことを認め、承服した。私たちは主がお語りになるそのままを受け入れ、それに応答し、そのままを告げ知らせなければならない。主の語られたことを曲げてはならない。この時を機に、サムエルは主のことばをイスラエルの民に取り次ぐ「主の預言者」として用いられるようになった(20)。

主題 <感謝と祈りは続く>

聖書箇所 サムエル記第一 2章  (2012年10月17日)

今日のみことば「事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。」(21)

 ハンナは祈りにお応えくださった主に向かって、高らかに感謝と賛美をささげた(1~10)。彼女の喜びがいかに大きなものであったかは、1節のことばから察することができよう。彼女の心は、今や誇りに満ちた喜びに沸きたっている。また、いやしめられ、辱められている者を顧み、その苦しみの中から一挙に高く引き上げてくださった主を、ハンナはことばを尽くしてほめたたえている(2、3)。さらにまた、高ぶる者を低くし、へりくだる者を高くされる、主の主権的なみわざを大胆な表現で言い表している(4-10)。
 ハンナの祈りに対する主の答えである幼子サムエルは、祭司エリのもとで「亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた」(18)。エリの二人の息子たちの目に余る悪行が、平然となされていたような劣悪な霊的環境にあってもなお、幼子が守られ、「主のみもとで成長した」ことの背後には、恐らく「彼のために小さな上着を作り、毎年……その上着を持って行く」ハンナの(19)、愛に満ちたとりなしの祈りがあったことであろう。祈りをもって子どもの成長を願う母親の姿に教えられるのではないだろうか。エリの二人の息子たちホフニとピネハスが、どのように育てられたかは不明であるが、彼らは父親の後継者として「主の祭司」に任じられていながら、「よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについて」勝手気ままに振る舞い、主へのささげものを侮り、その罪は「主の前で非常に大きかった」(12~17)。
 サムエルをささげたハンナを、主は顧みてくださり、エリの祝福のことばのとおりに、三人の息子と二人の娘をお授けくださった。主に祈り続け仕え続けて行くところに祝福があることを覚えたい。

主題 <痛む心の中で主に祈る> 

聖書箇所 サムエル記第一 1章  (2012年10月16日)

今日のみことば「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」(10)

 ハンナの苦しみは「子どもがなかった」ことにあったが(2)、その苦しみを一層大きなものとしたのは、夫エルカナの、もう一人の妻ペニンナの仕打ちであった。ハンナを憎むペニンナは「主がハンナの胎を閉じておられる」ことで「彼女をひどくいらだたせるようにした」(6)。妻が二人いることの家庭の悲劇が、ここに見られる。
 ハンナの苦しみが最も大きくなるのは、毎年、主を礼拝するために宮に上り、家族そろって主の御前で食事をする時だった。神との和解を楽しむための会食が、ハンナにとっては耐えがたいほどの苦しみの場になってしまうのだった。子どものいないハンナヘの配分は、夫の愛に満ちた特別扱いにもかかわらず、子に恵まれたペニンナに比べて、ひどく見劣りのするものだったであろう(4、5)。それを、まるで神の恵みの配分そのものを示しているかのように見せっける、ペニンナの悪意に満ちた振る舞いに、ハンナはいらだち、「泣いて、食事をしようともしなかった」(7)。夫の思いやりに満ちた愛のことばも、彼女の痛んだ心を癒すことはできなかった。
 彼女は主の御前に身を低くし、激しく泣きながら、「男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」と祈ったのである(11)。彼女は単に子を求めたのではなく、自分が神の恵みの中にあることを確認するところにあったと思われる祈りをささげている。彼女の苦しみは、主との関係の中でしか、本当には癒されないものであった。

主題 <信仰者としての栄光>

聖書箇所 ルツ記 4章      (2012年10月15日)

今日のみことば「あなたを愛し、7人の息子に勝るあなたの嫁が、その子を生んだのですから。」(15)

ナオミは帰国したとき、私をナオミ(快い)でなく、マラ(苦しむ)と呼んでください、と言っていた頃<ルツ記1章>と比べ、何と素晴らしいフィナ-レでしょうか。移住と家族の死で始まった本書は、オベデの出生と、ダビデにまでつながっていく。そしてその中心は、何と言ってもルツその人自身の持っていた信仰でした。
 本章は、ルツの信仰者としての光栄でありましょう。短い人生の中で、いかに神を喜ばせ、ナオミを喜ばせ、周囲に光を投げ掛けたことでしょう。一人の歩みが、こんなにも大きな意味を持つことを学びたい。
 こうして、結婚と、オベデの出産、そしてダビデの祖先、キリストの祖先となる特権を異邦人ルツは獲得したのです。

<祈り>主よ。一人の人の信仰の決断が、周囲の人にどんなに多くの祝福をもたらすかルツをとうして教えられます。私にもあなたが信仰の決断を促されるとき神のよしとされる選択ができますように。
<祈りの課題>           

主題 <私におっしゃることはみないたします。>

聖書箇所 ルツ記 3章     (2012年10月14日)

今日のみことば「ルツは、しゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」」 (5)

 3章には、ルツが姑のことばに素直にしたがった事を通して、従順を学ぶところです。ルツのとった行動は、決して奇異なものではなく、あがないを求める昔ながらのやり方でした。大切な約束の土地を贖うことのためにとる行動です。このユダヤ人の習慣として行ってきたことを聞かされると、さっそく彼女はナオミのために実行するのです。なにゆえナオミのためかと言えば、4章にナオミがあがないのものを取っているからです。
 さて、私どもの行動や服従はしばしば自分の得になるか否かによって決める場合が多いのですけれども、本当の服従は、だれを喜ばせるなのかを問わなくてはなりません。この動機こそ、最後まで成し遂げる力なのです。その誰かとは、神と隣人です。
 神は全知です。聖なる動機も、汚れた動機もご存知です。動機までも清められたいと思う。『人がその友のために命を捨てる。これよりも大いなる愛はない。』とは、自分を失って友のためにささげる服従である。そして主イエス・キリストは、この動機で一貫していたのです。
今日は従う点にスポットをあてて考え祈ろう。 

<祈り>主よ。聖書の教えに従って歩まないと自分の都合のいいように、自己免許の信仰生活に生き始めます。そうした生活に満足し、慣れてしまわないように、聖書に聞き、教会生活を大切にさせてください。

主題 <主から、豊かな報いがあるように> 

聖書箇所 ルツ記 2章     (2012年10月13日)

今日のみことば「あなたがその翼の下に、避け所を求めてきたイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(12)

 約束の地カナンに帰ってからのルツの仕事は、落ち穂ひろいであった。有名なミレーの聖画はこの場面を描いたものである。
 ルツは見ず知らずの民の中で、食を確保し、年老いたナオミを支えるために、恥とも思わず落ち穂を拾い集めます。
 熱心な仕事ぶりを見ていたボアズが語ったことばが12節です。
『あなたがその翼の下に避け所を求めてきた神からの豊かな報い』があるようにという。
 ボアズの信仰もすばらしいが、ルツの信仰がにじみ出ています。故郷を捨てて、異国に来て、誰も頼る者が無くても、神のみ翼の陰を求めている。ここに、ルツの信仰を見るのです。神は大きな鳥がひなを翼の下に守るように、孤児、やもめの父、守り手である、と詩篇にたくさん出てきます。この信仰が、ボアズの心からの親切につながっていることを忘れてはなりません。
 イスラエル社会の一つの姿勢が、ルツの信仰にならうこととなる。一人の信仰者が、周囲に与える霊的な資質となることを思うのです。

<祈り>主よ。あなたの翼の下に憩う安らぎをお与え下さい。
 ただ主のみが私の避け所、悩みのときの安息所なのです。ア-メン。

主題 <あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。>

聖書箇所 ルツ記 1章      (2012年10月12日)

今日のみことば「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(16~17)  

 聖書に婦人の名前のついた書は本書とエステル書だけです。エステルはユダヤ人ですが、ルツは異邦のモアブ人です。
 異邦人も、真の神を信じる信者の家庭で信仰の手ほどきを受けたことは幸いでありました。ルツの告白を見るとよくくみ取ることができます。彼女は神の摂理の中で結婚し、求道者として神を求め始めます。
 そして、この第1章はルツの信仰の決心が述べられています。もう一人の嫁オルパはギリギリの所まできて、従うか否かの選択を迫られたとき、神とその家族から離れました。
 けれども、ルツは第1に、姑ナオミの行くところ何処へでも行くという信仰と愛の決断をするのです。
 第2に、その実行は真の神への信仰によるのです。『あなたの民は私の民、あなたの神は、私の神』と告白する。
 第3に、死ぬ覚悟をも決めております。18節を見ると、義母のナオミは嫁ルツの堅い決心に、これから神の祝福を祈るのみでした。
やがて、彼女の決断は、思わぬ道へと導かれます。新約聖書マタイの福音書の最初の系図に『ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。』と記されたのです。(1章5、6節)
 ベツレヘムとは「パンの家」という意味がありましたが、神の置かれた幸いな場を離れて、豊かと見えたモアブに安住を求めたエリメレク一家に、悲劇が続きました。しかし、悔い改めて故郷への帰還は、幸いへと導かれてゆく契機となるのです。


 

主題 <ベニヤミン族へのあわれみ>

聖書箇所 士師記 21章     (2012年10月11日)

今日のみことば「ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって、連れて来た。踊っているところを、彼らが略奪した女たちである。それから彼らは戻って、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。」(23)

 十一部族は、自分たちの娘をベニヤミン族に嫁がせないと誓った(1-7)。しかし、ベニヤミン族との戦いが終わると、彼らは、神の民十二部族から一つの部族を失うことになったことを悲しみ、翌朝早く、神に全焼と和解のいけにえをささげた。そこには、何とかして紅や民族が絶たれないようにとの願いがあった。主の御前にささげていった祈りがあったが、しかし彼らは、主から答えを待つのではなく行動し始めてしまう。
 それは、女性がすべて殺されたベニヤミン族の、生き残った戦士六百人に妻をめとらせるため、ヤベシュ・ギルアデに戦いをしかけ、そこから女性を連れて来て与えるというものであった(8-14)。それでも女性が足りないために、さらにシロの主の祭りで若い女性を略奪するこというものだった(19-23)。確かに、ベニヤミン族に娘を嫁がせないという誓いには反しないし、娘の家族たちから復讐されないかもしれないが、それらが主の御前に正しいことなのかが問われるはずである。
 結局、一人の人への暴行から始まった事件は、シロの娘たちの略奪へと発展したのを考えるとあまりにも悲惨な事件へと発展してしまった背後に、人間的な考えと欲の恐ろしさを感じずにはいられない。 
 しかし、このようなイスラエルの民に対して、神は情け深く、あわれみ深い対処でイスラエルの民の回復へと導かれようとされている。
 主は私たちの行いにまさって最善を行われるお方であることを覚えたい。

主題 <主の介入>

聖書箇所 士師記 20章     (2012年10月10日)

今日のみことば「こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」(35)

 19章に続き20章では、レビ人が、そばめの死に至る事件を報告した(4-7)。しかし、実際に起こったことと、その報告とは異なっていた。実際に暴行したのは「よこしまな者たち」であったが、報告では「ギブアの者たち」という表現で、指導者たちがそれに加わったかのように言い、自分を殺そうとしたと言う(5)。また、自分がそばめを外に出したことは報告せず、そばめがその場で死んだのか、充分な介抱をしなかったので死んだのかも、明らかにしていない。自分の責任が一切問われない報告となっている。
 他人事のようなレビ人の報告とは対照的に、イスラエルの民は、ベニヤミン族の恥ずべき行動に怒りと報復を宣言する(10)。彼らはこれは主の戦いであるという熱情に駆られてしまう。疑わしいことばによって神の民全体が動かされ、利用されていく姿にも、私たちは自戒しなければならない。
イスラエルの民によって、自らの姿が指摘されたベニヤミン族ではあったが、彼らは聞く耳を持っていなかった。それどころか彼らは、部族全体でギブアに結集し、戦いの準備をした(13-16)。ベニヤミン族は最初、勝利していくが、結果的には徹底的に敗北する(42~48)。この戦いはイスラエル全部族にとって悲しみと傷となるが、最後に明らかにされていることは、主がこの戦いに終わりをもたらしたことにあることを忘れてはならない(34~35)。ベニヤミン族に見る高慢さ、それをそのままにされなかった主のさばきを見させられる。私たちは一つの偽証に始まった事件に、神は最善のさばき、解決を示されるお方であることを忘れてはならない。