2013年1月16日 (水)

主題 <歪んだ訴え>

聖書箇所 士師記 19章     (2012年10月 9日)

今日のみことば「そこで、家の主人であるその人は彼らのところに出て行って言った。「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家に入って後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」(23)
19章からはイスラエル十二部族全体に関わる事件へとつながる出来事が記されています。
エフライムに住むレビ人は、ユダのベツレヘムから、一人の女性をそばめとしてめとった。しかし彼女は、夫を嫌って実家に帰ってしまう(2)。そばめの父は彼女を迎えに来た夫に、数日間、とどまるよう勧めた(1-8)。結果的に、遅く出発したレビ人たちは外泊しなければならなかった。ベニヤミン族でない寄留者の老人だけが場所を用意してくれた。そこに町のよこしまな者たちがやって来て男色を要求した(22)。神の民の性的な乱れが、明確に示されている。老人は、レビ人だけが守られればよいとばかりに、自分の娘と客人のそばめを提供しようとした。レビ人はそばめを外に出し、彼女は一晩中暴行を受けた(23-26)。様々な性的な乱れの背後で、女性の人格や人権が無視されていることを見逃してはならない。それは老人もレビ人も同様であった。レビ人は何事もなかったかのように一晩休み、朝起きてそばめを見つけると、何の感情も示さずその遺体を十二に切り分け、イスラエル中に送りつけ、会衆を集めるよう訴えた(29)。
この一連の出来事の発端となっていることは、レビ人が一人の女性をめとることに始まっているが、その夫婦関係に問題があったが解決を見ることなく、そこから性的暴行事件となるが、この時でさえ、レビ人の非情さは隠され、暴行事件の真意がイスラエル全部族に問われるだけになてっていることに大きな問題がある。
神の御前に何が正しい事なのかが問われている。

主題 <自分の満足のために行動していないか>

聖書箇所 士師記 18章     (2012年10月 8日)

今日のみことば「あなたがたが行くときは、安心しきっている民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。その場所には、地にあるもので足りないものは何もない。」」(10)
 ダン部族は自分たちが住む相続地を求めて、斥候を派遣し、エフライムの山地を行き巡らせた(2)。彼らはミカの家で祭司と出会い、その旅が成功するかどうかを尋ねた(5)。祭司は、主の名を用いて祝福を保証している。しかし、この戦いが本当に主からの命令ではなく、ダン族の占領地を得ようとする求めから始まっており、主からの命令ではないのに、主の名を安易に用いてしまっている問題がこの時にあったことを忘れてはならない。
 五人の斥候は、無防備に見えたライシュに目をつけた。他の町から孤立しており、あらゆるものが満たされている町であった(7)。ダン族はそこで平穏に住んでいた人々を皆殺しにし、占領しようとした(9)。ここには信仰による勝利でなく、占領し自分たちの富のみに動されていることに問題を見出すのである。
 ミカの祭司となったレビ人も、金銭と地位で動かされる者であった。彼は職場を求めて旅をし、お金でミカに雇われて使用人のようになり、そこへダン族が来てもっとよい条件を言うと、ミカを捨てて偶像と一緒に出て行ってしまった(20)。ミカは、ダン族に偶像と祭司を返してほしいと求めたが、彼らが強いことがわかり、あきらめた(26)。  
最終的にダン部族はライシュを攻め取り、名前をダンと変え、さらに自分たちのために彫像を立てた(30)。どこまでも自分たちの勢力を誇示し、自分たちの部族の繁栄のみに生きている。それが正しいとして生きていたダン部族は愚かであった。
私たちも神を忘れ自分の満足のために行動してしまっていないか注意したいと思います。

主題 <霊的な指導を必要としている>

聖書箇所 士師記 17章     (2012年10月 7日)

今日のみことば「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」 (6)

  17章からはイスラエルの民がいかに混乱していたかが記されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめい自分の目に正しいと見えることを行っていた」とあり(6)、ここには霊的な指導者を欠き、自己中心的な価値観が支配している状況が伺える。
ミカは母親の銀を盗んだ。良心が痛んだのかそれを告白した。母は、主の律法によって「盗み」の罪を、厳しく悔改めを迫るよりも、祝福の祈りをした(2)。ここにも、自己中心的な価値観が見られる。 悔い改めを迫ることのなかった故に、ミカが十戒の教えに反する、彫像、鋳像を造り、さらに、祭司服エポデと、偶像として拝まれてしまうことのあるテラフイムを作った。また勝手に祭司を任命できないはずなのに、息子を祭司にまでしてしまった(5)。また、ミカは、レビ人を自分の家の祭司にするという、過ちも犯した(10)。
今日でも、神を恐れるよりも、人を恐れる者となっていないだろうか。自分の目に正しいと思うことを行なっていればよいと考えていた。このように、まさに当時のイスラエルは、神から遣わされた霊的指導者がいない状態で、無秩序な、無法状態にあった。そして、ミカが「銀」に執着したように(2、10)、経済活動、財力に大きな関心を持って、さらには名誉欲、権力に目がくらまされていたことを思うとき、現代の私たちの社会もまさに同様ではないかと思う。
ミカの生い立ちを考えるとき、戒めるべきときに戒めなかった母の責任も大きい。罪を犯しても、その罪を叱らない母であり、息子を充分に訓練せず、罪を残したままにしてしまう母であった。
次世代につないで行く親が信仰によって、主のみ前に祈りつつ謙遜に歩もうとすることを忘れてはならないことを教えてくれている。

主題 <悔い改めて再び立ち上がる> 

聖書箇所 士師記 16章     (2012年10月 6日)

今日のみことば「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」」(28)

 「彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(20)ここにサムソンの悲劇がある。なぜこのような悲惨な結果になってしまったのだろうか。
 4~22節には、悪女デリラの誘惑について記されている。サムソンの悲劇の始まりは女性による誘惑と言う最も彼の弱点をつかれたことによっている。サムソンは、再び異邦人である、ペリシテ人の女性を好きになってしまう。しかも、彼女を愛してしまった(4)。しかし、デリラは彼を愛していなかった。彼女は、彼を裏切ることにより報賞金を得ようとする。サタンの働きは巧妙で、今日の私たちにも弱さをついてくるということに注意しなくてはならない。
 悲しいことに、サムソンは、彼女の陰謀を知り、自滅することになるのにもかかわらず、彼女に本当のことを打ち明けてしまう(17)。誰かを愛すると、人は盲目になりやすい。またサムソンには、自分の力が決してなくなることはない、というおごりがあったのであろう。ついにサムソンは捕えられ、牢の中で臼をひくまでになってしまった。
しかし、敗北に終わったかに見えた、ここに主の恵みを見る。それはサムソンの髪の毛が伸び始めるにつれて、彼の力が戻ってきた。そして、彼は最後に主に祈り、その力をイスラエルの救いのために用いたのだった(28-30)。
私たちも悔い改めの機会を生かし、再び主から力を得て歩むことができるように祈ろう。

主題 <弱さの中で主に叫ぶ>

 福音伝道教団 前橋キリスト教会・渋川キリスト教会
聖書箇所 士師記 15章     (2012年10月 5日)

今日のみことば「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」」(18)  
 15章では、サムソンは、以前の妻を返してもらうことを願ったが、叶わなかった(1~2)。そこで彼は、ペリシテ人の畑に火をつけてしまう(3~5)。その結果、ペリシテ人たちによって妻とその父親は焼かれてしまい、サムソンはその復讐をする(6~8)。この事件を知ったイスラエル人たちは、サムソンをペリシテ人の手に渡そうとする。ここに、イスラエルの民たちが、奴隷の状態に甘んじて戦おうとせず、しかも自分たちのさばきつかさである者さえ裏切ろうとするまでに愚かな姿を示している(9~13)。
しかし、神はこのサムソンを、放ってはおかなかった。主の霊が彼の上に激しく下り、彼はロバのあご骨で千人を撃ち殺してしまう(14~15)。さらには、三百匹ものジャッカルを捕らえ、その尾と尾をつなぎ合せた。また腕にかかっていた綱を簡単に引きちぎった。さらに驚くべきことに一人で千人を打ち殺した。このような力は、実は彼自身から出たものではなく、主の霊によるものであった(15)。
この戦いの後、サムソンは激しい渇きを覚え、主に叫び求めている(18)。主は彼の叫びに答え、水を与えられた。力を誇ることのできるような勝利の後に、水を求めて叫ぶという弱さが見られるという中に、いかに人間は弱いかを思わされる。しかし、そのような求めに神は速やかに応えられているところに主のあわれみでしかないことを痛感させられる。神の力は、人の弱さの中に完全に現れることを覚えたい(Ⅱコリント12:9)。

主題 <主の霊に力づけられて> 

聖書箇所 士師記 14章     (2012年10月 4日)

今日のみことば「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。」(19)

 

 14章ではサムソンの人となりを知ることができる。それは決して誇れることがあるというよりは、むしろ、多くの欠点を見る。彼は復讐心が強く、狂暴で、性的な面で弱点を持っていた。これらの弱点に負けて、後に転落することになるほどの愚かな姿を見させられる。
 そのようなサムソンであるがイスラエルがペリシテ人によって苦しめられる時に立ち向かっていく人として用いられている。神はサムソンと共におられ、主の御霊が彼の上に激しく下られたことによって力を得て勝利を治めたのである。
 以上のことから言えることは、神は、私たちがどんな弱さや欠点を持っていても、そういう私たちを選んで用いることがおできになるということである。神はただ、私たちが神の御霊に心を開いて、御霊に自由に働いていただく者となることを求められるということを覚えたい。
 また、同時に、神に大いに用いられ、また御霊に支配されている人々でも完全ではないということを覚えなくてはならない。私たちはサムソンのように不完全で、愚かで、失敗しやすい者である。
最後に、パウロも言っているように、私たちは倒れないように気をつけようという助言を心に留めて今日を歩ませて頂きたいと思う。(Iコリント10:12)。

主題 <主の霊は働き始められる>

聖書箇所 士師記 13章     (2012年10月 3日)

今日のみことば「そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」(25)

 13章から登場してくるのが、最後の士師のサムソンである。本章では、サムソンの誕生について記されている。
 サムソンの誕生する頃のイスラエルは、一見これまでと異なるものが伺える。これまでは、イスラエルが苦しみの中で主に叫び求めた時に、多くの場合、主は彼らに助け手を送ってくださってきた。しかしここには、主への叫びも、罪の悔改めも記されていない。これまで嘆きの声を主にあげていた姿や悔い改めていた姿が描写されてきたのに、ここに至っては何も記されていない。でも、最後の士師の誕生が先立って記されていることに、神の先行したあわれみが浮かび上がって来るように感じさせられる。
 また、サムソンの誕生については、その両親に予告されたということがこれまでと異なる点である。しかも「その子は胎内にいるときから神へのナジル人である」と告げられた。そして、その時から、ごく普通の平凡な夫婦であったマノアとその妻が、神の救いのみわざを担うものとされた。主の使いは、彼らにも、ナジル人の規定を守るように指示している(4、`14)。このように、本人たちがまだ充分に意識していないようなときから、主は彼らをご自身の救いのみわざのために用い始められたのである。
 神の救いの御業は神の憐れみのうちに先行して行われていくということ、何も分からないマノア夫妻を通して用いられていく中に始まっていったことを思うと、主イエスによる救いの御業もまさに神の何にも先行した愛によって始まっていることを思い起こさせてくれるのではないだろうか。主の愛、その救いの御業に感謝しよう。

主題 <逃亡者と侮辱され> 

聖書箇所 士師記 12章     (2012年10月 2日)

今日のみことば「そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、「ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ」と言ったからである。」(4)

12章には、エフタがギルアデ人を招集し、エフライム人と戦った記事がしるされている。この戦いの発端は、エフライム人の侮辱的なことば、「あなたがたは……エフライムの逃亡者」であった(4)。この戦いは結果的にエフタの罪深さを明らかにしてしまう結果となった(6)。そして、もう一つ注目すべきことは、主が彼に戦わせ、勝たせたとは記されていない。とまり、主による戦いではなく、エフタの個人的な感情から始まった戦いであったことを示している。
 この戦いから分かることは、イスラエルは、せっかくアモン人を撃退したのに(11:32)、戦利品をめぐる内部紛争によって、弱体化したということである。そして、エフタの問題としては、自分の肉的な思いを捨てきれなかったことが分かる。彼のこれまでの失敗をまとめてみよう。第一に、彼には、かつて仲間から追放されたことからくる卑屈な思いと、自己憐潤から生じる罪深い自己中心性があったことだろう。第二に、かしらになりたがる権力欲があった。第三に彼は、罪深い愚かな誓願をたてた。
 エフタは六年間さばいて後、イブツァン、エロン、アブドンなどがイスラエルをさばくがそれぞれ長くはなかった。この後再び、主の目の前に悪を行なったイスラエルは、四十年もの間、主によってペリシテ人の手に渡されることになる。
 エフタに見る不完全さと罪深さを覚え、私たちは悔い改めて、主の豊かな赦しとあわれみにゆだねて生きる者となりましょう。

主題 <主を試みることば>

聖書箇所 士師記 11章     (2012年10月 1日)

今日のみことば「エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」」(35)

 エフタは勇士であるとされながらも、遊女の子であったため。後に家を追われることとなってしまい、ごろつき共たちと付き合うような生活をしていたことを思うと、彼の人生はあまり幸せなものではなかったと言える。そのようなエフタであったが、ギルアデの首長たちとの交渉(6~11)やアモン人たちとの交渉(12~27)で用いられた。私たちは欠点と思えること、不幸な生い立ちを理由に自分の人生を悲観してしまうことがあるのではないだろうか。しかし、これほど多くの欠点を持っていたにもかかわらず、神はなおエフタを用いることがおできになったことを覚え、神はどのような者でもお用いになられることがることを覚えたい。
 もう一つエフタから忠告として学ばなくてはならないことがある。エフタはことば巧みに交渉するほどにことばに力があった。しかし、そのことばの力は誓願をたてるということで、神に信頼するのではなく、自分のことば、誓いのよって、つまりは神に対して取引の祈りのように誓願を立てることをしてしまい失敗してしまっている(30~31)。結果的に戦いに勝利したが、自分の娘を失うこととなった。でも、このエフタの娘も主の前に立てられた誓願の重みを受け止めていったことを思う時に、自分のことばではなく、どこまでも主に信頼していくことに徹底していくことが重要であることを思わされる。
 自らの軽率なことばを戒め、主を試すような祈りことばとなっていなか今一度注意したいと思います。

主題 <苦しい時だけの信仰>

聖書箇所 士師記 10章     (2012年 9月30日)

今日のみことば「彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」 (16)

 アビメレクによる混乱の後に立ち上がったのは、イッサカル人トラであった。イスラエルを「救うために」と表現されていることに、彼の働きの中心を見ることができるだろう(1)。彼は23年にわたってイスラエルを治めた(2)。続くギルアデ人ヤイルは、22年間治め、その記述には豊かさと権力が暗示されている(3、4)。しかしたとえ長い間イスラエルを治めても、彼らを取り扱う紙面は短い。
 ヤイルが死んだ後、イスラエルはまたもや主の御前に悪を重ねた。状況が好転し、物事が落ち着くと、人が主から離れてしまうという弱さは、昔も今もあまり変わらない。彼らは主を捨て、主に仕えず、様々な偶像に仕えた(6)。それゆえに、主はご自分の民をペリシテ人とアモン人の手に渡された(7)。彼らと同じ偶像を拝みながら、彼らに支配されるとは何という皮肉であろうか。人間的な友好は、主の御前に意味をなさない。
 18年間の苦しみの中で、彼らは主に叫んだ。その叫びは、「苦しいときの神頼み」という域を脱しないものにしかすぎなかった。主は彼らを突き放している(13、14)。しかし彼らはその後、主の御前にへりくだり、外国の神々を捨て去り、主に仕えた。そのように悔い改めた民の姿をご覧になられた神の御思いが16節に示されている。今も主は同様にこの地上をご覧になられ、悔い改めて主に仕えようとしている民の姿を見ていてくださっているのではないだろか。
 主の憐れみにを覚え、苦しいときだけでなく、いつの時にも主に仕えていく者となりましょう。