2012年9月20日 (木)

主題 <主の御教えを一生の間読んでいくこと>

聖書箇所 申命記 17章     (2012年 8月10日)

今日のみことば「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(19)  

 17~26章においては、神の民の社会生活についての教えが書かれている。
 1~7節は、神へのささげ物は完全なものでなければならないことと、偶像礼拝を根絶するための厳しい処置について語られている。
 8~13節においては、民事や刑事事件が起こった場合の処置の仕方について、教えられている。まず争いごとが起こると、その地域でさばきがなされた。しかし、そこで手に負えない場合には、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、さばきつかさのもとに行って、さばきを受けなければならなかった(8~11)。
 14~20節は、イスラエルの王についての規定である。元来、イスラエルは、神ご自身が統治される国家である。しかし将来、民が隣国に倣って王を立てたいと要求することを仮定し、その場合の注意が与えられている。王は神の選ぶ者でなければならなかった。また、同胞イスラエルの中から選ぶことが求められた(15)。さらに、王に対する三つの禁止条項が示されている。第一は、王は自分のために馬を多くふやしてはならなかった。第二は、多くの妻を持ってはならなかった。第三は、自分のために金銀を非常に多くふやしてはならなかった。イスラエルにあっては、王は神のしもべであることを覚えて、高ぶることなく、神を恐れ、律法を守り行うべきだったのである。
 主のみことばが生活の規範となるようにいつもみことばに聞く者となろう。

主題 <主の御業を覚えて祝う>

聖書箇所 申命記 16章     (2012年 8月 9日)

今日のみことば「アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。」(1)

 この章にはイスラエルの三大祭りの由来が示され、祭りに関する規定が書かれている。
 第一は、過越の祭りで、アビブの月に守られた(1~8)。これは、神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださったことを覚えているためであった。この祭りは七日間守られ、この間、パン種を入れたものを食べてはならなかった。それは、急いでエジプトを脱出したためであった。このパンは悩みのパンとも呼ばれ、エジプトでの苦難を忘れないためのものであった。過越の食事は、主が選ばれた場所において調理して食べることが定められている。
 第二は、七週の祭りで、大麦の初穂の束をささげる日から数えて五十日目の、一日だけの祭りであった(9~12)。これはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を、神が解放してくださったことを記念するためであった。また穀物の収穫感謝の意味も込められていた。
 第三は、仮庵の祭りで、打ち場と酒ぶねから取り入れが済んだとき、七日間守られた(13~15)。この祭りは、刈り入れが終わったその年の終わりにもたれ、収穫の喜びの時であるとともに、イスラエルの民がエジプトを脱出後、荒野をさまよったこと、仮小屋を住まいとしたことを記念している(レビ23:43)。
 18~22節には、さばきつかさの任命と、さばきの規準について書かれている。21~22節には、主の祭壇のそばに、アシェラ像や石の柱を立ててはならないと、厳しく戒められている。
 主のなされた御業を覚えて祝われた祭りであったが、私たちは毎週の礼拝ごとに主をあがめていきたいと思います。

主題 <あわれみの心を閉ざしてはならない>

聖書箇所 申命記 15章     (2012年 8月 8日)

今日のみことば「進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。 」(8)

 1~11節では、七年の終わりごとの負債の免除において、あわれみを示すよう求められている。
 貧しい者に対して「心を閉じてはならない」、「手を閉じてはならない」とある(7)。私たちは、助けを必要とする人に心を閉ざしたり、物惜しみしたりしてはならない。今日、私たちはあわれみの心を閉ざしてはならない。主イエスは貧しい者にもいつも手を差し伸べられていた姿に学ばなくてはならない。
 12~18節では、奴隷解放においてあわれみを示すべきことが命じられている。
 貧しさのために奴隷となった者は、七年目には自由の身となることができた。奴隷の人権など認められていなかった時代において、この箇所における教えは、まさに神のご性格としてのあわれみを、充分に思い起こさせる。イスラエルは、かつてエジプトにおいて奴隷生活を強いられたことを決して忘れてはならなかった(15)。
 19~23節には、初子についての教えがある。
 いのちの創造者であられる神に対し、神の民は、牛や羊の雄の初子を聖別して、ささげなければならなかった。その後、そのささげ物は、主が選ぶ場所で家族と共に、主の前で食された(20)。ただし、神に対して欠陥のある初子をささげてはならないと規定されている(21)。
 今日、進んで「あなたの手を開いて」((8)、あわれみの心をもって歩む一日としましょう。

主題 <主の子どもらしく> 

聖書箇所 申命記 14章     (2012年 8月 7日)

今日のみことば「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。」(1)

 こイスラエルは、主の子どもであると言われている(1前半)。主の聖なる民であり、神の宝の民とされている(2)。それゆえに、主の子どもにふさわしい生き方が求められている。
 具体的には、喪に服する場合、異邦の民のように、死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりしてはならなかった(1後半)。
 3~20節では、主によって、神の民が主の忌みきらわれるものによって汚れを受けることのないように、きよい食物と汚れた食物の詳しいリストが与えられている。リストの根拠は正確には分からないものがあるが、神の民は、神の定めに従順であることが求められた。
 22~29節においては、十分の一の規定が書かれている。民は、畑から得るすべての収穫の十分の一を、神にささげることが求められた。この規定を通して覚えるべきことは、収穫をはじめとするありとあらゆる良きものは、神が恵みとして私たちに与えてくださったものである。その感謝のしるしとして、十分の一を神におささげするのである。それゆえに、残りの十分の九も、また神のものであることを忘れてはならない。それをどのように用いるかということにおいて、私たちの信仰が試されるのである。また神の民は、自分のことだけではなく、助けを必要としている人々を常に配慮することが教えられている(28、29)。
 主の子どもとして、主に仕え、主にささげた歩みが出来るように祈ろう。

主題 <異教への誘惑についての警告>

聖書箇所 申命記 13章     (2012年 8月 6日)

今日のみことば「その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。 」(5)
 この章には、イスラエルの民が、偶像礼拝という悪に人々を誘い込もうとするあらゆるもに警告されている。
 初めに挙げられるのは、預言者または夢見る者である。イスラエルの民は、彼らのなすしるしや不思議に、心を奪われてはならなかった。彼らは偶像礼拝に引き込もうとするが、そのような者は殺されなければならなかった(5)。
 次に、家族や無二の親友が偶像礼拝に誘いかける場合にも(6)、決して同意したり、耳を貸したりしてはならなかった(8)。彼らにあわれみをかけることなく必ず殺すようにと命じられている。その処刑方法は石打ちと定められた (9、10)。
 私たちは、この命令を聞くと、厳しすぎると考えるかもしれない。しかし、偶像礼拝は、エジプトから贖い出してくださった神への、明らかな反逆であり、それを行うならば、民は、主の命じられた道から迷い出ることを意味していたからである (5、10)。
 11節によれば、このような厳しい処置には、民に対する教育的な意図があったことがわかる。
 12節以下においては、よこしまな者たちによって町全体が偶像礼拝に陥った場合、調査のうえ、それが事実なら、町の住民も家畜も、剣の刃で聖絶するよう命じられている。
 さまざまな異教への誘惑に対して厳格に対処することが命じられていたことを考える時、私たちの今日の生活の中でこのような姿勢でいるという事が少ないかもしれない。小さなことでも主への従順が問われていることを覚え、誘惑に対処しよう。

主題 <礼拝の確立のために>

聖書箇所 申命記 12章     (2012年 8月 5日)

今日のみことば「あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。」 (12)
 神の民が、約束の地において生活するうえで、最も基本的なことは礼拝生活である。12章には、礼拝生活に関してのおきてと定めが、書かれている。
 2節では、異邦の民が偶像を礼拝した場所は、どこであれ、ことごとく破壊せよと命じられている。3節では、偶像そのものの破壊が命じられる。4節では、まことの神に対し、異邦の民が行う偶像礼拝の仕方をまねることのないようにと、戒められている。
 7節に注目しよう。主にささげられたいけにえの中で、和解のいけにえの一部分は、ささげた者が神の御前で家族と共に食することができた。その交わりには奴隷も加えられた(12)。主が祝福してくださったすべての手のわざを、全家族で喜び楽しむ。これこそ正しい礼拝の基本である。
 20~28節と29節以下との、二つに区分することができる。前半には、いけにえと食用肉のための規定が、後半には、再度、異邦の民に倣って偶像礼拝をしないようにという警告が、書かれている。
 第一に、肉を食する場合、血はいのちであるゆえに、絶対に食べてはならなかった。これは、すべてのいのちは神がお与えになったということを、心に刻むためと考えられる(23~25)。
 第二に、異邦の民のならわしをまねて、偶像礼拝をしないようにと、神は強く警告を与えておられる。もし彼らのならわしをまねるなら、わなにかけられることだと、モーセは言っている(30、31)。
 私たちは、この警告を、決して人ごととして済ますことのないように、心しよう。そして、偶像礼拝というものが、いかに根強いものであるかを覚えたいものである。

主題 <祝福とのろい> 

聖書箇所 申命記 11章     (2012年 8月 4日)

今日のみことば「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。」(13-14)
 「もし……なら」という形式で、モーセは、主から与えられる祝福の条件を示している(13、22)。その条件とは、主のみことばによく聞き従い、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして主に仕えることである(13)。また、主のすべての命令を忠実に守り行い、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがることである(22)。
 この条件を満たすために何をすべきかを、モーセは、18~20節で明らかにしている。それは、常に、主のことばを心に刻みつけ、子どもたちにもみことばを教えることである。そうすれば、神は穀物の実りと収穫のために、「先の雨」(秋の雨で、この時期に大麦・小麦の種蒔きをする)と、「後の雨」(春の雨で、穀物の豊かな実りをもたらす)を与えてくださる。
 主の祝福は、イスラエルに広大な土地を約束するものであった。荒野からレバノンまで、ユーフラテス川から西の海(地中海)まで、「足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」と約束されている(24)。
 22~32節においては、イスラエルの民が、祝福かのろいかのどちらか一方を選択するようにと、主によって迫られていることがわかる。
 モアブの平原から、ヨルダン渓谷を越えて西に、ゲリジム山とエバル山とが対峙して見える。ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいが置かれ、民はそのどちらかを選択しなければならなかった。
 主の命令に聞き従うならば、祝福が約束されており、その反対なら、のろいが与えられるという。私たちは、主に従うことを第一にし、主の祝福を頂こう。

主題 <主が求めておられることは何か>

聖書箇所 申命記 10章     (2012年 8月 3日)

今日のみことば「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(12~13)  
 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」という問いかけは(12)、出エジプトの時のイスラエルに対してのみならず、現代の私たちにとっても、きわめて重要である。主が民に求めておられることは何であろうか。
 第一に、主を恐れること。この場合の「恐れ」とは、神を神として崇めることである。
 第二に、主のすべての道に歩むこと。これは、私たちの日々の生活に関することで、神の命令を実行し、神を喜ばせる生き方をすること。
 第三に、主を愛すること。まことの愛は私たちのうちにはないので、神から与えていただかなければ持つことのできないものである。イエス・キリストの十字架の愛を思い起こす時、主に応える愛が、私たちの心に呼び起こされるのである。
 第四に、主に仕えること。ただ仕えるのではなく、心を尽くし、精神を尽くして仕えることが求められている。それは、私たちの持っているすべてのものを、神のみわざのために、惜しみなくささげることを意味している。
 第五に、主の命令と主のおきてを守ること。これは、申命記に何度も出てくる教えである。神はモーセを通し、ご自身の命令とおきてを明らかにしておられる。十戒は、それを最も簡潔に表現したものである。今日、神は聖書を通して語りかけ、神の命令とおきてが何であるかを示しておられる。だからクリスチャンは、聖書を毎日規則正しく読む必要がある。

主題 <モーセのとりなしの祈り> 

聖書箇所 申命記 9章      (2012年 8月 2日)

今日のみことば「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。」(25)

 モーセは、罪を犯した民を見捨てることなく、またもや四十日四十夜、断食して神の御前に祈った(18)。とりなしとは、神の御前に、だれかに代わって願うことである。モーセは神の民全体のためばかりではなく、兄アロンのためにもとりなしをした(20)。モーセは、罪を引き起こした鋳物の子牛を火で焼き、打ち砕き、粉々にして川に投げ捨てた(21)。
 荒野の四十年を振り返る時、民はタブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた(22)。民の罪は、一度や二度ではなかったのである。「あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた」と言われるほどに、彼らは日常的に罪を犯してきたのである(24)。
 26~29節に、モーセのとりなしの祈りが記されている。モーセは何を根拠として、神に訴えたのだろうか。まず彼は、イスラエルが「あなたの所有の民」、すなわち神と契約を結んだ民であることを、またそれゆえに、神の偉大な御力によって蹟い出された者であることを強調している(26)。また、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約に訴え(27)、周りの諸国家への証しとなるようにと、神に訴えている(28)。
 結局は、罪を犯した民自身は、契約の当事者ではあるが、神の御前に訴えるべき何の根拠も持たなかったのであり、ただ、神のあわれみにすがるほかはなかったのである。私たちも、自分に当然、神の御前にとりなす資格があるなどと思ってはならない。でも、私たちもモーセのような謙遜なとりなし手となれるように祈ろう。

主題 <主を忘れてはならない>

聖書箇所 申命記 8章      (2012年 8月 1日)

今日のみことば「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。」(11)

 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けられた後、荒野でサタンの試みを受けられた。サタンとの対決の時に、主は申命記6章と8章のことばを思い起され、そのことばを用いてサタンの誘惑を退けられた(マタイ4:1~11)。「人はパンだけで生きるのではない」(3)。「あなたがたの神である主を試みてはならない」(6:16)。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(6:13)と書いてあると言われたのである。申命記のこれらの句は、私たちを、神との交わりの堅固な基礎に導く。
 きょうの箇所でも、「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」(2)というみことばから始まって、イスラエルの民に対する神の過去のご真実についての話が語られている。今までに、平穏な時だけでなく、困難な時にも神があなたの生活の中で示されたいくつかの重要な祝福を思い出してみよう。
 モーセは、約束の地に入ろうとする民に彼のメッセージは、「どなたが、なぜ、あなたがたをここに連れて来られたかを決して忘れてはならない」であった。私たちは特に、物事がうまくいっている時に、主を自分の生活から締め出しやすい。そして、私たちは高ぶる(14)ことがある。そして、主に従う者にとって、高ぶりは死の口づけである(19、20)ということを覚えなくてはならない。
 主のみことばに聞き、従順に歩む者とならせて頂きたい。