2012年5月10日 (木)

主題 <非常に尊敬され>

聖書箇所 出エジプト記 11章  (2012年 4月22日)

今日のみことば「主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」 (3)

 

モーセによってなされた数々のさばきの奇跡がなされていくことによって、とても不思議なことがエジプトで起こってきていた。それはモーセが非常に尊敬を受け、イスラエルの民は好意を持たれるようになっていたことがわかります。
神のなさることは完全で徹底している。奴隷として苦しんだ民を救出されるのは、一人残らずに(1)脱出できるのです。
しかも、脱出する民に対して金銀を与えられるような待遇となるのです。夜逃げ同然のみじめな脱出ではなく、王者のような出陣を思わせる。
この救出にあたり、エジプトの長子を打たれたのです。あちこちで悲しみと嘆きがわき起こります。
神はパロの心をかたくなにされて、いっそう神のみわざが明瞭にされて行きます。私たちの周囲に起こるさまざまな問題が、いつまでも解決されないように思えるとき、失望してはいけない。祈り続けることが重要であることを主が教えている(ルカの福音書18;1-8)。
神のなさることは時機にかなって最善な時です(伝道者の書3章)。時に神が家族や周囲の人々の心をかたくなにされたような状況に置かれるかも知れない。しかし、忍耐と信仰と希望こそ、私たちの握っているべき力である。

主題<わたしが主であることを、あなたがたが知るため>

聖書箇所 出エジプト記 10章  (2012年 4月21日)

今日のみことば「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」(2)

 主をしんじて救われ、信仰が一人個人の生活に結びつくことはとても重要なことです。救われて、礼拝を厳守し、主の日を忠実に歩むことがどれほど大きな意味を持つかは自分の子どもや家族、周囲の人々への証となります。その救いを代々語り継いでゆくのです。子どもたちがなぜ、お父さんが、お母さんがそれほど神を愛し、隣人に仕える生き方をされているのか、ぜひ知りたいと願うようになってほしい。
 神は、イスラエルを苦難から救われて、乳と蜜の流れる地、約束の地へと導かれるのに、エジプトを用いられ、奴隷からの解放の道を用意されたのだろう。その神の恵みを語り継ぐための配剤であった。
 イスラエルの中に神の計画が進められることには、神の干渉が豊かに現わされたのです。神は、十の数々の奇跡によって神の民とエジプトを区別し、特別に取り扱われていることを明らかにされた。
エジプトのパロ王は、神に従わないことによって自分で自分の「心をかたくなにした。」のであり、裁きを身に招きます。神が罪を示されて「私は罪を犯した」(16-17節)と告白したにもかかわらず、神に従わずに、滅びを刈り入れたのです。
 こうして神が生きておられ、ご自分の民を特別に取り扱われていることを知らされたのです。それは、今の私たちに対する神の取り扱いでもある。どれほど大きな罪と失敗を重ねても主の十字架による完全な愛を明らかにしているからです。

主題 <今度はわたしは罪を犯した>

聖書箇所 出エジプト記 9章   (2012年 4月20日)

今日のみことば「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私に民は悪者だ。」」(27)  

 第5~7番目の裁きがなされる。疫病(1~7)腫物(8~12)雹(13~35)である。かたくなに心を閉ざしているパロにとって、次つぎと行われる神のさばきに戸惑いと逃げの姿勢ばかりである。
 27節に「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪い者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹はもうたくさんだ。」と告白する。
 罪に対する深い悔い改めを経験しない時、ただうわべだけのとりつくろいに終わってしまう。神のメッセージへの真剣な応答をもって受け止めないとき、その信仰は偽善となる。柔らかな心で神を崇めよう。
 そうでないと、一つの問題がなくなったとき、再び強情に帰ってしまうのである。(34節)
 信仰に徹するとは、自分の罪に対して本当の悔い改めをすることである。聖書の中に、「私は罪を犯した」と告白したが、救われた人は二人だけだったのです。ほかの7人は、このパロ同様に、神の愛の働きかけも届かなかったのです。なぜそうなるか、一緒に考えて見たい。
 自分の本質を見極めて、変えることをしないとき、パロのようなかたくなさによって滅びる危険がある。
<祈り>主よ。あなたの前に、本当の自分をあらわし、このような者を限りなく愛してくださる救いを受け入れさせてください。ア-メン。

主題 <これは神の指です>

聖書箇所 出エジプト記 8章   (2012年 4月19日)

今日のみことば「そこで、呪法師たちはパロに「これは神の指です。」と言った。」(19)

 十の災禍が奇跡によってエジプトに下る。8節は2~4番目の災禍が加えられた記録である。かえる、ぶよ、あぶという生き物による。
 これらの奇跡はエジプトの偶像の神を裁くことを意味している。ナイル川を血に変えたのも、ナイル川をエジプト人は神聖視していたからである。
 かえるはハピというナイルの神と関係があり、出産を助ける多産の女神と関係がある。祝福をもたらすはずのかえるが、かえって災いをもたらすことになることを見せられ、パロは神に従うべきであった。
 ぶよの奇跡では、呪法師さえ『これは神の指です』と告白し、自然現象でないことを語っている。それはこれまでの奇跡に対抗してきた呪法師の力は及ばなかったのである。
 あぶはエジプトに広がったのにもかかわらずイスラエルの民の所へは来なかった。神の民が区別されることによって、神の業を明かに示された。今日こうした奇跡でないけれども、『これは神の指です』という声を異邦人から漏れ聞こえる奇跡のある生涯を歩みたい。奇跡の生涯を。
<祈り>主よ。わたしの今日一日のあゆみが神様の素晴らしさをあらわす一日としてください。そしてまことの神様が多くの人たちにわかり信ずることができますように。わたしに力を下さい。アーメン。

主題 <わたしはパロの心をかたくなにし>

聖書箇所 出エジプト記 7章   (2012年 4月18日)

今日のみことば「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。」(3)

 神様のなさることは人の賢さと違う。人間的見れば全く反対のことをなさる。進むべき道に立ち塞がることさえしているようにさえ思える。
 パロ王の心をほかならぬ神様がかたくなにすると語る。(3節)。しかもそれでパロの心はかたくなになり、強情で民を行かせない(13~14節)ようにさせてしまっている。それが主のいわれる道であると(22節)念をおしておられるのである。
 神様がパロの心をかたくなにしたのは、パロへの神様の裁きなのです。柔らかな心をもって主の声と取扱いを受けたなら、どんなに祝福されたことでしょうか。神の声を聞きつつ拒否していくのは、実は自分自身の罪である。この罪がいっそう心をかたくなにさせ、滅びの道にゆかせてしまう。
 かたくなさは、自分で道を踏み固めるように、自分で心をとざして行く行為なのです。
 こうしたかたくなな主に向かう神の僕は早や80才、83才なのです。一切の働きの背後に生ける神様がおられる事を覚えよう。周囲のかたくなな人々驚くことなく、その中にさえ行き届いた神のみこころがあることを、覚え今日一日も上を見上げつつ歩もう。
<祈り>主よかたくなな人はいっそうかたくなになり、心の柔らかな人は一 層、主のかたちが造られます。どうぞ柔らかな心をください。アーメン。

主題 <今に、あなたにわかる> 

聖書箇所 出エジプト記 6章   (2012年 4月17日)

今日のみことば「それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」(1)

 あなたは神様の熱心ということをどれ程思ったことがあるだろうか。
 1~8節を読んで見て、その激しい熱心に圧倒されてしまう。エジプト王国に対抗するにはあまりにモ-セは貧弱です。口下手ですと何度口から出ていることだろう。そうした彼に対する神様の働きかけは凄まじい。
 『わたしは……』と何度語っていよう。どんな内容について神様の恵み豊かな姿を語るのだろうか。わたしがあなた方の神、主であると何度も語る。変らぬ契約を立てた地に連れていくという。
 わたしは<救う、あがなう、連れ出す>、と繰り返されている。
わたしはこれほどまでの神様の熱愛を思い浮かべただけでただ感動してしまう。天も天の天も創造された神様が、一人モ-セに対してこれほどの言葉で、過去の契約を、現在の力を、将来のビジョンを熱っぽく語られて、動かぬ人はあるまい。
 『今にあなたにわかる』とは現状ばかり見る弱い私たちへの行き届いた神様の今日のメッセ-ジである。
<祈り>主よあなたはこんな貧弱なわたしに限りない恵みをもって導いてくださることを知り深く感謝致します。ア-メン

主題 <主とはいったい何者か> 

聖書箇所 出エジプト記 5章   (2012年 4月16日)

今日のみことば「パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」」(2)

 いよいよ神の人モ-セが、出エジプトの使命に立ち上がったのである。
 それは決して平坦な道ではない。神のご使命であるがゆえにスム-スにいくのだと思ってはいけない。時にきわめて困難の山が立ちふさがる場合が多いと自覚した方がよい。神は困難の中できわめて貴重な訓練を与えるのです。成長したクリスチャンは必ず荒野を通り抜けています。
 『主とはいったい何者か。』とはパロの言葉です。パロはかたくなにイスラエルを妨害し尽くすのです。エジプトとパロはこの世の姿を啓示するかのようです。主に仕えようとするほどに、激しい攻撃をしてくる。
 『怠け者だ』とも訴えて来る。神を愛し神に従う生き方を人々はどう評価してくることだろうか。あなたは信仰のない家族や友に、どんな言葉をかけられたことがあろうか。
 そんな時に、『これは悪いことになった』(19)としっぽを巻いてしまうだろうか。それとも『主のもとに戻り』祈るだろうか。(22)。神に従う者に与えられる力を信じよう。このパロは海の中に滅びた人々なのです。
<祈り>主よあなたを愛しあなたの思いをわが思いと致します。多くの困難や戦いを喜べるようにしてください。ア-メン

主題 <モーセは手に神の杖を持っていた>

聖書箇所 出エジプト記4章18~31節(2012年 4月15日)

今日のみことば「そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。」 (20)

 ついにモーセは神の召命に従い、妻の両親に別れを告げます。「モーセはエジプトの地に帰った。」(20)といわれています。40年前に、自分の力で苦役にある同胞を救おうとして立ち上がったあの人間的な勇気ではありません。
 今モーセの手にあるのは「神の杖」1本です。長い間、牧羊者として使い慣れた杖です。歩くために、羊を養育するのに、狼から防ぐために使ってきた杖です。何のことはない平凡な杖です。しかし、今この杖が「神の杖」と呼ばれています。
 神が「あなたの手にあるそれは何か」と言われ、それを投げたときに蛇になり、再び手に取ると杖に戻ったのです(4:1~4)。 自分のものが投げ出された。自分の手をはなれて、神様の手に渡ってしまったのです。もうこの杖はモーセのものではなく、神のもの、「神の杖」です。 
 やがてこの杖は、パロの前や全エジプトの人々の前で行われる奇跡の道具になるのです。紅海を2つに分け、岩から水を出させる杖です。
 ごく平凡な主婦も、サラリーマンも、年を重ねた人もまた、神様に明け渡してゆくとき、神に用いられる杖になるのです。杖そのものは特に意味がありません。あなたの手にあるもの、それを神にささげるのです。神はあなたを用いて、栄光を現して下さるのです。
<祈り>主よ。今私の手にあるものすべてをあなたにささげます。

主題<ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください> 

聖書箇所出エジプト記4章1~17節(2012年 4月14日)

今日のみことば「すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」」(13)

偉大な仕事を成し遂げるモーセの、意外な面を見せられる思いです。大きな仕事をする人の中には、とても尊大で、人を人とも思わないような人物がいます。しかしモーセは違います。謙遜の限りです(民数記12:3)。
 人々は私を信じないでしょう。受け入れてくれないでしょう、とだだをこねるような歯がゆいやりとりを見ます。男らしくない、神様の大いなる芝の火の中に御声を聞いただけで十分ではないか、神様が一緒に行って下さる、と約束していて下さるのではないか。   1節にある「ですが、彼等は私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう。」とあるように、モーセの声には耳を開かないでしょう。でも杖が蛇に変わる奇跡によって神を信ずるべきです。手がらい病にかかったしるしを見て、「彼等は信じるであろう」という神の言葉を受け取るべきだったと思います。モーセはさらに私は口べたです、言葉の人ではありませんと断るのです。「ああ主よ。どうか他の人を遣わして下さい」と召命にしり込みするのです。
 神様が選んだモーセは間違いだったのでしょうか。いいえ、神様の目には狂いはありません。これほどまでに自分の無力さ、いたらなさを深く悟った人こそ神は用いることを学ぶべきです。今もこうしたへりくだった人を神は捜し求めています。
<祈り>主よ。すぐに自分の能力をほこりがちな私たちを戒めて下さい。

主題 <私は「私はある」という者である>

聖書箇所 出エジプト記3章13~22節(2012年 4月13日)

今日のみことば「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」」(14)  
 モーセは神様とはどのようなお方であるかを尋ねます。神様とはどのようなお方であるのか、それを人々がどう正しく受けとめられるのか、それがモーセの課題です。
現代もまた、神とはどのようなお方であるかを知ることこそ最重要な仕事です。
 神はこのモーセの願いを通して、大切なご自分の自己啓示をしておられます。わたしは「ある」という者であるといいます。
 神とは「ある」という方であることをどう理解したらいいのでしょう。「ある」とは英語で<I am>です。神はいつも、どのような状況の下にもあると言われます。今まで漠然としていた神が急に現実味を帯びてきます。「私たちは神の中にあって生き、動き、存在しているのです」(使徒17:28)。「たといあけぼのの翼をかって海の果てに住んでも、そこでも御手が私を捕えます」(詩篇139:8~10)。
 神はあなたにとって常に「ある」方です。すべてを神は、み手の中に持っておられます。愛も平和も力も慰めも、糧も、人間もみ手にあります。神はあなたに対してご自分を啓示し、そのことを深く受けとめることを期待しておられます。 もう1つの名は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」です。「永遠に私の名、これが代々にわたって私の呼び名。」(15)と宣言されました。哲学者パスカルは、生きた神であって、死んだ者の神でなく、哲学者の神でもない、今も生きている神と書き、着ていた服に縫い付けていたそうです。思索によって形つくられた神々でなく、今も生き生きと働いて導いて、関わって下さる神です。