2012年5月10日 (木)

主題 <わたしはあなたの神、主である>

聖書箇所 出エジプト記 20章  (2012年 5月 2日)

今日のみことばわたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。()

 

 宝の民としての生き方がここにあります。この生き方こそ十戒として知られている。前半は神に対する在り方、後半は、隣人との在り方が明瞭に示されています。

 2節が、この戒めの中核をなしております。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という事実の上に立って、神の教えがあり、教えに生きる道が開かれるのです。神の律法に喜んで従えるのです。この救いの愛を見失っては、霊的な生活も、道徳や倫理も成り立たないのです。信仰者もまた絶えずこの事実を忘れてはならない。そうしないと、信仰の喜びをたちまち失ったり、他の人をさばく危険に陥ってしまう。

 十戒は、ただひとりの神があなたに語っている契約である。毎日、心に刻んで生活したい。神さまが私の生活に目を注いでいてくださるのですから。世界中の人々から、特別に選び出してクリスチャンにしてくださったのですから。

 大きな愛に対して、愛をもって応答したい。打てば響く太鼓のように、神の愛への愛の生活をわたしの目標とさせていただこう。

<祈り>神様、今日も神様が最善な道を用意しておられることを信じ、感謝をもって誠実な一日を歩ませてください。アーメン。

<祈りの課題>

 

主題 <祭司の王国、聖なる国民>

聖書箇所 出エジプト記19章   (2012年 5月 1日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」(4)

 出エジプトをして、すでに2か月がすぎる。シナイの荒野でモーセは神から民へ語るべきみことばを与えられる。4~6節は聖書の中で最重要な聖句の一つである。エジプトの苦難からの救いは、最高の奉仕に召されていたのです。
 「あなたがたは、エジプトにしたこと、わしの翼に載せ、わたしのもとに連れてきたことを見た。」4節、このすばらしい救いに対する意味を考えてみよう。自分の安楽のためでなく、優れた目的のために召されている。
 神さまの声に聞き従う、契約を守ることによって神さまの宝とさえなる。神様にとって、あなたが何にもまさった楽しみとなっているということばにどのくらい感動を覚えるだろうか。それが、信仰をためすリトマス試験紙となるだろう。神が暗黒の罪と不安と恐れの生涯から救い出されたのは、わずかばかりの喜びのためではない。
 祭司の王国、聖なる国民とは、神のための奉仕のためなのです。どこの国のためでしょうか。イスラエルのためではなく、世界の救いのためです。全世界の中に、神をあかしし、神の恵みを立証するつとめに召されたのだ。暗黒の中において無力を知り、神の力によって救われた事実と、神の恵みを語り続けることにおいて祭司の国となるという。
<祈り>主よ。このような貧しく、弱い者を選ばれたのは、あなたの素晴らしさをあかしする祭司となるためと感謝します。アーメン
<きょうの課題>

主題 <民の中から力ある人を選ぶ> 

聖書箇所 出エジプト記 18章  (2012年 4月30日)

今日のみことば「イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。」(10)

 前半は、妻の父イテロの訪問が記されている。義父はどんなにかモーセの優れた業績を耳にして喜んだことであろう。イテロの言葉の10節を見ると、「今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。」とあかしし、力ある主の御名を賛美したことだろうか。
 後半は、モーセの指導に関する義父のすすめである。忙しく立ち働き、そのために人々の不満を見た義父のイテロは、責任ある人々を立てるようにアドバイスしたのです。
 34節を見るときに、「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われる通りにした」という。人々の問題は、だれよりも自分がわきまえていると誇り、また責任ある自分がけなされたような惨めな感情になってしまう人がいる。偉大な指導者はここが違うのである。彼は、民の中から力ある人を選んだのです。それぞれの人数と責任を明示します。
 今も、あなたが教会生活を重んじる中で、どんな奉仕と恵みのわざがあるかを考えたい。いや、その指揮の任にあたる牧師のために祈ろう。全会衆がみことばと奉仕に喜びをもって、責任ある奉仕者になることを始めよう。
<祈り>主よ、小さなことでも、神様と人々、ことにキリスト教会のつとめに私もなすべきことを教えてください。ア-メン 
<きょうの課題>

主題 <代々にわたりアマレクと戦う>

聖書箇所 出エジプト記 17章  (2012年 4月29日)

今日のみことば「「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。」 (16)

 民は旅を重ねてレフィデムに来たとある。そこに水がなかった。どんなに喉がかわき、あそこまで行けば水があると期待して励んできたのに、そこでは水のない失望に陥った。期待が大きい時にそれに反する失望を黙想したい。 民は主を試みて、水のしるしを求めたのです。そこで人々はモーセの生命さえ奪おうとする。それほどの激しい失望であった。だがここでも主は岩から水を湧き出したのです。たえず奇跡をもって導いている。
 ところが、このように水がなく、失望している最中にもっと恐ろしい困難がやってきたのです。アマレクからの攻撃です。
 『泣きっ面に蜂』という言葉があるが、弱りきっていたとき、内側では人々と指導者モーセとの間の確執があるとき、そういう最もみじめな時に、アマレクが攻撃をしかけます。忘れることのできない苦難でした。
 モーセが山上で手を挙げて祈り続けます。もはや祈りしかないのです。いや、祈りという最良の道が授けられていた。モーセでも腕は疲れる。祈りの手がたれることもある。アロンとフル。主はこうしたアマレクの無情な敵対行為を覚え続けている。やがて、納得のいく救いがくることを信頼しよう。<祈り>主よ。今私のうちにある敵意を清めてください。ただあなただけが、私の問題を除き去り、祝福に変えられるのですから。アーメン。
<きょうの課題>

主題<シンの荒野に入った> 

聖書箇所 出エジプト記 16章  (2012年 4月28日)

今日のみことば「ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。」(1)
 出エジプトの旅路は、ついにシナイ半島の中頃にさしかかったのです。別地図のあとをたどってみよう。
 エリムは荒野にあるオアシスである。砂漠のただ中にある緑の感動を想像して見たい。しかし、いつまでもエリムにとどまっていられない。
 こうして遂に、シンの荒野にはいった、と言う。荒野は文字通りの何もない地域である。砂漠のど真ん中に入っていったのです。小さな道のあとをたどって幾万の民が旅をする。荒野は何もない。緑も家も、変化もない。食料もないし、安息する場所もない。「シンの荒野にはいった」と何気なく記されているけれども、そこには人々の必死の思いを読み取ることができる。
 シンの荒野は、パンがないのです。水がないのです。こここそ、神さまの恵みを経験させていただくべく神の用意した場所でした。しかし、イスラエルの民はここでつぶやき、失敗してしまう。そこの場所に立って見て始めてその気持ち、失望とやりきれなさを想像できた。
 ですが、イスラエルの民にとってこの荒野は最高の場所であるはずです。ここは約束の地、乳と蜜の流れる地へのどうしても通過しなければならないポイントでした。それは約束の地への通過点であることです。
<祈り>主よ。あなたを荒野で信頼して知るのは難しいのですが、昔の人々の歩みの中から、私を訓練して成長させてください。アーメン
<きょうの課題>

主題 <主に向かって私は歌う>

聖書箇所 出エジプト記 15章  (2012年 4月27日)

今日のみことば「そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。」(1)  

 モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。」と書き出す。 これほどの大きな救いのみわざを体験したのですから、賛美することはむずかしいことではない。1~18節には、実に具体的に救いのみわざを告白している。紅海を分ける出来ごとは、イスラエルにとっては救いのしるしであり、敵であるエジプトにとっては滅びのしるしなのです。
 これらの素晴らしいみわざは、決してイスラエルの力でもなければ、モーセの功績でもない。ただ静かに神のみわざを見つめることによってだけです。 賛美の最後に、「主はとこしえまでも統べ治められる」と締め括っている。とこしえまでも神さまの支配は変わらない。永遠までということは、きょうもという意味なのです。きょうの一日も、紅海を分けた出来ごとも同じなのです。全能の神さまは、この私に関わってくださる。
 賛美は高々と立ち上がるけれども、間欠泉のようにしばらくは消えてしまう泉であってはならない。
 主に向かって私は歌う。この心の態度をいつもしっかり覚えたい。
<祈り>主よ。あなたの前に、救いの喜びを賛美し、あなたの栄光を絶えずほめたたえるものにしてください。ア-メン。
<祈りの課題>  

主題 <主の救いを見なさい> 

聖書箇所 出エジプト記 14章  (2012年 4月26日)

今日のみことば「それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。」(13)
  ついにイスラエルの民が紅海を渡ったのである。
 神の救いをじっと目を凝らして見よ、と命じている(13節)。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(14節)
神さまの導きはその時に理解できない場合が多々ある。1~3節には、不思議な場所にイスラエルの民を導いてゆかれている。出口のない行き詰まりの場所で、前には紅海、両側には山、後ろにはエジプト軍が迫ったのです。2節を読むと、神さまはわざわざここに連れてきたようです。
 なぜだろうか。人間的に考えても分からないのです。ですから、10~12節には、あわてふためく姿が表現されている。エジプトに墓がないからここで死なせようとしている、エジプトの方がよかったとつぶやく。
 困難のただなかにおかれて、なぜだろうかといぶかり、問いかけない人はいないだろう。よりによってこに自分にこんな苦しみがと。
 13~14節は、暗記していい、いや暗記しなくてはいけないような聖句です。この神さまの約束を今の自分の具体的な問題にあてはめたい。そして、主が代わって戦ってくださること、黙って主の救いを見ること、信じる生き方を第一のつとめにしなくてはいけないと肝に銘じたい。
<祈り>主よ。わたしの今日一日のあゆみが神様の素晴らしさをあらわす一日としてください。困難な事柄のなかで。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <雲の柱、火の柱>

聖書箇所 出エジプト記 13章  (2012年 4月25日)

今日のみことば「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」(21)

 前半は初子の聖別と過ぎ越しの記念を明かに教えている。
後半は、いよいよ出エジプトの旅が開始されたことが述べられている。全能の神は、イスラエルを昼は雲の柱で暑い日中を守られ、夜中は火の柱で民に平和を与えつつ導かれたのです。 
 17節を見るときに、とても驚くのです。偉大な神様が、イスラエルの心をしっかりと見据えているのです。強力なぺリシテの地を通過する道を選ばれなかったのは、人間の心の弱さを御存知なのである。
 やっとエジプトを出たにもかかわらず、ぺリシテの攻撃のため再びしりごみせぬように別の道を求められているという。
 今日まで導かれてきた道を考える時に、やはり神様の忍耐強い愛の導きに感動させられてしまう。もっと直線的に行ければはるかに合理的であろうに、と思えるが、人間は合理的には生きられないのだ。ずいぶん曲がりくねった道のようだが、神様が個人個人に目を留め、心を用いていてくださる。昨日の道のように明日の道を神様は探し求めている。近道ではなく、神様の道に安んじてついていこう。
<祈り>神様今日も神様が最善な道を用意しておられることを信じ、お任せして平安の中についていけますようにお守りください。アーメン。

主題 <永遠に守りなさい>

聖書箇所出エジプト記12章15~51節(2012年 4月24日)

今日のみことば「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(14)

 イスラエルに刻まれた救いのみわざを記念する過ぎ越しの祝いは、永遠に守らなければならない。私たちの救いの原点を忘れることは出来ない。罪からすくわれる福音の言葉を聞いて、信じて受け入れ神の子どもとなったのです。
 『あなたとあなたの子孫のための掟として』(24節)である。あなたとあなたの子供達が『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、27節「あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過ぎ越しのいけにえだ。主がエジプト人を打つたとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』と。」救いの恵みの継承について考えよう。暗黒と地獄のようなさばきから、救いの驚くような素晴らしい体験を味わっている。この恵みを子供たちへしっかり継承したい。その子がまた子供へと継承したい。どうすればよいのか。神はエジプトにいた時からそのご計画をモ-セを通して語られている。それは過ぎ越しの祭りを永遠に行うのです。
 エジプトでのパン種の入らぬ純粋なパンを焼く、苦難を思う苦菜、そして傷のない羊をほふり続けるのです。この日を暦を変更してイスラエルの正月としたのです。ちょうど神の子イエス様が神の怒りのさばきを十字架において受けられ過ぎ越しの小羊となったイエス様が来られた日を起源としたようにです。救いの恵みを決して忘れないように教会は聖餐式を執行する中で、個人では絶えず救いの証しを忘れまい。

主題 <その血を見て> 

聖書箇所出エジプト記12章1~14節(2012年 4月23日)

今日のみことば「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(13)
 旧約聖書中の最大のできごとである。
 神は暗黒なエジプトの隷属状態に、救い手としてモーセを派遣して、ついにパロ王やエジプト人からの解放を実現したのです。こここそ、イスラエルの出発点であり、いつも振り返るところなのです。長い歴史の中で絶えず自分の原点に立ち返る場所である。
 その夜、家ごとに小羊がほふられ、その血を門とかもいに塗られた。子羊の肉を食べ、種いれないパンを食べる。苦が菜を添えて食べるのです。
「朝まで残さない」と言う言葉を鍵のようにして黙想したい。残しておかないと言うことは徹底するということに通じる。神さまの恵みに対してどこまでも信じて生きるしかないのです。
 神のさばきは徹底している。あらゆる世界にも届いているのです。王家にも、エジプトのすべての家庭に、動物さえも届く。神の御使いの通られる所には大きな悲しみが残されたのです。
しかし、過ぎ越しの小羊の血を塗った家は救われたのです。この血潮によって救われることを信仰を持って受け入れた家族は、みな救われました。使徒の働き16;31節の成就でした。そのように救いのみわざもまた徹底していることを知らなければならない。
 その血を見て通り越そうと言う。今精一杯、主の恵みに安息するべく飛び込もう。
<祈り>主よ、小さなものに対する大きなみわざを心から賛美します。いつもこの原点に立たせてください。ア-メン 
<きょうの課題>