2012年5月10日 (木)

主題 <わたしがあなたを遣わすのだ> 

聖書箇所出エジプト記3章1~12節(2012年 4月12日)

今日のみことば「神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」」(12)

 神の御計画したことは、必ず成っていきます。イザヤ書46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
そしてこの神様の計画やみわざは人を通して行われるのです。このために神は人を選び、用いられます。
 2章23~25節にエジプトにいた神の民イスラエルが激しい労役のためにうめき、その叫びが神様のもとに届いたとあります。そして3章7~9節において彼等の叫びを受け止めて、救い手としてモーセを選ばれたのです。 モーセは羊飼いとなり、神の山ホレブにきました。彼はエジプトで同族を救おうとして失敗した人物(2:15)であり、80才になっていたのです。人間的な見方からすれば用いるには年老いすぎ、挫折の中に40年もいた人ですので、目をかけるにはふさわしいことではありません。ただ神はこのモーセを選び、召されたのです。
 人間的には本当に愚かと見え、無力すぎる人物を神はあえて用いるべく召されたのです。「モーセ、モーセ」と2度名前を繰り返された例はきわめて少ないのです。 モーセは「わたしはいったい何者なのでしょう」と自覚している。わたしは何なのか、という問いには謙遜な自己評価が見られます。神はこのような器を探し求めています。なぜ神がへりくだった人を選び用いるのでしょうか。なぜ人間的な限界を深く悟った人を捜しているのでしょうか。そんな人こそ自分の力を過信せずに、神様に従えるのです。神はご自分の御心を人に示し、自由に用いられます。神は「あなたを遣わすのだ」「はい。私はここにいます。」と答えている。

主題 <さて、レビの家のひとりの人が>

聖書箇所 出エジプト記 2章   (2012年 4月11日)

今日のみことば「さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。」(1)

イスラエルの激しい苦難の時代にも、神を信頼して行動していた一人の人を考えたい。レビというこの人の家族は、父が信仰的な歩みをしてゆくことによって、将来の指導者が生まれる素地を形成していたのです。『さて、レビの家の一人の人がレビの人の娘をめとった。』とある(1節)。異邦の地にあって、神への信仰もなにもあったものではない、と考えるのは当然の雰囲気だったろう。社会全体が結婚や生活についての日常の中に、神のみこころよりも、自分の生き方を優先するのは決して昔も今も変わることがない。
でも、このレビの家の一人の人は違っていた。自分の信仰を第一にしつつ、結婚も、育児も、教育も、あらゆる選択も行っていった。レビ人には、とくに神に近く仕える奉仕が備えられている。そういう信仰を人生の大事な結婚において明らかにし、選択してゆくのである。
 この影響が、妻ヨケベテにも、長男アロン、長女ミリヤムにも、そして次男モーセにも受け継がれてゆくこととなる。イスラエルの救済の歴史は、こうした信仰に立つ家族から生まれてきたことをよく学んでおきたい。
 モーセが成人した後に、エジプトの栄華よりもキリストの民と共に苦しむことをあえて信仰と喜びをもって選択した(へブル人への手紙11章)のも、父母の信仰の生き方が土台にある。
 こうしてモーセの歩みが、この家族から始まったことを覚えて、その信仰に貫かれた足跡をみならいたい。
<祈り>あなたを『主よ』とお呼びし、従うものにして下さい。結婚も育児も、就職も、進学も、仕事も。ア-メン。

主題 <苦しめれば苦しめるほど> 

聖書箇所 出エジプト記 1章   (2012年 4月10日)

今日のみことば「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。」(12)

 いよいよ、出エジプト記を学ぶことになります。名前のとおり、イスラエルの民族がエジプトにゆき、わずか400年間に、200万人に成長して、一民族となり出エジプトをするのです。創世記から出エジプト記までの間に、記録には見えない神のすばらしいご計画が進んでいたことに驚くのです。
 最初の場面は、苦難の物語である。人生には、思いがけない試練に見舞われる時代に生きることがままある。戦争という時代に生きることがあり、自然や原発事故の苦難もあり、家族の中に悲しみの時代もある。しかし、聖書は神を求めるときに、多くの問題の最中にも決して孤独ではないことを物語る。
 12節には『この民は、苦しめれば苦しめるほどますますふえ広がった』と記している。エジプトの繁栄と裏腹の悲惨、苦難の歩みが奴隷としての悩みがあるにもかかわらず、それが救いにつながるのです。この出来事が栄光の歴史への糸口にさえなるのです。そのときの状況が、思いもかけない世界の救済のメッセージを取り次ぐ器として用意されていたのです。見えるところによって一喜一憂せずに、常に神を求める生涯でありたい。
<祈り>主よ。今日一日も、あなたと一緒です。主にあっては、困難の時も、恵みの時代であり、救いの働きへの準備であることを教えてください。アーメン。
<祈りの課題>苦難に置かれている兄弟たちのために

主題 <悪が良い計らいへと変わる>

聖書箇所 創世記 50章     (2012年 4月 9日)

今日のみことば「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(20)

 創世記の最後、50章では、父ヤコブの死を悼み、かつての遺言の通りに、ヨセフはカナンの地にヤコブの遺体を運び、アブラハムが買い取ったマクペラのほら穴に埋葬した。エジプトに定住するようになった父ヤコブは大変大きな存在であった。そのためヤコブの死に際し、ヨセフは非常に大きな悲しみの中、喪に服した。けれども父の遺言の通りに行い、最後まで父ヤコブに誠実を尽くした。
 父ヤコブの死は、少なからず兄弟たちにも動揺があった。しかし、その動揺は、ヨセフが兄弟に対して報復するのではないだろうかという恐れからくるものであった。そこで、兄弟たちは一計を案じ、父ヤコブが兄弟たちを許すようにという遺言を残していたと言って、ヨセフに言い聞かせようとした(16~17)。
 それに対して、ヤコブはかつて兄弟たちに言った通りに答えている(20、45:5)。それも優しく、慰めるように語りかけている(21)。ヨセフは兄弟たちがかつて行ってしまった罪にさいなまれている姿を感じ取り、配慮して、もうすでに赦していることを改めて伝えた。
 罪を犯してしまったことは、容易に消えることではなく、人を苦しめることも、罪の連鎖ともなることがある。ヨセフは兄弟たちが今もなお犯した罪に苦しめられているのを感じ、泣いたのだった(17)。しかし、それにも増してヨセフは慰めと愛をもって語りかけ、共に生きることを約束している。ヨセフが兄弟たちに示した和解はキリストの和解の型であると言われている。
 創世記の最後には、その神の備えて下さっている豊かな和解の姿で閉じられている。神の下さる和解の恵みに感謝したいと思う。

2012年4月 2日 (月)

主題 <十二人の子らの祝福>

聖書箇所 創世記 49章    (2012年 4月 8日)

今日のみことば「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」 (10)

 ヤコブはいよいよ最後の時を迎えようとしている中で、十二人の子どもたちを祝福し、預言を与えられる。この祝福と預言のことばが与えられる中で、注目されるのは、ユダとヨセフについてである。
 ルベン、シメオン、レビ、イッサカルたちには、いくらかの叱責のことば、罪が明らかにされている。しかし、ユダに関しては、叱責のことばや罪が指摘されていないという点である。むしろユダの方が、さばかれて当然の罪を犯していた(38章)。それはなぜか?それはユダの家系から出るキリストによる、罪の赦し、神にある真の平和がもたらされることのためであった。10節の「シロ」とは「平和」の意味で、ユダの家系から真の平和の王なる方が来られ、この方の前にすべての者が仕えるようにことが預言され、まさに、これはイエス・キリストによって成就した。罪の完全なきよめを象徴している。
 もう一つ注目したいのは、ヨセフで最も多くの祝福のことばが用いられている。ヨセフに対する祝福のことばは、ヨセフ自身のみならず、ヨセフを越えて、さらに多くの人々に及ぶことが言われている(22)。そして、「永遠の丘のきわみにまで及ぶ」(26)と言われており、永遠に祝福は受け継がれていく、それは山に達するように誰の目にも明らかな者となることが言われていた。主の祝福は尽きないことを物語っている。
 今日、私たちは主が祝福されたように、今も、これからも祝福の御手を伸ばしてくださるお方がおられることに感謝したいと思います。そして、何よりも主の祝福の恵みを受け継ぎ続けていく者とならせて頂けるように祈ろう。

主題<羊飼いであられた神>

聖書箇所 創世記 48章    (2012年 4月 7日)

今日のみことば「それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(15)
 ヤコブは自分の寿命を悟り、最後にヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを祝福する。マナセとエフライムをヤコブの子として、祝福を受け継ぐ者たちに加えられていく。
 ヤコブは彼らを祝福される時に、「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(15)と告白している。ヤコブにとって、全能の神は、同時に共におられ導かれる神であったことを告白したことばであったことが分かる。ヨセフの子どもたちを祝福するにあたり、かつて自分は兄エサウと偽って祝福を奪うようなことまでした利己的」で、貪欲な者であったが、神のあわれみは尽きず、見捨てることなく導き続けてくださったことを思い起こすように、主の導きの確かさに感謝しつつ、ヨセフの子どもたちの今後の歩みを導いて頂けるように願った、真実な祝福の祈りのように響いてくるものがある。
 この祝福の祈りの場面で、父ヤコブの右の手が弟のエフライムにのせられ、左手は長子のマナセの上に交差してのせられているのをヨセフは間違いと思い、手をのせかえようとする。しかし、ヤコブは「わかっている。」(19)と言って、エフライムの方がより多くの民となることを暗示し、祝福された。ヤコブ自身もそうであったが、人間的な手段で弟が祝福を継承していったが、それはすでに神のご計画であった。それは神ご自身が定められたということでもあり、エフライムもすでに神の選びの中に、より多くの祝福にあずかるとされていたということで、これは神が定められ、導かれていくことで、人間の入り込む間は与えられていないことであることを示していると言えよう。
 主の導きにゆだね従う者となれるように祈ろう。

主題 <さいわいな生涯>

聖書箇所 創世記 47章    (2012年 4月 6日)

今日のみことば「ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」」(9)  
 エジプトに到着したヤコブたち一族はエジプトの王パロによって最も良い地であるゴシェンの地に住むことが許された。
 ヤコブはパロと会見し、「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(9)と言っている。確かに、ヤコブの齢は先祖たちにくらべ短く、度重なる苦しみ、試練の連続だったという点でふしあわせであったかもしれない。しかし、ヨセフの導きにより、エジプトにて安住が許され、何よりも家族たちと共に過ごすことができる晩年を送ることができたのはしあわせであったのではないだろうかと思う。おそらく「ふしあわせ」であったという不満を述べたのではなく、この価値観からすれば客観的には「ふしあわせ」と思っても、ヤコブの生涯全体的には神の導きのうちに最善がなされたこと、エジプトの地に来て、ヨセフとの再会と安住が与えられたことの感謝を強調しようとして言ったことばとも取れるのではないだろうか。
 なおもききんが続く中、ヨセフは食料の代わりに、銀、家畜、農地を買い取り、最終的に買い取った農地に種を蒔かせて、その収穫の五分の一をパロに収めさせるように命じられている。ヨセフはあらゆる点で用意周到な統治者としての力を発揮した。そして、いよいよ父ヤコブは寿命が近づきつつあった。
 ヤコブ、ヨセフとそれぞれの生き方、賜物、経験、すべては異なり、何をもってしあわせというのか考えさせられる。ただ一つ言えることは、ヤコブにしても、ヨセフにしても、さまざまな苦労を経て、最後は主の祝福にあずかったということではないだろうか。しあわせな生涯は主に最後まで従う歩みの中にあるのを覚えたい。

主題 <わたし自身があなたといっしょに> 

聖書箇所 創世記 46章    (2012年 4月 5日)

今日のみことば「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」(4)

 主からの確信を求めて
 ヤコブのもとに兄弟たちが帰ってきて、ヨセフが生きていてエジプト統治者となっており、家族たちをエジプトに迎え入れて下さるとの報告を聞き、ヤコブは信じられなかった(45:26)。
 それでも、ヤコブはヨセフとの再会を願い、一族と共にエジプトへ行く決断をした。しかし、ヤコブの内心はどこかエジプトに下っていくことに不安を感じていた(3)。
 ヤコブの家族がベエルーシェバまで来た。そこで、ヤコブは、神にいけにえをささげた。かつて、ヤコブの父イサクが、エジプト行きを禁じられたのを思い出していたのかもしれないが(26:2)、エジプトに下っていくことについて、主からのさらなる確信を求めていけにえをささげたと思われる。(1)
 その時、神ご自身からの力強い励ましと、約束のメッセージが与えられた(3、4)。 ヤコブにとってするならば、ヨセフのいるエジプトに下っていくことは、最終的にはエジプトの地で、ヨセフの手によって見守られつつ、生涯を閉じていくことになるということも含まれた約束であった。まもなくの生涯の終わりを告げられる内容でもあり、さらなる不安がおそってくるかと思えば、このことを示され語られたヤコブは、むしろ前向きにエジプトへと向かって出発している(5)。それは、どのように生きていくにしても、主が共にいてくださるということに、一切の不安、恐れは消え、主からのさらなる確信と平安をもって進むことこそこれに勝る幸いはないことを示してくれている。
 不安、恐れを一掃して下さる神が共におられることを覚えよう。

主題 <神のご計画と和解の涙>

聖書箇所 創世記 45章    (2012年 4月 4日)

今日のみことば「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」(8)

 ベニヤミンをかばい、必死に訴えるユダ、そして兄弟たちは一致してエジプトに留まろうとしていた姿を見て、とうとうヨセフは自分の正体を兄弟たちに明かした(3)。死んだと思っていたヨセフが生きていて、エジプトの統治者となっていたことに信じられない兄弟たちに、今、生かされて、エジプトにいるのは神のご計画であったとし、兄弟たちを憎むというよりも、兄弟をいつくしみ、神のご計画の御業を賛美し、主に信頼し続ける貫かれた信仰者の姿がそこにあった。
 実際のところ、ヨセフを売った兄弟たちの罪があり、ヨセフは苦しみに強いられたことは事実である。しかし、これらの一連の理不尽と思われるような中にあって、神は黙していたのではなく、すべてのことを神の主権と摂理の中で、すべてが最善となるように導かれていたということをヨセフは告白したのである。兄弟たちは悔い改めに導かれ、ききんによる一族の危機に際し、エジプトへの移住の道が備えられていたということは本当に予想出来ない幸いな結果だった。
 ヨセフと兄弟たちの再会、そして、兄弟の和解は皆が涙を流しながら抱き合っている姿に、これ以上ない和解の素晴らしさを今日の私たちに教えてくれている。
 苦しみの涙が喜びと感謝の涙に変わる。神に導かれた者たちの逆転の人生は実に驚くばかりの恵みに満ちていると言えよう。私たちの人生も神の主権のもとにあり、すべてを最善に導いてくださるお方がいることを覚え、今日も歩ませて頂きたい。

主題 <ユダのとりなし> 

聖書箇所 創世記 44章    (2012年 4月 3日)

今日のみことば「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(33)

 ヨセフから歓待された兄弟たちであったが、再び、事件が起こる。ヨセフの銀の杯が無くなったというのである。身に覚えのないことであることを兄弟たちは訴えた。しかし、銀の杯はベニヤミンの袋から見つかった。これらはヨセフが家の管理者に命じておいたことで、兄弟たちを試すために行ったことだった。
 兄弟たちは何ゆえにこのようなことが起こったか分からなかったが、ヨセフの前に何の申し開きもせず、ヨセフの奴隷となると言いました。かつて、ヨセフを夢見る者とあざけり、ヨセフの見た夢は兄弟たちが、両親までもがヨセフに膝をつき仕えるようになると言われていたことは、まさに現実のこととなった瞬間だった。
 ただ、夢の実現ということだけでなく、今日の箇所から確認したいことは、かつて兄弟ヨセフを売り渡した時のようではなく、兄弟たち、特に、ユダは弟ベニヤミンのためにとりなし続け、自分が身代わりになろうと申し出たことである(33)。
 ユダはキリストの型であると言われている。とりなしをし、徹底的にへりくだり、身代りとなられたという姿は、まさに十字架にまで従われ、いのちをもささげてくださったことを改めて覚えたい。
 まもなく、受難週、そしてイースターが近づいている。キリストの十字架によって示された愛を覚え、キリストのなされた御業に感謝をささげよう。そして、ユダやイエスの歩まれた姿から、今日、あなたの隣人のために愛し、仕える者とならせて頂きたい。