2011年12月24日 (土)

主題 <監督は神の家の管理者> 

聖書箇所 テトスへの手紙 1章  (2011年12月15日)

今日のみことば「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず」 (7)

テトスはテモテと同様に使徒パウロから委託されて、パウロが開拓した教会の牧師(長老・監督者)を立てるつとめを果たすように委任されます。<神の教会>といわれるように、神の所有とされている群であり、立てられる牧師や役員たちへの指導を書いて牧会の人を全うするように教えます。
 パウロはテトスも「真実のわが子テトスへ」と信頼を置いています。主イエス・キリストもまた、我が子としての私たちに大事な神の教会を預けて下さっているのです。すべてのクリスチャンは同様な使命と責任を授けられています。監督という立場になかったとしても、神の家の管理者であることは間違いない立場なのです。
 この監督へのあり方は何のために求められているかといえば、9節にあるとおり、教えにかなった健全なみことばを伝えるためです。健全な教えで人々を励ましたり、反対者を正してゆくためです。
 そこで、7-9節に、自分を生活を非難されるところのない歩みをするのです。また旅人を良くもてなすのです。善を愛するのです。慎み深く敬虔で自制心があり、教えを正しく守っている人です。
 クレテ人への問題を書いていますが、そうした時代のただ中で、教会は立て上げられ、福音が前進し、聖徒たちが成長してゆくのです。

主題 <みことばを宣べ伝えなさい>

聖書箇所 テモテへの手紙第二 4章(2011年12月14日)

今日のみことば「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2)

 パウロの書いた書簡の中で、このテモテへの手紙第二がパウロの晩年、最後の手紙と考えるならば、パウロの地上における最後の勧めと取ることができる。パウロの勧めたことは何か。それを一言で言うならば、「宣教」でした。
パウロは、1節にあるようにキリストの再臨と、来るべき神の国とを思いながら、「みことばを宣べ伝えなさい」と命じました(2)。この命令はパウロの個人的な思いなのではない。かつて昇天される前に復活の主イエスが弟子たちに命じられた大宣教命令(マタイ28:20)にあったことであり、主の教会は今日もこの命令に応じて宣教を行っている。
また、この命令は、テモテのような伝道者だけに対するものではなく、イエス・キリストの救いを受けた、すべての者に対して語られている。福音宣教の働きは、救われた信仰者の特権である。
 時が良くても悪くても「しっかりやりなさい」とは、「備えていなさい」というような意味もある。私たちは時の良し悪しを計るうちに、語る機会を失つてしまうことがないだろうか。良い機会も、躊躇しているならば失われてしまうし、その逆にふさわしくない時と思えても、知恵と忍耐とまた謙虚さとによって、効果的な証しの機会と変わり得るものである。パウロはテモテに、今の時の困難な迫害があっても、なお語り続けていくことが重要であることを語りました。
 さらに、パウロは、「自分に都合の良いことを言ってもらうために、…教師を寄せ集め、…空想話にそれて行く」(3~4)と言い、宣教の働きが非常に困難なものであることを予告している。
しかし、宣教の責任を果たしていくことは、困難ではあるが決して不可能ではないく、このような時にこそ忠実に行っていくことが重要であることを教えられました。そして、それは今日の私たちにも同様に語らえていることを覚えたい。私たちも地上の生涯を終えようとする晩年に、宣教への重荷をもって歩んでいることができたら幸いなことである。

主題 <十分に整えられるために>

聖書箇所 テモテへの手紙第二 3章(2011年12月13日)

今日のみことば「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(16~17)

 3章の前半では、終わりの時代に見られる現象、特に、真理に逆らう人々が出てくることについて言及しました(8)。そのような中で、パウロはテモテに、学んで確信したところにとどまるようにと勧めています(14)。
 まずパウロは、デモテに、彼にふりかかった困難を思い起こさせている。迫害や困難に直面するときに、パウロはそれ以上に大きな感謝を主にささげている(11)。主こそがパウロの困難な状況の中に働かれ、救い導いてくださったことを実体験として語りあかししました。
 12節でパウロは、「敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます」と断言している。私たちは、信仰者に対して迫害のないことは幸いな時であり、むしろ主をあかししていく絶好の機会であると感じているだろうか。迫害がないということが、実は私たちが、戦うべき戦いを避けて、妥協している結果であるかもしれないということを考えたことがあるだろうか。
私たちは、今の時代に生きても、この福音をあかしし伝えていく使命を主から頂いていることを覚え、今日も、主をあかしし主に栄光をお返ししていく歩みをする者でありたい。そのためにも語るべきことば、主のみことばに学び、主のみことばにあって生かされていかなくてはならない。もしも、みことばにとどまっていないならば、私たち自身も「だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行く」ようになる危険性があることを知らなくてはならない(13)。 そして、聖書のみことばは今日、私たちを主の働きのためにふさわしく十分に整えてくださる。絶えずみことばに学び、実践した歩みとなるように祈っていきましょう。

主題 <忠実な働き人によって>

聖書箇所 テモテへの手紙第二 2章(2011年12月12日)

今日のみことば「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(2)
 2章では、パウロは若い伝道者テモテに対して「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(1)と勧めています。テモテが、これまでに教えられたことを実行するためには、強くあることが必要であったと言えます。しかし、その強さとは人に威圧させていくという強さではなく、恵みによって強くなることでした。自分で頑張って、自分で強くするのではない。神がどのように恵みを与えてくださっているのか、それを知ることによって与えられていく強さと言えよう。私たちはこの強さを求めていなくてはならない。
 自分の働きを、テモテにゆだねようとしているパウロは、テモテにも、他の人々にゆだねるようにと勧めている(2)。ここには、四代にわたる信仰者が書かれている。すなわち、パウロから、テモテヘ、さらに、教える力のある忠実な人へ、さらにその人々が、他の人々にゆだねるのである(2)。ゆだねていくということは一見、自分のしてきた働きがなくなってしまうように感じるかもしれない。しかし、ゆだねるということは失うのではなく、その逆で新たな働きのひろがりとなることであり、忠実に仕え合うキリスト者の交わりにあってこのことは重要なことでした。実際、短期間に主の教会が広がっていったのは、パウロ一人の働きではなく、ゆだねられた同労者たちの働きが合い重なって広がった結果と言える。パウロは、テモテにということだでけでなく、さらなる先につながる働き人のために祈り、働きをゆだねていくことを勧めていたと考えられる。
 また、再度パウロは、福音によって生きようとするなら、テモテも同じような困難を味わうだろうと予告している。パウロは二度目の投獄の身にあり鎖につながれていた。しかし感謝するべきことは、神のことばは決してつながれていないことであった(9)。パウロは選ばれた人々、すなわち兄弟姉妹のためにすべてを耐え忍びました(10)。しかし、彼は逆説的な素晴らしい真理を知っていた。すなわち、キリストと共に死ぬならば、またキリストと共に生きることになるのである(11)。苦しみ、困難にはやはりいつもその意味を考えさせられるものである。パウロは苦しむということは、福音が宣べ伝えられていくまさにその働きが進んでいるからであって、ますます主の栄光があらわされていることに喜び、それはキリストにあって生きているそのものであったことを実感していたのでした。困難の中にもキリストにある歩みを全うさせて頂きたいと思います。

主題 <キリスト・イエスにある信仰と愛をもって> 

聖書箇所 テモテへの手紙第二 1章(2011年12月11日)

今日のみことば「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。」(13)

 使徒パウロはテモテへの第一の手紙に続き、この第二の手紙を書き送りました。共に、パウロの晩年に書かれた手紙であり、我が子のように愛した(1:2)若き同労働者テモテに宣教、牧会、さまざまな点で具体的な勧めをした手紙でありました。
 パウロはテモテがかつて導かれていった背景に、祖母のロイスと母ユニケの信仰に触れています。その信仰がテモテに宿ったと言い(1:5)、信仰が継承され、テモテは福音宣教に直接的に労する献身者となって主に仕える様になったことを振り返るように語っています。そこには、長い月日の中で培われてきた信仰を見て、信仰継承の重要性を語っていると思います。私たちも信仰のバトンを渡していくべき人を覚え、祈りつつ備えていくことは、個人の救いにとどまらず、この時代への福音宣教の前進にもつながっていくことを覚えたいと思います。
 さて、パウロはテモテに「私は、あなたの涙を覚えているので・・・」と言っています(4)。若き伝道者テモテにとってもパウロ同様の困難を経験していたことが想像されます。しかし、パウロはさまざまな困難の中にも、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と語り、神の力により、愛と慎み深い考えと行動をもって、なお主のために仕えていくように励ましました。そして、パウロ自身も囚人として扱われているという困難の中で、主にあって共に協力し合っていくことができるように願いました(1:8)。
 パウロは主に召されたという使命を確認し、さまざまな困難な境遇にあっても、なすべきこととして、「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。」と勧めました(1:13)。祖母や母から受け継がれてきた信仰と愛をもって、それはキリストにあって歩んできた家族としての歩みをも含んでいることでしょう。そして、なによりもそのことを教えられてきたのは聖書のみことばにあってであったことを確認するように教えられました。私たちも先の信仰者の歩みと聖書のみことばに教えられ、今日も歩ませて頂きたいと願います。

主題 <神に望みを置くように>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 6章(2011年12月10日)

今日のみことば「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(17節)

 この章ではさらに、奴隷、富める人などへの警告を記します。私たち一人一人は、神が置かれた立場を出来る限りに生かせるように信仰を働かせるのです。生活、ものの考え方、動機を敬虔に生きることです。すでに教えてきた敬虔を修行する(文語訳4;7)が最も重要なカギとなってきます。
 敬虔に生きることがないと、少しばかりの立場や知識、富の豊かさが高慢な罪に陥いらせたり、自己主張の手段にさせるのです。
 17節にあるとおり「たよりにならない富に望みを置かないように」と諭しています。ある人々は少しでも人の上に立ちたい、支配したい誘惑に陥っています。そうした富は、頼りにならないと言うのです。
中に、敬虔を利得の手段にしている信者もいます(5節)。この高慢を乗り越えるためには、神への信仰のみです。
しかも神は、私たちのすべての物を豊かに与えて楽しませてくださるお方なのです。この方に信頼し、希望を置くように勧めています。
 この望みは18節にあるとおり、現在の自分の信仰と人生の重要な基礎であり、未来に置かれている素晴らしい現実なのです。
 聖書に出会うことがなければ、こうした不動の希望と謙遜な敬虔を決して身に着けることが出来なかったでしょう。
この聖書に生きることがこれほど素晴らしい日々への導きとなることに驚きを持って読み進みましょう。毎日、聖書を深く読み、神と交わるデボーションが、知らず知らずに生活をかたち造るのです。励みましょう。

主題 <信仰の良い行ない> 

聖書箇所 テモテへの手紙第一 5章(2011年12月 9日)

今日のみことば「良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」
(10節)

 教会は、神が隣在される地上に遣わされている神の機関です。ですから、神の代理をさせていただくと考えていいでしょう。この世界は神を拒否しているので、神がお建てになっている教会を通して神に出会えるのです。もちろん、自然も第二の聖書といわれ、神の栄光を現わしていますから、神を知ることは出来ます。(詩篇19篇・ローマ書1章18節)
 教会におけるすべての営みは、神が望まれる道を歩もうと努めているのです。そこで若い牧会者のテモテに、年配の信徒に対して、婦人に対して、やもめに対して、どのような指導をするべきかを教えました。この原則は今も、大切にされなくてはなりません。
 17節から記されている長老は、現代の牧師です。牧師の大切な仕事は、みことばを正しく、いのちにみちて語らなくてはなりません。生きた神のことばを取り次ぐのです。聖書への知識だけではなく、信仰が深く根付いていなくてはなりません。
 もうひとつは、教育をすることです。神を愛し、神に従う教育をして主に喜ばれる聖徒に形造るのです。この牧会の奉仕は大きな犠牲が必要です。自分と家族が主に仕えるだけではなく、教会員が成長するために仕えることには、いのちをかけなくては出来ません。牧者は常にこの生き方に徹するのです。
 そうした者には、すばらしい報いが用意されるのです。信徒たちから尊敬と必要のすべてが備えられるからです。それだけに、祈り深く、自らを整える努力を傾けなくてはなりません。
 そして今日も、牧師たちのために祈っていただきたい。

主題 <信徒の模範をめざそう>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 4章(2011年12月 8日)

今日のみことば「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(12節)
クリスチャンである私たちは、教会や社会にいて人々の目標ともなり、模範となっているのです。この世にあって地の塩、世の光なのです。山の上にある町が隠れることが出来ないように、キリスト教信仰者は喜ばれもし、避難も甘んじて受けなくてはなりません。
でも、人から軽んじられる、軽く見られないように出来るのです。かえって、5つの生き方で、暗い世の光となり、灯台となっているのです。
ことばで真実を語り、人々の信頼を勝ち取る牧師になり、役員になり、聖徒になるのです。
1-5節には、偽りの牧師や信徒たちがいたのです。キリスト教の純粋な信仰を曲げて、まことしやかな教えで人々を堕落させていました。
信仰の深く正しい訓練は、敬虔によって訓練されることです。敬虔とは神に従う生活を第一として生まれてきます。
これは祈りと教会生活の中で、具体的に身に着けなくてはなりません。7-8節にあるように、いのちにいたる敬虔は大きな利益をもたらすのです。
12節で、年が若いからといって人に軽んじられないように生きるのです。
・ことばにも、信仰の態度があふれるようにしたい。
・態度にも、信仰者の落ち着きと平和があふれていたい。
・愛にも、いつまでも残る愛の生活に注ぎたい。
・信仰にも、神への信頼を一貫して進みたい。
・純潔にも信者の模範になりなさい。
こうして敬虔な生涯は、すばらしい実を結ぶのです。

主題 <教会の牧師のための祈り>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 3章(2011年12月 7日)

今日のみことば「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。(1節)
 「監督の職につきたいと思うなら、すばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です(1節)。教会という聖なる御国の奉仕にあずかることは、素晴らしいことです。
 15項目を上げて、教会の監督の在り方を教えています。3:2「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3:3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。」
3:5 自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。
ことに後半の3つについては詳しく説明がつけられています。
 自分の家庭をよく治められ、自分の子供を威厳をもって従わせている人です。家庭の中を治められない人は教会を導くことができません。
 クリスチャンになって間もないときは、高慢になりやすい。高慢はサタンの姿であり、滅びに先立つものです。
 教会の外の人にも良い評判の人であることです。信仰が周囲へのあかしとして認められることは、サタンの罠にかからないためにも必要です。
牧師がこの様に歩むことができるように、とりなしの祈りが必要です。
教会役員のための祈りも大切です。8-9節の執事は牧師を助けるつとめ、役員のことと理解できます。ここにもいくつかの項目をあげた在り方が記されています。
 婦人執事については、ことばの点においてことに自制するように教え、子供と家庭を良く治めるひとであることを求めています。
 これらの在り方はいずれも忠実な教会生活をめざすことによって、実現してゆきます。牧師の指導や助言を大切にしつつ互いに励まし合う必要があり、小さな努力が必要となります。
 執事の務めを立派に果たした人は良い報いを受け(マタイ25:21)、信仰に対するより強い確信を握るようになるのです。

主題 <願い、祈り、とりなし、感謝> 

聖書箇所 テモテへの手紙第一 2章(2011年12月 6日)

今日のみことば「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)
祈りについて学びます。「まず初めに、このことを勧めます」(1節)とテモテがなすべきこと、そして私たちがなすべき第一のこと、それは祈りであります。祈りこそキリストのなされた救いがすべての人に及ぶ最初の仕事、第一の仕事なのです。このとりなしの祈りこそ、主の使命と重ね合わされたとおとい職務です。
 祈りの第一は、神がすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるように、救われることを願うことです。
 第二は、王たち高い地位の人々のため祈る必要があります。彼らは神から与えられた国家の方針、政治、経済、軍事、教育、福祉など国民生活のすべてに関わる責任を持っています。キリスト者が威厳を持った一生、平和な一生、静かな一生を送るためです。与えられた祈りの責任を果たさずに、国家の問題を裁くのみではいけません。
8節には「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と教える。ここに男性と女性それぞれ違ったことを命じているように見受けられます。男性は祈り、女性はしとやかに聞くようにと。しかし、9節に「同じ様に女も」とありますので、この章全体が祈りに貫かれていると見ていいのです。
 男性への祈りの勧めですが、怒ったり、言い争ったりしないことです。男性はすぐに怒りやすく、議論に頭脳と精神を没頭しやすく、その後で祈ることができなくなることが多いのです。しかし、それでは救われることができないのです。(15節と対比)
 積極的にはどこででも、きよい手を上げて祈る。手を清めることは旧約にも勧められています。女性の陥りやすい弱点は祈ることよりも、外面を飾ること、衣服のことに心が向かいやすい。また勝ち気な女性は、男勝りに議論に時間を費やして、祈りが後回しになってしまうのです。
 女性特有の穏やかな性質を、祈りによってより美しく整えることを勧められています。背後に謙虚な祈りのある人を、神様は救ってくださる。