2011年12月24日 (土)

主題 <この命令は愛を目標としています>

聖書箇所 テモテへの手紙第一 1章(2011年12月 5日)

今日のみことば「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(5節)
 使徒パウロは、テモテを「信仰による真実のわが子」と呼び、本当の父子のように一緒に主に仕えたテモテへ手紙を書き、牧会を指導したのです。独身だったパウロにとって、テモテの存在はどんなに慰めを得たことでしょうか。
 まず、エペソの教会に持ち上がったのは、教理上の誤った問題であり、その対応です。律法をどう読み、どう理解し、どう生きるか、ということは大事な問題です。教会の中には、自分が律法の教師として名誉ある立場を誇ろうとして、強く自己を主張していた人物がいたのです。
 高慢は信仰の世界でもうごめいており、わき道にそれて無益な議論に走ることになります。今も、私たちの周囲にも見られます。神学の方面でも、何か特別な知識を誇る愚が聞こえてくる。神学は清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛を目標としなくてはなりません。神学は神様を学ぶものですから、愛がない人に神はわからないのです(Ⅰヨハネ4:8)。まずこの信仰の中心である神の言葉を学ぶ信仰の目標をしっかりと定めましょう。
 そしてパウロ自身の救いのあかしをするのです。16節には、「そのような私があわれみを受けたのはイエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
 ここにパウロは深い神のあわれみをあかししています。これほど罪深い者をあわれんで下さった神様に、誉れと栄えが世々に限りなくあれと、賛美をささげているのです。17節を繰り返し読んでみて下さい。たった一人のパウロの救いについて、こんな賛美をささげているのです。
 見本であって、今後信じようとしている人のための先立ちであったと言います。私たちが神を信じて救われたこともまた、周囲の人へのモデルなのです。パウロは自分の内にある本当に深い罪の汚れを知り、主イエス・キリストの十字架によるゆるしを体験したのです。罪の深さをより知る人ほど謙遜な人はいません。キリストの恵みは、主にある信仰と愛とともに、ますます、満ちあふれるようになりました。(14節)

2011年11月27日 (日)

主題 <締まりのない歩み方ではなく>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二3章(2011年12月 4日)

今日のみことば「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。」(12~13)

パウロはテサロニケ教会の人々に、キリストの再臨について再度教えられた後に、キリスト者としてふさわしい歩みについて語り始めます。パウロは大きく2つのことを勧めました。
一つは、あらゆる悪い状況であっても、神の愛とキリストの忍耐をもって歩み、主のみをしえを実行する歩みであるように勧めました。(4~5)。
二つ目に、締まりのない歩み方をするのではなく、働きつつ、善を行なうように勧められました(6~13)。パウロは、「締まりのない歩み方」という言葉を繰り返し言っていますが、この時、確かにテサロニケ教会の人々の中に、仕事をやめて、日々、怠惰な生活を送っていた人々がいたため戒める必要がありました。
 パウロは、日々、怠惰な生活を送っている人々に対して、ただ手紙によって戒めただけでなく、パウロがテサロニケにいた時、すでに自らの働きによって糧を得ていたことを思い出すようにと言いました(7~8)。
今日の時代も怠惰に生きてしまうことは簡単なことかもしれません。もしかしたら日常的な歩みこそが意識的に、積極的になされなくては継続できないものがあるのではないでしょうか。パウロは12~13節に勧められている歩みは、特別なことではありませんが、ひたむきな日々の営みがどんなに重要であるかを教えてくれているように思います。
パウロがキリスト者としての歩みの模範を示していたように、今日、私たちの歩みが模範、証となる歩みとなるように祈っていきましょう。

主題 <主のみことばに堅く立って歩む>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二2章(2011年12月 3日)

今日のみことば「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15)

パウロが第一の手紙を送って以降、再度、テサロニケ教会において、キリ
ストの再臨についての議論が起こり、中にはキリストの再臨がもうすでにあったように語る者たちも出てきました(2:2)。そして、そのように言う者たちの中には働くことをやめ、怠惰な生活をおくる者が出てきました(3章参考)。
 そこで、パウロは決して心を騒がせることがないようにと(2)、そして、主の再臨の前には、背教、不法の人(滅びの人)が現れることを示されました(3)。  
特に、不法の人(滅びの人)が誰という特定はないが、この者が現れると、神に反する働きが行なわれることを教えられ、注意深くあるように教えられました。(4~10)。
 また、主の再臨についての憶測的な議論するばかりでなく、パウロはテサロニケ教会の人々に、すでにキリストの福音によって救われているという確かさと希望を確認するように語りました。そして、どのような時にも、パウロが書き送った手紙、つまりはことばに堅く立つようにと勧められました(15)。
パウロが言う「私たちのことば」こそ、パウロが主から教えられたことばであり、今日で言う主のみことは、聖書の言葉をさして言われたことでした。私たちは、しばしば、この世の価値観、経験則的なことばで語ることがあるかと思います。それは場合によっては途方もない議論に終わってしまうことがあります。しかし、私たちが語るべきことば、基準とすべきことばは聖書のみことばであること、これを土台としていくべきことを確認したいと思います。
私たちは、今日も、主のみことばに信頼をおいて、主を待ち望む者として歩ませて頂きと思います。

主題 <主にあって栄光を受ける歩み>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第二1章(2011年12月 2日)

今日のみことば「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」(12)

 パウロはテサロニケにて迫害が起こり、わずか3週間足らずの宣教期間で離れなくてはなりませんでした。パウロはテサロニケの人々を案じて、テモテを派遣したが、そこにはテサロニケ教会が設立しされ、多くの信徒の模範となっていたということを聞き大いに喜んだ。
テサロニケの教会が働きを進めていくようになっていたが、パウロはまたさらに教えるべきことがあったのでテサロニケ人への手紙第一を書き送ったのでした。
 それからそう時間を経ずして、テサロニケ人への手紙第二が書き送られることとなります。そこには、キリストの再臨について、さらには怠惰な生活から離れることなどについて再度教える必要が生じたという理由もありましたが、まだキリスト者として歩み始った信徒たち、設立して間もないテサロニケ教会を案じて、パウロはテサロニケから離れていても、テサロニケ教会の人々が正しい信仰に歩むことが出来るようにと常に牧会的配慮をもって関わろうとしていたと言えるのではないかと思います。
 テサロニケ人への手紙第二1章全体を通して、パウロの励まし、祈りについて見ることが出来ます。
そこには、どのような時にも神の国のために生き歩むことの幸いについて知ることを教えられました。(5)
また、主の日には主の栄光が現わされ、テサロニケ教会の人々が感嘆の的となると言われ、困難な中にも信仰を全うする歩みとなるように強く勧めました(12)。
 この地上における歩みにあって、困難な中にも、信仰的迫害を受けることがあっても、主に忠実に仕える者として、その信仰の歩みを全とうすることができるように祈りつつ、神の国に希望をおいて歩むことが出来るように祈りましょう。

主題 <主の日は盗人のように来る>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一5章(2011年12月 1日)

今日のみことば「いつも喜んでいなさい。」(16)

 主が再びこの世界に来られるということを自覚するべきなのは、「いつか」という問題で、今日を生きる決定的なあり方を形造る。
 主の再臨を考えない一般の人にとって、「平和だ。安全だ。」といっているときに突如として滅びが襲いかかります。妊婦が出産近くまではごく変わりない生活ですが、陣痛が突然やってくる。しかも、再臨を考えないので、人生全体が暗やみに閉ざされ(4)、酒に紛らわせて苦しみを逃れるべく酔う(7)のです。
 私たちは、第一に再臨は絶対に確実であること、第二に突如として来るのでいつもここに望みをおいて生きられること、第三に救いに予定されていること(9)をしっかりと自分のものにしなければなりません。
 こうして、目覚めているときでも眠っているときでも、主と共に生きることになる。地上の歩みも、天にあげられし後も同じ生き方です。これが光の子供の生き方です。
 Ⅰテサロニケの手紙の最後のテキストは、1節としておろそかに出来ない教えがちりばめられ、きょうの主題を、どこを主たるみことばにしてよいのか迷ってしまうほどである。
 きょうは16節の、有名な聖句に目をとめて全体について考えて見よう。この常に喜ぶ生き方は主にあって、神様があなた(あなたがたというけれども)に直接的に望まれた歩みです。喜べという勧めはいろいろの機会に出会うけれども、「いつも」となると困ってしまう。人間的に喜べることもたくさんあるけれども、どんな時にも、と求められると、実際に立ち往生してしまう。いつも喜べるのだろうか。気分爽快な日だけでなく、ずぶぬれになって泣きながら家に飛び込む日だってあるのです。でも、この句はいつもあなたの前に立ち続けている。石碑なら、立ち去ればすむかも知れない。でも今日一日もこの句が常に、心に叩いて離れない。
 23~25節に、その『いつも』という課題にそえるための秘密が隠されているように思う。平和の神がそのことを完全にしてくださるのです。祈りによって出来るのです。

主題 <どのように歩んで神を喜ばせるか>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一4章(2011年11月30日)

今日のみことば「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」 (1)

私たちは、神を大いに喜ばせることができるのです。私たちの歩みによって神さまを微笑ませられるのです。神さまが満足なさるのです。
いったい、そういうことを本気で考えたことがあったでしょうか。いつもびくびくと神様に叱られはしないかと恐れてこなかったでしょうか。
どんな生き方が神を喜ばせるでしょう。 第1に、聖い生き方です。(3~8節) 聖い生き方とは、神様のために自分を捧げるのです。むずかしいことではありません。神を知らぬ異邦人には難しく、いや不可能です。でもあなたは、神を知り、救われているので、自分を思いきって「神さま、私を使ってください。」と祈ってください。不思議に罪の力から自由になるのです。
第2に、兄弟愛の生き方です(9~10節) 互いに愛し合うことは、人からでなく神から学ぶのです。(マタイ22章)
第3に、落ち着いた生活です(11~12節) パウロはキリスト者としての仕事への取り組み方について、一般の人へのあかし、自分の生活のため労働を重んじたのです。
 神を喜ばせる生き方は、パウロから学び(1)、神から学ぶ(9)。具体的なことをこの箇所からじっくり考えて見よう。
<祈り>主よ。このような者を滅びの中から救い出して、神様を喜ばせるよ うに召してくださったことを深く感謝します。

主題 <あなたがたと私>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一3章(2011年11月29日)

今日のみことば「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。」(6)

 人は交わりによって育てられる。健やかな交わりは健やかな人を造り上げる。病む交わりは、病む人を育て上げる。健康的な交わりを学ぼう。
 キリストの信仰によって強められ、励まされる(2節)なら、大きな動揺があっても動かない(3節)のです。
キリスト者にとって師でもあるパウロ先生の苦難は大きなつまずきの材料であったろう。そのために信じていた人々の中に、信仰の後退があるのではないのかとものすごく心配したのです。 できるかぎり信仰の成長のために、信仰の不足を補いたいと切に願ってさえいたパウロの心配は牧者の心です。
 それですから、愛弟子テモテを遣わした結果、教会の人たちの信仰と愛が以前より増している姿を見て、何と言っているでしょうか(7~10節)。 あのパウロ先生さえ心配でたまらぬことがあり、信者の揺るがない歩みに小躍りしている姿を見るときに、人は交わりによって生きるのだなと思う。
あなたの今の信仰の歩みは、あなた一人の人生では決してない。今もあなたのために祈っている人がここにいるのですから。
<祈り>天の父なる神さま。主にあるあの兄弟の信仰の不足がありますなら、なんとかして熱心に補いたいと祈ります。私を愛の教会の交わりに常にとどまらせてください。ア-メン 

主題 <母がその子を養い育てるように>

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一2章(2011年11月28日)

今日のみことば「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(7)
 偉大な使徒パウロがテサロニケに福音を宣教し、素晴らしい教会を生み出し(使徒17章)、育ててきた事実と動機と方法を語ります。
 福音の事実と福音に根ざした動機と福音による方法を思い出して、牧師と信徒の強いつながり改めて再確認し、信仰の中心を見失うことないように勧めるのである。私たちは当初の信仰をしばしば見失って、周辺のことに心を奪われやすいのです。
 このようにして、パウロは牧者と信徒の中に見られやすい困難を見事に克服している。多少ギクシャクした問題や関係の中から、かえって本来のキリスト教会の原点を見据えるように導き、これから語ろうとする大切なメッセージを明らかにし、それが捨てられてしまわぬようにと配慮したのです。
 6節には「使徒として権威を主張することもできたのですが」と、ちゃんと自分がどういう者か明らかにする。そのような権威を使徒としての立場で押し付けずに、母がその子を養育し、自分のいのちまでも与えたいほどの愛を注いできたのです。父が自分の子に対するような教育の仕方のように、教会員を育て上げていったのです。
 この働きの動機さえ神様がご存じであるという。神様の栄光のために費やされる努力、愛、涙、祈り、牧会、何という崇高なのであろうか。そして伝道と牧会と祈りが、少しも妨げとならず、祝福を分け合うのです。
 パウロがテサロニケの信者たちをどんなに喜び、たえず感謝していることか(13節)。15節は「神に喜ばれず」にいる人について語る。一方、誉れともなり、喜びとなる(19、20節)ように分けるものは何だろう。13節にその答えがある。
 パウロのメッセ-ジを聞いたとき、人間の言葉として聞かなかった事です。第2は、「事実どおりに神の言葉として受け入れてくれたからです。」という。なぜか。1つはパウロを受け入れたゆえです。パウロを受け入れることは神を受け入れることに通じる。2つ目は、神の使信を受け入れてゆくので、神の恵みの働きが生活の中に実を結んできているのです。人から語られているみことばが、神の言葉として受け入れられる。人の心の柔らかさ、敬虔さ、信仰深さこそ喜ばれるカギなのである。

2011年11月23日 (水)

主題 <信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐> 

聖書箇所 テサロニケ人への手紙第一 1章(2011年11月27日)

今日のみことば

 テサロニケ前書は、キリストの使徒パウロの初めて書き残された書簡であるとともに、新約聖書の最初の書物である。この書は、パウロが第二次伝道旅行で生み出されたテサロニケの教会に、ギリシャのコリントへ行ってから幾つかの問題を耳にして書いた手紙です。
 一つはキリストの再臨が近いので働かなくていい(4~11)とか、死んだ者は再臨にあずかれないので悲嘆にくれている人(4章13~)などへの解答も与えている。
 初めてテサロニケに行き伝道したのは、言葉だけによったのではない(5節)のであり、力と聖霊と強い確信によってなされたと語る。そして、福音を証しするのにどのようにふるまったことがよく覚えられていた。こうした中ではっきりと主を受け入れた教会員たちは内側から変えられ、その素晴らしい証しはヨ-ロッパの東部に響き渡ったのです。
 それゆえに、異邦人が神を信じたので、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐の素晴らしい3つの実を結んだのです。
信仰は、働くことで実を結び、眠ってしまうと枯れてしまう。
愛は、心のうちにしまっておくのではなく、労苦を伴ってはじめて意味があるのです。望みは、現実の状況の中で押しつぶされないで、忍耐して結実を待つのです。
 私たちの内なる実はどうでしょうか。
<祈り>主よ。あなたを信じて以来、実を結び広がり続けるキリスト者にしてください。ア-メン。

主題 <祈り支え合う交わり>

聖書箇所 コロサイ人への手紙 4章(2011年11月26日)

今日のみことば「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(2)

パウロはコロサイ教会の信徒たちにこの手紙を終えるにあたり、祈りの要請をしています。それはパウロ自身が祈りをもって宣教活動にあたっていた中で、最も重要なことであることを自らの経験としても学び、それをコロサイ教会の人々にも同様に教え勧めるたのでした。
 5節「機会を十分に生かして用いなさい」との勧めを今日の私たちもしっかり受け止めていきたいと思います。これは文字通り、与えられている時間、チャンスをいつどのような時にも無駄にすることなく用いるようにという勧めです。このことを福音宣教の拡大のために祈って欲しいという文脈の中で語られています。祈りから始まり、私たちの振る舞い、行動のともなった証しを用いて今日も福音は伝えられていくことを覚えていきたいと思います。
コロサイ人への手紙の最後のパウロのあいさつの部分では、投獄されているパウロをはじめ、共に労している同僚者などの消息の情報を交換しています。パウロは自分の消息を伝えるためにテキコを派遣しています。伝達者を通して大きな励ましをえるために派遣しました。アリスタルコ(10)はパウロと共に投獄されていたテサロニケ人でしたが、彼がコロサイ教会の信徒たちに挨拶をおくっています。このことは人種の越えて、主にある交わりが大きな励ましになることを示しているととらえることができると思います。
今、私たちも、海外に遣わされている宣教師をはじめ、人種を越えて福音が伝えられ、働きがなされている中に、いくつかの祈祷課題があるのを覚えます。今日、私たちも祈りの課題を共有し、情報交換が継続されていく中で、広く交わりを深め、支え合うことが出来るように祈っていきたいと思います。