2011年11月 3日 (木)

主題 <信仰によって義とされたアブラハム>

聖書箇所 ローマ人への手紙 4章  (2011年9月26日)

今日のみことば「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」(16)

 パウロは「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」(3)と言われているように、彼の信仰によって義と認められたことを述べ、さらに16節に言われているように、アブラハムの信仰の信仰にならうように勧められました。アブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょう。
 第一に、アブラハムは、死者を生かし、無い者をある者のようにお呼びになる復活の神を信じる信仰でした(17)。第二に、アブラハムの信仰は、神の約束を「望みえないときに望みを抱いて信じる信仰」でした(18)。
 特に、「望みえないときに望みを抱いて信じる信仰」について、考えさせられます。アブラハムは妻のサラが非常に高齢となっていたため、もう子どもを望むことなどできない、子孫をえるなどできはしないと普通ならば考えられる状況にあって、しかし、神はアブラハムに子孫を与えられるという約束を信じました。置かれている状況からすれば、その約束を捨てて、失望しているということもありえたでしょう。しかし、アブラハムは信仰が弱るどころか、ますます強められて(20)、神の約束を待ち望み続けたのでした。この信仰を神は見ておられ、その信仰によって義と認められたと言われています(22)。
もしかしたら、信じるということが信じる行為という行いの一つのようにとらえてしまい、やみくもに信じることが大事というようになってしまってはいけません。信仰を考えるとき、何を信じているかということが最も大事なのです。パウロは「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」(24)信仰が義と認められると言われました。主イエスこそ、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで、よみがえられたお方であることを明確に信じる信仰が私たちに救いを与えて下さることを感謝しよう。

主題 <価なしに義と認められる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 3章  (2011年9月25日)

今日のみことば「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(24)

パウロは神の御前にすべての人が罪人であることを旧約聖書の引用から確認するように教えられた。
 10~12節は詩篇14篇1~3節、53篇1~4節の引用で、「義人はいない。ひとりもいない。」とあるように、すべての人が例外なく罪人であることが言われていました。13~14節は詩篇5篇9節、10編7節からの引用で、「舌で欺く」とあるように、発する言葉によって罪を犯すことが言われていました。15節~17節はイザヤ59章7~8節からの引用で、「血を流すのに速く」「破壊と悲惨」とあるように人の行いの罪が言われていました。18節は詩篇36篇6節の引用で「神に対する恐れがない」とあるように、神を恐れることをしない罪について言われていました。
 これらの人間の罪の現実にあって、律法は「罪の意識が生じさせる」(20)役割を担っていたことに触れて、律法を守ることが救いではなく、また、律法を守り行うことが出来ない人間の深い罪深さを示されました。
 しかし、すべての人は罪を犯したという現実を受け止め、しかし、今は律法ではなく、キリストによって救いの道が示されていることを明快に教えられました。
 今日も同様に、律法(みことば)によって、自らの罪が示され、救いの必要を一人一人の心のうちに生じさせ、その罪の赦しを与えて下さる本当の救いをもたらしてくださるイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって救われるというこの救いの恵みに感謝したい。この救いは、人種を越えて、行ないを越えて、今、キリストを信じるすべての人に価なしに与えられる恵みであることを感謝したいと思います。

主題 <心の割礼>

聖書箇所 ローマ人への手紙 2章  (2011年9月24日)

今日のみことば「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(29)

 ユダヤ人たちは、自分たちが選びの民であり律法が与えられていることを自負していました。そのため、律法を持たない異邦人をさげすみ、自分たちが優れたものであると考えていました(19-20)。
 しかし、律法を与えられ、選びの民との自負していた彼らユダヤ人こそが律法に違反した歩みをしてきたことをパウロは指摘しました(21-23)。
 そのような指摘に対してユダヤ人たちは「私たちには割礼がある。」と主張するであろうことを指摘し、この割礼のその本来の意味に触れて語っていきます。それは、割礼をほどこしていてもユダヤ人が律法に背いているなら、その割礼は価値がなく、無割礼に等しいこと。外見的な割礼を受けている、受けていないかが重要ではなく、神に選ばれた者としてふさわしく、律法に従って生きているかが問われるのであり、その律法に従って歩んでいることの証しとして割礼があることをパウロは主張しました。
 それ故に、割礼を受けていなくても、福音を信じる信仰によって、キリストにあって救われるのであり、割礼をほどこしてなくては救われないというような行いを強制することは本来の律法の働きでもなく、神の救いの恵みを曲げてしまうことであることを今日の私たちも改めて注意しなくてはなりません。
 パウロは形式的な外見上の割礼ではなく、「御霊による、心の割礼」(29)こそが重要であることを教えられ、また、これは神からの賜物として与えられていくことを教えられました。
 今日、私たちは福音のみことばを聞き、キリストを救い主と告白する信仰によって、神の恵みによって救われていること、この救いの恵みは自らの行いによるのではなく、神からの賜物として与えられていることを覚え、主に感謝する一日を歩みだしていきたいと思います。

主題 <交わりが深められていくことを願って> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 1章  (2011年9月23日)

今日のみことば「というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(12)

ローマ人への手紙は、使徒パウロが、起原7年頃に、第三次伝道旅行の途中、コリントの町に滞在している間に、ローマ教会を覚えて書き送ったものと言われています。パウロは伝道旅行の最中に、当時の世界の中心とも言われるローマに渡り、福音を伝え、いくらかでも実を結びたいと願っていましたが、まだそれはかなわないでいました(13)。
パウロがローマへ行くことを熱望している理由に、「御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいから」(11)と言っています。また、その御霊の賜物を分け与えていくことと共に、「互いの信仰によって、ともに励ましをうけたい」(12)と言っています。ここに、パウロはローマ教会の信徒たちに指導的な立場で教え、賜物を与えていくという一方的なものではなく、互いに交わりをもち、分かち合う中で、御霊の賜物を分かち合うことになるということを言っていることに注目したいと思うのです。
御霊の賜物は個人の賜物と言うよりも、教会にあって、神が各自に与えられた賜物であり、それは福音宣教のため、教会の建て上げのために用いられるべきものであることを教えてくれていると思うのです。ですから、逆に言えば、教会における兄弟姉妹の交わりが豊かにされていくと共に、互いの御霊の賜物を認め合い、さらには有益な働きに用いられていき、結果として教会の成長につながっていくということを改めて覚えていきたいと思います。
パウロはコリントの町でまだ会うことのないローマ教会の信徒の方々を覚え、互いに交わりを深めていきたいと願い、それは世界宣教の大きな前進につながると考えていたのではないかと思うのです。
私たちは意外に日本にいて、日本のことばかり、まして今住んでいる町のことで終始していないでしょうか。今年は東日本大震災があって、東北の地にて地道に宣教していた教会の群れがあったこと、そこに今なお震災の復旧、復興と共に、福音宣教と教会の再建のために労しているキリスト者の群れがあることを知り、そこに共に協力していこうという輪がひろげられています。共に交わりを深め、祈り、この時に福音を前進させていけたらと祈ります。

主題 <ついにローマに> 

聖書箇所 使徒の働き 28章    (2011年9月22日)

今日のみことば「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」(16)
今日は、ついにパウロがローマに到着したことを記している。世界宣教への情熱は、当時の首都ローマへの宣教をめざしたのです。このローマでは、他の町のようにユダヤ人たちが迫害の急先鋒になります。しかし臆することなく、主の十字架と復活の福音を明瞭に語ります。ある人々は徹底して対抗しますが、イザヤ書の預言を引用して主の御手にゆだねてゆくのです。
主のためにいのちをかけたパウロの前には、だれも立ちはだかる存在はないのです。ユダヤ人も、ローマ人も、権力者も、何も恐れることがなく、生きたのです。マルタ島において、まむしの毒にかまれても、いっこうに恐怖に支配されません。このことによって、かえって神のように人々はあがめることにさえ変るのです。
福音伝道教団もまた宣教初期から地方の中心となる町に宣教を開始して行きました。それから地方へと拡大したのです。
ローマ人への手紙では、イスパニア(スペイン)まで行く計画を述べていました。イスパニアは当時の地の果てです。主の計画は、どのような障害があり、ひどく人間的な取り扱いがあっても、結局進むのです。
このローマで自費で借りた家で、自由に、主イエス・キリストのことを伝えたのです。そして次の書がローマ人への手紙となっているのです。使徒の働きの主要な地域、教会については、ローマ人への手紙から以下の書物を読むことで、全体が浮き彫りになってきます。
もし、使徒の働きが聖書に残されなかったら、もちろんそんなことはないのですが、キリスト教会の今日はないのです。著者ルカにことのほか感謝を献げるのです。

主題 <囚人が船長のように> 

聖書箇所 使徒の働き 27章    (2011年9月21日)

今日のみことば「ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」 (34)

 この章は、パウロを乗せた船がローマへ向かう地中海の記事です。地中海はローマ軍にとっては庭のような場所です。どこの航路をとるか、十分に熟知しています。時折やってくる嵐や季節風など、帆船で巧みにあやつって前進するのです。
 パウロのいた80年ほど前には、有名なエジプトのクレオパトラやジュリアス・シーザー、アントニオなどの支配者たちがこの海を駆け巡って戦ったのです。
 パウロは囚人としてローマ兵に監視されての船上生活でした。しかし、神の人はこの囚人でありながら、まるで船長のように、救いを指導することとなります。
 パウロは神の助けを見ることができると確信しています。なぜなら、神の導きによって必ずローマに行くことを信じていたからです。そして沢山の船旅を重ねていたので、知恵があったのでしょう。Ⅱコリント人への手紙11: 25「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」と語っています。
 ちょうど、主イエスさまが、ガリラヤの湖上を漁師だった弟子たちよりも熟知されていたように、パウロもこの場面で神に立てられていたのです。
 危急にも関わらず、食事をすることを勧め、ひとりの生命も失われることがないように励まします。髪の毛一筋も失われない、と確信しています。主が何も思い煩うことなく、神を信じることを教えたようにです。
 私たちは、いったん緩急ことあるときには、大胆なパウロにならいたいのです。家庭では自分の権限がなにもないと思っている人も、職場での立場が低いようでも、神のみこころを確信して語らなくてはならない場面があるでしょう。今日の箇所を何度も読み返したいのです。

主題 <暗闇から光に> 

聖書箇所 使徒の働き 26章    (2011年9月20日)

今日のみことば「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(28)

 パウロの自分の歩みを回顧する三度目の証言です。迫害していたキリスト教、その主であるイエス・キリストに出会い、大変化を遂げます。そのときに示された重要な主からの託宣が、18節です。
 神はパウロに重要な使命を明らかにされたのです。ユダヤ人に対して、そして異邦人に対する使命について四つの内容を展開するのです。
第一に、「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に」導くことです。罪の中に生きる私たちに、福音の光を差し込み、罪のゆるしと解放を告げるのです。
第二に、「サタンの支配から神に立ち返らせ」る福音です。神を信じていない人々はみな、サタンの支配下に置かれているのです。キリストの福音は、悪魔の力を打ち破り、暗やみの支配から解放します。
第三に、「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」るのです。福音の中にある罪のゆるしほど平安と自由をもたらすものはありません。
第四に、「聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」信仰を持たないときは、神の御国から異邦人でした。しかし、神の子どもとして新たに生れた日から神の栄光の御国を相続する特権を得たのです。

主題 <カイザルに上訴します> 

聖書箇所 使徒の働き 25章    (2011年9月19日)

今日のみことば「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」(11)

 パウロを取り巻くユダヤとローマの支配者たちの権力と欲望とが明るみに出されます。フェストやユダヤ指導者といわれる人々です。歴史も著名な王たちによって記録されているように思いますが、国木田独歩がいうように、平民こそ歴史なのです。
こうした中で、パウロは第一に、悪いことをして罪に問われるなら逃れようとはしないと語ります。信仰者が振るわれるのは、人々の動きに目がくらむからです。ですから一つの決意をしておきましょう。それは友を沢山作りましょう。でもその中でだれかに追随したり、派閥に入って身の安泰と思ってみても、かえって落とし穴に陥るからです。会社やグループにおいて考えておく必要があります。
第二に、ねたみからパウロを訴えている人々には、根拠がないことを明らかにします。たしかに指摘したり、論拠とする点が正統に見えても、動機が違うのです。この地上の世界は、政治の世界も、至る所に支配したがる人がおります。嫉妬や権力欲の姿が浮き出てきます。
第三に、最善を選択する道を祈り求めましょう。直接に対決したり、論争したりすることはやめましょう。「私はカイザルに上訴します。」と決めたのです。こうして不思議な節理の中で世界宣教が進み、ローマにまで、さらにはイスパニアにまでも伸びて行きました。
私たちはこの地上の人々、それがどのような立場の人々であったとしても、人間的なやり方を捨てると、神による新しい道が用意されるものです。

主題 <パウロの宣教から学ぶ> 

聖書箇所 使徒の働き 24章    (2011年9月18日)

今日のみことば「この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。」(5)

大きなたらい(今の若い方々はわかりにくいのですが、洗濯する大きな木の桶)の水を小さな指で動かすことができるだろうか。でも熱心にまわし続けると、たらい全体をまわせるのです。
 パウロは、たった一人ですが、世界を福音の恵みでかき回したのです。主の恵みは、驚くほどに強い影響を与え続けます。
 その評価が伝染病のペストのようだというのです。ユダヤ人は、常日頃は宗教の律法を最も神聖なものと教えていましたが、実際の問題になると、この世の基準で訴えを起こしたり、人々を煽動するのです。こうした二重の基準を持つ、ダブルスタンダードな人々が沢山います。キリスト教を抹殺するためなら、滅ぼすためなら、ローマ帝国の権力も、ユダヤ王の権威も用いたのです。
主はパリサイ人の教えることはしなさい、しかし、彼らのすることをまねるな、と教えました。
 それにしても、パウロの燃える宣教には、多くのことを学ぶことができます。第一に、信仰のことについていつでも弁明できる用意をしていることです。もちろん、主は王たちや権力者の前で何を言うか心配しないでいい。言うべきことは聖霊が導かれることは事実です。しかし、論理を正し、説得に努めることも大切です。
 第二に、府の中心であるイエス・キリストの十字架と復活を明瞭に語るのです。ある人々は十字架と復活は信じがたいと思っているかも知れません。しかし、こここそ福音の中心です。恥じることなく、主の証人として語る者でありたい。ローマ人への手紙1章15-16節。

主題 <勇気を出しなさい>

聖書箇所 使徒の働き 23章    (2011年9月17日)

今日のみことば「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(11)

 私たちは牧師や伝道者は疲れを知らない人々だと思ってしまうことがあります。困難な取り扱いや迫害にも十分に耐えられる強靭な精神力と信仰の力が備えられていると思いやすい。
 しかし、パウロが書いていますが、「だれかが弱って、どうして耐えられよう」と。現実の困難にだれよりも感じやすい人々なのです。もちろん、例外はありますが。
 でも、主が『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』(ヨハネの福音書4章32節)と弟子たちに語られているように、クリスチャンには信仰のない人々には理解のできない恵みの源泉を持っているのです。それは、主のみことばと聖霊です。
 パウロは、いつも主からの語りかけを聞くことができたのです。救われるダマスコ途上の上から(9章)、海外宣教に派遣されるときにも(使徒13章1節)、ヨーロッパへの宣教への導きも(16章9節)、絶えず神のみことばと聖霊に導かれる生涯だったのです。この神からの個人的な語られるみことばこそ、勇気を増し加え、困難を恐れずに前進させたのです。
 今日、神はパウロと同じように、「勇気を出しなさい。」と