2011年11月 3日 (木)

主題 <互いの霊的成長を求めて>

聖書箇所 ローマ人への手紙 14章(2011年10月 6日)

今日のみことば「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(19)
1節に「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。」とパウロは言われました。教会に集う人々にはさまざまな背景をもった人々が集います。特に、弱さを持つ人に配慮していくように勧められました。当時のローマ教会には、社会的弱者の人も弱い人ととして指していたと思われるが、それだけでなく、当時の世界の中心地ローマと言うことで、さまざまな人種、文化、価値観を持った人々がいて、さまざまな考え方の人々が教会に導かれていくという中で、信仰的にまだ未成熟の人がおり、そのような人を指して弱い人と言っていたと考えられます。
ローマ教会の信徒の中に、食べ物のことや特定の日を守ることなど、まだ律法を重んじる人々など様々人々がいた(2、5)。そのような人々を見て、さばく人々もいた(3~4)。このような状況に対して、パウロは安易にさばくことをしないように勧め(1)、互いに受け入れあうように勧めました。パウロは、それぞれの人々がキリストにあって導かれてきた人であり、だれもが神にさばかれるという点においては同じものであることを知らなくてはならないことを示されました(10)。
私たちもこれまでの教会の歴史、そこで行われてきたことなで、一つ一つは大切なことですが、意外とそのことが人を遠ざける、排他的な価値観となってしまい、受け入れ合うということを忘れさせてしまっていないかと思わされることがあります。自分の設けた基準で人との交わりを規定し、場合によっては人をさばくこととなってしまうならば悲しいことと思いませんか。
むしろ、さまざまな個性を持った人々が共に集うようになっているということは奇跡的なことであり、神様はそのような出会いを備えて下さり、神の家族とされようとしてくださっていることを覚えるならば、これほどすばらしいことはないとも思うのです。
何を食べるか、飲むかと言う議論ではなく、「平和に役立つこと」と「お互いの霊的成長に役立つこと」を追い求めていくことが大切であることを教えられました。私たちの教会における交わりも違いをさばくのではなく、そのような違いをも含めて導かれてきた一人一人を受け入れあい仕え合うことによって生きるキリスト者として歩んでいけるように祈りましょう。

主題 <世の終わりを意識して生きる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 13章(2011年10月 5日)

今日のみことば「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 (14)

 13章では、パウロはこの世に対して注意すべきことを勧めました。
 1~7節では、この地上における権威に対して従うべきことを勧められました。パウロがこの地上における権威に従うべきであると勧められたその前提として、この地上のすべてを造られたのは神によって創造されたのだから、地上に存在する権威は神によって立てられたと考えていたことが伺えます。そして、為政者に従うのは恐れからではなく(3)、神のみこころに基づいた良心のためにも従うべきであることを教えられました(5)。
 8~10節では、互いに愛し合うことを勧められました。キリスト者は社会的義務を果たすのみならず、互いに愛し合うことをもってこの世に証しし生きていくべきであることを教えられました。
 11~14節では、終末の時代に生きているという自覚を促されています。パウロは、「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」(12)と言い、さらには、「主イエス・キリストを着なさい。」と勧められました。キリストの再臨が近づきつつあることを意識し、その時に備えて、キリスト者は目覚めた行動をしていくこと、それは闇の生活とも言うべき、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」から離れ、昼間らしい生き方という正しい行いの実践をしていくようにと勧められました。
 私たちは、パウロの言うような世界観、価値観を持って生きているだろうかと改めて問い直していきたいと思います。そして、終末の時代に生きているという意識を新たにさせて頂き、この世に証しの伴った愛の実践をしていく生き方に変えて頂けるように祈りましょう。「主イエス・キリストを着なさい」とのこの勧めのみことばにふさわしく生きる者とされるように祈りましょう。

主題 <主にささげ、主の愛に教えられ生きる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 12章(2011年10月 4日)

今日のみことば「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(1)

 12章以降は、パウロが救われた者がどのように生きていくべきか、具体的な勧めがなされている。
 1~8節では、キリスト者がすべてをささげて生きていくべきことを教えられました。キリストを信じ罪赦されたた者は、この世と調子を合わせることなく(2)、すべてを主にささげて生きていくことがキリスト者としてふさわしい生き方であることが勧められている。また、キリスト者一人一人に恵みによって与えられた賜物を用いて互いに仕え合うことが勧められている(6~8)。
 9~16節には、キリスト者同士の交わりについて教えられている。パウロは「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」(10)と言い、どのような場合でも互いの交わりにおいて愛をもって仕え合うことを勧めました。
 17~21節では、キリスト者以外の人々に対する交わりの在り方について教えられている。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(17)、「すべての人と平和を保ちなさい」(18)と勧めているが、当時、キリスト者に対する迫害が少なくなかったと思われるが、たとえ悪で向かってきても、悪で返すのではなく、善をもって、むしろ仕えていくことこそが、キリストにあって新しくされた者としての生き方であることを教えられました。
 これらのパウロの教えられたキリスト者としてふさわしい生き方としての実践の数々は、よくよく考えてみると主イエスのうちに見られたものであったことを思い起こされます。そして、その一つ一つの実践は愛なくして実践できないことであることを改めて示されるのではないでしょうか。
 私たちは、具体的に教えられているこれらのことを実践していくためにも、キリストの模範にならい、キリストの愛の故に赦され救われた者であることを感謝し、その愛に満たされている中で、互いに愛する、仕え合うことができるように祈っていきたいと思います。

主題 <あなたの上にあるのは、神のいつくしみです> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 11章(2011年10月 3日)

今日のみことば「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」(22)

 1節「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。」との問いに、「絶対にそんなことはありません。」と言い、パウロ自身もかつて、イエスを信じる者たちを迫害し、多くの罪を重ねてきた自分が、神のあわれみの故に救われたのだから、イスラエルの民も神の御救いから退けられてはいなと語り、救いの希望を示されました(1~6)。
 パウロは同胞イスラエルの民が救われる希望について、2つのことを例に説明しました。一つは、16節に言われている「初物」を神にささげることによって、粉の全部がきよいとされたことをあげ(民数記15:17~21参照)、この場合の「初物」とはアブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先人たちをさし、「粉の全部」とはその子孫であるイスラエルの民をさして言われたことでした。もう一つは、野生種のオリーブが接ぎ木されることをあげて、イエスを拒否したイスラエルの民はおられた枝にたとえられ、イエスを信じて救われた異邦人は根に接ぎ木された野生種のオリーブの木にたとえられており、つまりは不信仰によって折られてしまった枝のようなイスラエルの民は、オリーブの木が接ぎ木されることによって、再び根から栄養を得るように、異邦人が救われることによって、イスラエルの民も神の救いにあずかる余地が備えられたということを意味していました。
 これらのイスラエルの民に対する希望を語った後、パウロは異邦人キリスト者であるローマ教会の信徒に対して、「高ぶらないで、恐れなさい」(20)と勧めました。イスラエルの民も、異邦人の民も、どちらも今は信仰によって恵みにより救われたということを改めて確認するように勧めました。どちらの民でもなく、比較して優位性によって救われているのでもなく、ただ、神のあわれみによること、そのあわれみの中にとどまっていることが救いの確証であることを教えられたのでした。私たちも主のあわれみの中にへりくだって主を恐れる者として歩みましょう。

主題 <主の御名を呼び求める者>

聖書箇所 ローマ人への手紙 10章(2011年10月 2日)

今日のみことば「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」」(10)

 パウロは「律法による義を行う人は、その義によって生きる」(5)とあるが、しかし、律法を完全に守り行うことによって救いを得ることはだれにもできないことをこれまで語ってきました。そして、「キリストが律法を終わらせられた。」(4)と語り、律法を守り行うことによって救いを得ようとしたイスラエルの民に対して、キリストは律法を行うということによる救いを得ようとすることに終止符をもたらされたと言いました。律法と変わって、主イエスを信じる信仰によって義と認められるようになったこと(4)、これこそ救いの道であり、大きな恵みであることを語りました。
 今や示されたキリストの福音を「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10)とあるように、信じて、キリストを救い主と告白する信仰だけでよいという恵みの時代に生かされていることを改めて感謝したいと思います。
 パウロは異邦人宣教に派遣され各地に主の教会が設立していくのを見ていきますが、その一方で同胞イスラエルの救いのためにとりなしていました。律法を知らない異邦人たちが救われていったことを通して、律法に代わりキリストの福音を信じる信仰こそが神の救いにあずかる唯一の道であることを明らかにされていることを説得するように語ったのでした。
さらに、14~15節において、パウロは、キリストの福音を信じ、主の御名をほめたたえるように至る4つの段階について語りました。それは、福音を信じるようになるためには、まず、福音のために派遣されること、つぎに、福音を伝えること、次に、福音を聞くこと、最後に福音を信じることを示されました。
 パウロはキリストの福音を信じるために、派遣、伝道の重要性を語っています。そして、今日もこのキリストの福音のために遣わされる人の必要があることを覚えます。しかし、この日本だけを考えてみても、福音を伝えるために派遣されていく人が十分に備わっているとわ言えない状況が続いています。だから、福音を伝えていく人々が起こされ、多くの人がまた福音の届いていない地に派遣されていくようになることを切に祈っていきたいと思います。

主題 <あわれみの器によって>

聖書箇所 ローマ人への手紙 9章 (2011年10月 1日)

今日のみことば「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(16)

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言ったパウロはここで、9章から11章において同胞イスラエルの民の救いについて記していきます。パウロは異邦人宣教にばかり目が向いていたのではないかと思わされるが、3節「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言うほどに、同朋イスラエルの民が救われることを願っていました。
 ここで、私たちも同胞である日本人のために、私たちの近くにいる隣人のために、友人、家族の救いのためにどれだけ祈っているだろうか。パウロは同胞イスラエルの民が救われるためならばのろわれても良いと言いました。ここには、パウロのなんとも深いあわれみ、愛が示されています。私たちが本当に隣人の救いを求め、祈っていくならば、パウロのように愛に基づく重荷をもっていかなくてはならないと思うのです。
 19節から、パウロは陶器師と器を例に語り始めます。陶器師とは土から意のままに器を造り、その器を選び取る権利を持つように、神は人を選び取る権威を持つ方として語られ(20~21)、器については、「怒りの器」(22)と言われているのは、イスラエルの民が神に背いている故に、滅ぼされて当然のような状態を示していたが、しかし、神は「豊かな寛容を持って忍耐して」(22)、器を砕かれることなく保っていてくださっていることを今の同胞イスラエルの民の状態であることを語りました。
 あわれみ深い神は「あわれみの器」をあらかじめ用意されたことが言われているが(23~24)、この「あわれみの器」とは、イエス・キリストを信じる者たちを指しており、この人々によって、神のあわれみは明らかに示され、同胞イスラエルを導いてくださるということにパウロは大きな希望を抱いていました。
 そして、今日、私たち一人一人が「あわれみの器」として残されているということ、そして、主の救いの御業のために残されていることを覚えたいと思います。今日、共に主のもとに導きたい方のことを覚えてお祈りをささげましょう。

主題 <神の愛による圧倒的な勝利>

聖書箇所 ローマ人への手紙 8章  (2011年9月30日)

今日のみことば「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37)

パウロは律法によって罪示されていくという罪との戦いとの葛藤に勝利していく希望を語られました。一つは、主イエス・キリストによって私たちの罪が贖われているということ(3)であり、二つ目に、神の御霊がキリストを信じる人々のうちに住んでくださることによって(9)、この地上における罪との戦いに勝利していくことが出来ることを教えられました。
特に、神の御霊と呼ばれる聖霊の働きによることを明確に示されました。私たちは、時として、激しい肉との戦いの中で、どうしたらよいのかさえ分からなくなってしまうことがないだろうか。何を祈ったら良いのかさえ分からなくなってしまうほどに弱い者である。そのようなとき、聖霊は言いようもない深いうめきをもって私たちをとりなしてくださると言われている(26~27)。
私たちが罪の現実の中でさいなまれているそのただ中でさえ、聖霊によって、私たちは主にある戦いをさせて頂いていることを改めて覚えたいと思います。そして、すべてのことを働かせて益へと変えて下さる神に信頼して歩んでいきたいと思います(28)。
パウロ自身、非常に困難な中を歩んで人でしたが、しかし、パウロはこの地上にありながらも主の栄光を仰いで望みをおいていました(18)。そのパウロがこの地上にあって、非常に強い確信をもって歩んでいたことが、31~39節に言われていることから分かります。
特に、35節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」とさまざまな困難の中であっても、キリストの愛から離すことはできないと言いました。(37、38)。キリストの十字架にあらわされた神の愛は何物にもまして私たちを救い、恵みへと導いていることを私たちも同様に告白する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <罪を示されて> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 7章  (2011年9月29日)

今日のみことば「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(24~25)

7節に「律法は罪なのでしょうか。」との問いかけがある。ユダヤ人たちは、律法を与えられていることを誇り、律法を守り行うことによって神の義とされると考えていた。しかし、実際には誰一人として律法を守り行うことはできず、かえって罪の自覚にさいなまれていくばかりであったことに対して、もう律法は無意味、必要としないのかという問いかけを意識していた。
パウロは、律法がなければ人は罪が何であるかを自覚することができないことを示された(7~11)。律法は罪を自覚させる役割を担っていることに触れて、律法自体が無意味なものになることはないことを教えられました。
そして、さらにパウロは律法を「霊的なもの」(14)であると言い、律法を通して、自らの内面を、罪の現実に深く気づかせてくれていることを証ししていく。14~17節の告白と18~20節の告白はパウロ自身が律法を通して示されてきた真実な告白である。そして、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(14)、「私のうちに善が住んでいないのを知っています。」(18)、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(24)とパウロ自身の告白は、自らの罪深さを知るということで、律法により自らを深く知るように導かれた証しとも言えよう。誰か人に言ってもらうことも有益であるが、やはりみことばを通してはじめて本当の意味で自らを深く顧みることができるのではないだろうか。
パウロは律法により罪深い自分を自覚されていきます。しかし、同時に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(25)と告白し、主イエス・キリストに感謝をささげました。本当にみじめな人間と言う人を確かに救い出してくださるお方は主イエス・キリスト以外におられないことを再確認するように告白し賛美しました。
私たちも、自らを顧みる時、本当に愚かさ、欠けだらけの者であることを思わされるが、そのような者に主イエスは臨み、招いてくださっていることに感謝しよう。

主題 <キリストにあって生きる>

聖書箇所 ローマ人への手紙 6章  (2011年9月28日)

今日のみことば「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」 (11)

 1節「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と言い、神の恵みを豊かに受けるために、罪を犯しても良いと考えることや15節「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう。」と言い、神の恵みのもとにあるのだから罪を犯しても大丈夫というように考える質問に対して、いずれも絶対にそんなことはありませんと完全否定しました。その理由をパウロはバプテスマについて説明する中で教えていきました。
 まず、第一に、3節において、「キリストの死にあずかるバプテスマを受けたではありませんか。」と言い、キリストを信じる者は、キリストと共に死に、葬られ、罪から解放された者であることを確認しました(7)。
 第二に、4節にあるように、復活されたイエス・キリストのように、キリストを信じる者たちは、キリストにある新しいいのちを受け、それにふさわしく新しく歩むのであって、いつまでも罪の中に留まっていくことはありえないことを確認しました(5、6)。
 第三に、8節にあるように、「キリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きるようになる。」と言い、キリストの十字架の死による罪のさばき身代わりに受け、赦された者は、キリストが復活されたように、キリストにあってそれにふさわしく新しく生きていくようになることを確認しました。
 今日、罪赦され救われたキリスト者は、この地上にあって確かに罪の誘惑との戦いがある。しかし、罪の誘惑にあうときに、自分は「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とのみことばにあるように、今や、キリストにあって生きた者であることを思い続けていくことが、この地上にあってキリストにあって栄光の望みを仰ぎ、キリストにあって与えられた新しいいのちに生きる信仰の歩みであるということを覚え、今日も前進させて頂きたいと思います。

主題 <アダムとキリスト>

聖書箇所 ローマ人への手紙 5章  (2011年9月27日)

今日のみことば「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」(18)

 パウロは信仰による義について教えられる中で、その信仰の対象となる主イエス・キリストについて語り始めていきます。この5章では、最初に創造された人アダムとの対比の中で主イエス・キリストがもたらしたものは何かについて教えられました。
 12節以降で、パウロはまずアダムについて語り始めます。最初の人アダムが、神に従わず、その結果罪が世界に入り込み、罪の故に死が入ったことを示されました(12)。そして、全人類は罪を犯し、罪の刑罰としての死の支配のもとにあったこと、このことはモーセに与えられる律法が与えられる前も死の支配のもとにあったことを説明しました(12)。重要なことは、たった一人の人アダムによって罪の刑罰である死に支配され、罪を犯していないという人々さえ、罪の刑罰である死の支配下にあるのだと説きました。
 しかし、キリストは、「アダムはきたるべき方(つまり、イエス・キリスト)のひな型」であると言い(14)、アダムとキリストとの共通点は、一人の人の行為が全人類に影響を与えるという点で共通していることに触れ、特に、15節、17~19節において、キリストは、罪の刑罰による死の支配下にあった全人類に対し、恵みと、神の義と、永遠のいのちをもたらしてくださったお方であると説きました。
 主なる神はアダムの犯した罪に死をもってさばかれなくてはなりませんでしたが、神はみこころのうちにキリストによって、その罪のさばきをキリストに負わせ、十字架において完全にさばかれ、そのことによって、今や罪の赦し、永遠のいのちの恵みを与えてくださったことを力説しました。
 私たちは、罪のさばき、死の支配から逃れられない小さな弱い存在であることを思います。しかし、主イエス・キリストは十字架にかかられ、神のさばきである死を代わりに受けて下さったことにより、この罪のさばき、死の支配から解放してくださったのです。キリスト以外にこの恵みを与えて下さった方はおられません。主イエスの前に罪を告白し、主から赦しと永遠のいのちの恵みを頂くものとならせて頂きたいと思います。