2011年11月 3日 (木)

主題 <主の導きを大胆に語るパウロ>

聖書箇所 使徒の働き 22章    (2011年9月16日)

今日のみことば「パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」」(25)

パウロは、当時のローマ市民権を持っていた数少ないユダヤ人でした。彼自身は、たいていは市民権を盾にして国家権力に抗議をしたり、利益を得ようとすることがありませんでした。ここでは、何度か行ってきた自分のキリスト教信仰の証言をするために、ローマ市民権の行使をする導きが与えられたのです。
 自分に与えられた立場をフルに活用することも主の道具として大胆に用いたことがわかります。神の栄光のために、自分の与えられた恵みの学び、信仰の訓練、祈りの素晴らしい経験をあかしする機会が訪れます。パウロは、自分がユダヤ教の最高学府であるガマリエル門下生として、人一倍ユダヤ教に熱心に仕えてきたこと、その彼に主が現れ、太陽よりも明るい栄光の顕現に接して大転換をしたことを語ります。
パウロは自分の迫害者からキリスト教の伝道者に変った原点を何度も何度も語ります。使徒の働きの中で3回も語ります。
私の尊敬する羽鳥明先生は、10代の頃にM・A・バーネット先生に導かれて、クリスチャンになられためぐみの経験を涙ながらに語り続けます。私自身、何度涙したことだったろう。
あなたの生涯に導かれた霊的な恵みの経験をもっともっと大胆にあかしをされて、主に導きたいと思いませんか。あなたに特別な賜物、立場、経験は、自分のためではなく、自分のためにいのちをかけてくださった、主をあかしする者でありたい。

主題 <神の助けによってできる覚悟> 

聖書箇所 使徒の働き 21章    (2011年9月15日)

今日のみことば「するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。」(13)

パウロが地中海岸にあったカイザリヤの聖徒たちへの告別メッセージでした。神の御心を確信しているので、人間的な感情で訴えられても、少しも動揺しなかったのです。
 信仰生活で、一つの大きな節目、決断は、自分の過去と現在と将来を神の御手にゆだねることをするのです。M・A・バーネット先生は、この経験を<きよめの生涯>と語り、福音伝道教団の牧師や信徒を導きました。問題のただ中で、私たちのよって立つ立場は、主イエス・キリストの御名のためならば、死ぬことさえ覚悟している、という信仰を貫徹したいのです。
 もちろん、初代教会の聖徒たちも、殉教する火刑の前夜、ローソクに小指をかざしたときに、あまりの熱さに手を引っ込めてしまったそうです。しかし、一番年少だったこの青年牧師が、だれよりも勇敢に死に臨んだのだという記録があります。
 自分の決意や熱心ではなく、神の助けによってできる覚悟、信仰の決断を時に迫られることが起こります。クリスチャンであるゆえに、家族や町内、職場での困難があるでしょう。しかし、信仰によって一貫して生きるときに、周囲が変ってきます。私たち自身が変えられていくのです。

主題 <神とその恵みのみことばにゆだねる> 

聖書箇所 使徒の働き 20章    (2011年9月14日)

今日のみことば「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」 (32)

 パウロは、エペソの長老たちに遺言のように恵みのことばを託するのです。主の導きによってアジアに宣教し、ことにエペソには長期間滞在して、人々を福音化していきます。救われた信徒たちは、ある者は献身して伝道者、長老となり、教会の牧会に専念します。ある者たちは忠実な教会員としてエペソ教会の発展と宣教に邁進します。多くの問題があったでしょう。迫害もあったでしょう。しかし、主イエス・キリストの愛に救われた兄弟たちはパウロの期待に十分に応答する者でした。
 20:24 『けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。』と語っているのは、このエペソの聖徒たちの信仰生活を示していると言っていい。
 そして、この信仰を持った聖徒たちについて、神と恵みのみことばにゆだねるのです。
この神のことばこそ、聖徒たちを育成し、成長させるのです。蒔かれた小さな種が、どの野菜よりも大きくなるのです。
 さらに神の御国を受け継ぐすばらしい将来が待っています。パウロの全力を注いで、いのちをかけた宣教に大きな満足を語りました。

主題 <宣教の拡大> 

聖書箇所 使徒の働き 19章    (2011年9月13日)

今日のみことば「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(20)

 教会は、神の恵みを背に大胆に宣教がなされ、拡大していったことがわかります。この原動力は、聖霊に満たされた力でした。エペソでのキリスト教に導かれていた信徒たちが、まだ聖霊について知らなかったのです。いつものように、祈り、みなが聖霊に満たされたのです。聖霊に満たされ、導かれて、クリスチャンが誕生し、教会がいのちに満たされるのです。
 パウロはエペソに二年間にわたり滞在して、全力で福音を宣教します。ことにツラノの講堂で二年間の宣教は、『アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた』のです(10)。キリストを信じる、信じないという結果は主の御手の中にあるのですが、住民のみなが福音を聞くこととなったのです。なんという記録となったでしょうか。マスコミの発達した現代において、テレビやラジオ、自動車など駆使してもこの報告書を見ることができないのです。
 祈祷師たちが行っていた悪霊による働きを圧倒したのです。パウロは福音神学の正統性を主張するだけではなく、霊的な問題に深く切り込んでいったのです。彼らの信仰は、知識による論理だけではなく、実際的な知恵を持ち、人々を変えていったことを考えよう。

主題 <町には、わたしの民がたくさんいる> 

聖書箇所 使徒の働き 18章    (2011年9月12日)

今日のみことば「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。」(10)

 パウロは地の果てまで宣教に前進します。アテネでの働きを終え、コリントでの宣教を開始しますが困難を極めたのです。しかし、神はパウロに「18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と語られたのである。
 どんな人でも、楽天的な態度だけでは伝道できるものではない。しかし、こうした困難の中で聞いた神の言葉こそ、伝道者を励まし、勇気づけるものである。同じところに留まらないで巡回伝道したパウロが何と一年半もの期間、腰を据えてじっくりと伝道し続けたただ一つの宣教地です。
 ここで聞いた神からのメッセージは、三つの点です。「神は共におられること」「だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
この町には「わたしの民がたくさんいること」が神からの啓示であったのです。救われる人々からの招きを聞いたことなのである。
パウロはよく神からの幻を与えられている。聖霊が臨むとき、青年が幻を見る(2:17)とある。このビジョンは決して自分の願望とか、会議の決議がされたのでビジョンができたのではない。天から、上から来るものなのです。そうでないと地から出てくるものは、肉に属し、地に属し、ねたみと敵対心が働くとヤコブは警告している(ヤコブ3章)。
 神から来る幻に支えられて、コリント伝道の進展を見ることができたのである。恐れないで、天からの平和を持って励まされた奉仕をした。だから気負いもなく、高ぶらず、へりくだって伝道したのである。

2011年9月 1日 (木)

主題 <パウロの福音宣教に学ぶ> 

聖書箇所 使徒の働き 17章    (2011年9月11日)

今日のみことば「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」(23)

パウロの宣教の仕方から多くのことを学ぶことができます。アテネでの伝道は必ずしも成功したわけではないのですが、彼はアテネの人々の関心を引きだし、福音を示して行きます。この伝道は、現代の日本の伝道にとってもよく研究するなら適用することができると思います。
 第一に、アテネはギリシャ哲学の中心地であり、知識を第一義に考える国民であった。ギリシャ神話などに見る多神教の世界である。日本もまた、知識偏重の社会ですが、精神生活、宗教生活ではとても貧弱なものです。
 第二に、彼らへの切り口をパウロが発見した。ギリシャ世界に多数の神々がありましたが、それでもまだ足りない神があると考えていたのです。ですから、「 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。」という(23)。さすがに伝道者です。神々をたくさん拝みつつも、まだ本当の神にあっていないと考えて、もう一つ、それはまだ知らない神を示すのである。日本社会には、そこまでの宗教思想に至っていません。
 第三に、「そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」といい、天地の創造者であり、歴史を貫いて支配している神を紹介し、悔い改めを迫ったのである。見えない神がイエス・キリストとして世界をさばくことを伝道します。
心の信を置くところを見失っている日本人への宣教をこうして近づき方で語るものでありたい。

主題 <マケドニヤの叫び>

聖書箇所 使徒の働き 16章    (2011年9月10日)

今日のみことば「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。」(9)

 パウロが第二次伝道旅行に出かけるとき、なぜテモテに割礼をしたのだろうか。ユダヤ人にも非難のない奉仕者として立てるためではないだろうか(3)。
 パウロたちはガラテヤまで来たが霊的な平安がなかったので、新しい神からの導きを受ける準備が必要だった。やがて神は幻を見せられた。<マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けて下さい>という宣教への招きである。これから始まるヨーロッパへの宣教への道を開かれた。素晴らしい世界宣教をさらに前進させたのであり、地の果て(18)は、当時の一般的理解ではスペイン(ローマ16:)が目標である。この地の果てまでのさらなる一歩としてこの幻は大きな意味を持っている。
 マケドニヤとはギリシャの北に位置する。有名なアレキサンダー大王の出身地でもあり、ヨーロッパへの絶好の宣教の場所であった。神は私たちの教会に対しても、同様に宣教への招きを行っている。このマケドニアの叫びに耳をふさぎ、目を閉じてはならない。福音によらなければ救われることのないこの世界に、神は私たちに宣教せよとの御声を語られる。「前橋をキリストへ」との召命は、マケドニアの叫びへの応答であり、福音宣教は神の愛への服従である。

主題 <律法主義ではなく福音主義>

聖書箇所 使徒の働き 15章    (2011年9月 9日)

今日のみことば「私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(9)

教会は、成長し、拡大をして行きました。ここで重大な教会の霊的な問題が起こってきました。6章で起こった問題とは比較にならないことです。今回は、物質的なことがらよりももっと深刻な信仰問題、霊的な問題でした。異邦人が次々と救われて、教会に加えられましたが、彼らもユダヤ人と同様に割礼を受けるべきではないか、という重要な問題だったのである。
なぜそれが深刻であったかと言えば、今でももしそれが求められていれば、洗礼を受けただけではなく、律法の行いが必要とされるのである。割礼という儀式に象徴される律法主義が新しく生まれた教会をも支配して行くこととなる。こうしてせっかく主が十字架でうち立てた恵みの福音を曲げて、再び暗黒の宗教、ユダヤ主義の教会が再現するのである。
 パウロは世界宣教の経験をもとにして、新しいキリスト教の価値観、生活を押し進めるので、これに内側から抵抗した教会内のユダヤ主義の人々との対立は、とても深刻なことでした。そしてこの時代にこそ解決されなくてはならなかったし、こうした背景から問題が出てよかったのである。
 ペテロのすすめは、異邦人も割礼がなくても救われ、聖霊を注いで下さったと語り、一同が深くうなずいたのである。このうなずきが、これからさらに世界へ羽ばたく教会の使命を果たす原動力になって行きます。私たちもまた長年の慣習、生活習慣、前例などによって、福音が前進することを妨げてしまうことがあるのではないかと考えてみたい。
イエス・キリストを信仰によって受け入れて義とされ、神の子として新生し、長い間の律法による救いとはまったく違う福音による自由に生きるのです。さらにエペソ人への手紙2章に記されています。この福音主義の信仰が、日本に根付いていくことを祈る。

主題 <みことばに聞き従う者にある恵み> 

聖書箇所 使徒の働き 14章    (2011年9月 8日)

今日のみことば「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」(9-10)
  聖霊のみわざは、人に関係なく働くのではなく、その人に信仰が見られるかどうかが重要な鍵となる。パウロが神の言葉を話していると、そこに生まれつき足のきかない人がいた。まさに問題を手にして生まれてきたような人である。そしてこれからもそういう生活を送るであろう人である。
 しかし、パウロの語る神の言葉に聞き入っていたこの人は、<この自分でも主の恵みを受けられる>と確信しつつ聞き入っていたのである。話すことに耳を傾けていた、という態度が決定的な力を経験する機会を生み出したのである。
 神の力は、神の一方的な働きかけだけではなく、人間の側の応答が重要なのである。この応答は、神の言葉を聞くうちに心の内に、そして霊魂のうちに生み出されてくる信仰である。人にはできないが、神にはできる、という確信が生まれる、いや与えられるのである。このように信仰は神の賜物でもある。神がその人に与えて下さる恩寵としてはっきりと知ることとなる。
 だが、またこの信仰は御言葉を誠実に聞く、全能なる神の神の力として聞き始めるときに起こるので、私たちの方からの求道心、渇きを持つことが重要なのです。たしかに、信仰が神からの賜物に違いない。だからといって、自然に上から与えられるものではない。求道する、熱心に悔い改め、熱心に飢え、渇きがなくてはなりません。パウロの話すことに耳を傾けていたからです。
こうして神と人との協同の働き、これが神の奇跡となって現される。聖霊によるクリスチャンの聖化のみわざがなされる。神と人間の一体化よって救いも聖化も栄光への恵みも達成されてくる。

主題 <世界宣教のための働き人を派遣する> 

聖書箇所 使徒の働き 13章    (2011年9月 7日)

今日のみことば「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。」 (2)

 神は、神の計画があり、神の方法で世界宣教を成し遂げられる。使徒の働きに見られる壮大なスケールを読み取れるのです。
それは彼らが礼拝をささげているときに始まったのであった。礼拝とは神を神とし、人間を人間と認めるとき、神が持たれる世界大の宣教計画を祈る人々に打ち明けて下さるのである。
 アンテオケにはいろいろの人物が一つとなっていた。国王の親族、ニゲルすなわち黒人の牧師、バルナバのような霊的な人、クレネからクリスチャンになった人、サウロのような回心者などが一体となっていた。主をかしらと位置づけるなら、みなそのしもべであって、だから一つとなれるのである。
 神は彼らの祈りにこたえて、バルナバとパウロを宣教に派遣された。アンテオケ教会にとって最も重要で有能な器であった。私たちは自分たちの教会から大切な器を送り出すときに喜べるだろうか。また教会から送られることを喜べるだろうか。
 私たちは主が命じられたような祈りをしてきただろうか(ルカの福音書10:2)。思いがけない方法で神が導かれるときに、喜んで従っていけるだろうか。
 神は、宣教のために重要な地の利のある、場所と人物の所に遣わされた(4-12)。キプロスは中東の非常に重要な島であり、地方総督セルギオ・パウロはその島の重要人物だった。
 神は聖霊の力を与えて、バルナバとパウロを遣わされた。彼らは①聖霊に遣わされただけではなく(4)、②聖霊に満たされた(9)、③聖霊によってまっすぐに福音を語ったのである(10)。私たちは絶えず、聖霊の助けをこのように求めることができる(ルカ11:13)。

前橋教会から三組の宣教師を送っている。日本にいても、「膝の宣教師」として祈りをもって同じ働きをしているのです。