2011年9月 1日 (木)

主題 <イエスの模範にならって> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 13章  (2011年8月17日)

今日のみことば「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」 (14)

 イエスは過ぎ越しの祭りを前に、自ら給仕するしもべの姿となって、弟子たち一人一人の足を洗われる洗足をしてくださった。師であるイエスが弟子たちの足を洗われたのだから、弟子たちも互いに足を洗い合うべきであると言って、その模範をしめされました(15)。実際に、イエスがその模範を示され行われたということに、今日の私たちは注目しなくてはならない。おそらく、この洗足の場面に至るまでの弟子たちは、良く議論していました。その議論の多くは「だれが一番偉いか」というもので、仕えるどころか、人を従わせようとしてばかりであったことを思わされる。そのような弟子たちの議論、話題をイエスは良く知っておられたのでしょう。かれらの無用な議論をイエスのしもべの姿となって洗足をなされたことは、彼らの議論の余地をなくし、明快に説得していく模範となることを意図されていたと言ってよいでしょう。そして、真のイエスの弟子となるために、人に仕えるということを実践していくことが不可欠であったことも意味していたことが伺えるのです。そして、この洗足の模範は、34節「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」との新しい戒め、弟子としての歩みを示されていました。
 お互いを思いやり、赦し合い、受け入れ合い、へりくだって互いに仕え合うという生き方の重要性を弟子たちは随分後になってから悟っていくことになります。しかし、このように生きていくことが、後の弟子集団、教会が多くの迫害を経験しても、教会が存続していく力となり、宣教の前進となってきたことを思うのです。真の弟子となって生きていくこと、福音を宣教していく働きは、イエスの模範に倣い、従っていくところから始まっていくということを覚えたいと思います。

主題 <実を結ぶ人生1>

聖書箇所 ヨハネの福音書 12章  (2011年8月16日)

今日のみことば「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(24~25)

 イエスは一粒の麦が死に実を結ぶという比喩を用いて、これから御自身が十字架において死に、三日の後によみがえられることを意味して語られたことであったが、直接的に語ったことでなかったため、この時点では多くの人々は理解できなかった。しかし、ここで語られた「実を結ぶ」ということから、この地上にあって「実を結ぶ」人生を歩むために必要なことを示されていたことは大変重要であると考えさせられる。
 一粒の麦が地に蒔かれ、死ぬと新たな芽が出て、やがて実りを見るようになる。この死ぬという比喩を25節では「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言って、この地上における「いのち」をどう用いて、生かして生きるかに例えられている。「自分のいのちを愛する」者は、自己中心、自己満足となり、他者への愛と、神への愛をおろそかにし、自分自身のいのちと生活は、価値も喜びも失ってしまい、地上だけで終わる。しかし、地上において自分のいのちを愛することをやめ、自己中心的な生き方を憎んで、「いのち」と生き方を保つなら、主にあって永遠のいのちに至ることを教えてくださっていることを改めて覚えたいと思います。
 自己中心的な生き方から解放され、いかにして生きるかが問われ、これは非常に難しい課題であると思わされる。自分を無くして、他者のために、そして神のために仕えて生きていくという方の実践は、神の栄光を現す生き方に通じていることをより一層、身に染みて教えられていかなくてはならないことを思わされる。そして、今日、自分を無くして、他者のために、神のために仕えて生きていく人を必要としている時代はこれまでなかったのではないでしょうか。今年、日本は大きな震災に経験しました。瓦礫と荒れ地となった多くの地に、やがて実を結ぶために、仕えていくことが求められていることを覚え、実を結ぶ人生にわたしたちもささげて生きていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の栄光を信じて> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 11章  (2011年8月15日)

今日のみことば「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40)

 ベタニヤに住む兄弟ラザロが病気であるという知らせがイエスのもとに届いた。この時、イエスは、「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(4)と言われた。ラザロの病は神の栄光があらわされる機会となることが暗示されていたことが言われていました。ラザロの二人姉妹マルタとマリヤはこの時点でイエスの言われたことが何を意味しているかわかりませんでした。しばしば私たちにとって不測の事態は神の許しの下にあり、神はご計画を持って、御業をあらわされるということを忘れてはならないと思わされる。
 イエスがベタニアに着いた時には、ラザロは亡くなっていて、すでに四日の日が過ぎていました。姉のマルタはイエスに会い、「主よ。もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言っています。そこにはイエスに対する期待と信頼を持っていたことが伺えます。ラザロが死に、墓に葬られて、イエスの到着が遅かったということであきらめの心境にあったマルタに対して、イエスは「あなたの兄弟はよみがえります。」(23)と言われました。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることは知っています。」(24)と言い、マルタが終わりの日に神の民のよみがえりの信仰をもっていたことが伺われ、しっかりとした信仰を持っていたことが伺えます。そして、「あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」との告白は、素晴らしい告白であったが、イエスが何をなさろうとされているか十分に理解できないでいました。ついに、イエスはラザロを墓から出てくるように命じられ、ラザロはよみがえりました。40節に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」とあり、すでにラザロが病の時から求められていたことは「信じる」ということであったことが分かります。
神のみこころと御業がなされることを信じる信仰をもって今日も歩んでいきたいと思います。

主題 <わたしは、良い牧者です> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 10章  (2011年8月14日)

今日のみことば「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11)

 イエスは「わたしは羊の門です。」と言われました。羊は放牧していたところから帰ってきて、門を通り、小屋に向かいます。門を出て放牧地にいるときは場合によっては狼などに襲われる危険があるのですが、一度、戻ってきて門をくぐるということは安全な場所に入り安心する場に入ったこととなります。そこで、イエスはご自身が「羊の門」と言われたのは、そこに安心、救いを与えられるお方であることを意味していました。
 また、「わたしは、良い牧者です。」と言われました。羊飼いは羊をさまざまな危険から守り、時にはいのちをもかけて守られます。羊飼いにとって羊は大切な財産であり、すべてでもあるのです。そして、イエスはご自身がその羊飼いであると言われ、羊はイスラエルの民をさしていました。イエスはイスラエルの民のためにいのちをかけて守られ、救われると言われたのです。
17~18節で言われていることは、イエスの十字架による贖いと復活について触れられて語られていたことが分かります。いのちをかけて守られ救われるとはまさに十字架による贖いと復活によるみわざによってでした。しかし、これらのイエスの語られたことについて、十分に理解することができなかったと言われています(6)
 しかし、良い牧者なる主イエスは、今日、「囲いに属さないほかの羊」つまりは異邦人にも福音をもたらせ救われ導かれるお方であることをも示されていました。主イエスはすでに異邦人である私たちをも導かれようとされていた主のあわれみに感謝したいと思います。
そして、「彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(16)と言われて、主イエスのみことばに聞き従うという一つの群れが意識されており、それは今日の教会という群れをさしていたことが分かります。ですから、教会という群れの在り方の原則は、牧者なるイエスを知り、主の声に聞き従うということが根底にあることを確認したいと思います。
 羊飼いと羊のように互いを知り見極め深い信頼関係があったように、私たちも主イエスとの交わり、導きを大切にしていきたいと思います。

主題 <神の栄光のために>

聖書箇所 ヨハネの福音書 9章   (2011年8月13日)
主題 <神の栄光のために>
今日のみことば「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)

 イエスと弟子たちは生まれつきの盲人と出会ったことにより、一つの質問が出てきます。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか、この人ですか。その両親ですか。」(2)。障害をもって生まれてきた理由をだれかの罪によるという考え方は、現代の私たちも同様に考える風潮があることを思い、因果応報的考え方が非常に根強いものであることを感じさせられます。誰かに責任を転嫁していくという考え方は非常に悲観的とも言えます。
 イエスは「「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(3)と言われました。この生まれつきの盲人に関して言えば、「神のわざが現れるため」という神の目的、みわざが明らかにされるためであると言われました。イエスとの出会いにより神のわざが現されるという救いのご計画があったことを示されています。
 生まれつきの盲人はイエスの言われる通りに、シロアムの池へ行き目を洗うことによって、目が見えるようになりました(7)。イエスのことばに従って行ったこの盲人はすっかり見えるようになりました。明らかにイエスの奇蹟による癒しを経験したのでした。
 イエスと出会い、イエスのことばに従って行った行為は盲人の目が開かれるということだけでなく、このことを見た人々は非常に驚き、騒動になります。この目が開かれた盲人にしてみれば、人々の騒動の的にされ、困惑していきますが、しかし、これらの経験により、より一層、イエスを救い主と信じるに至りました(36~38)。
 生まれつき盲人として生まれた彼の人生は不運とされるようなレッテルを貼るような見方がありますが、むしろイエスとの出会いにより一変し、より確かな生涯を見出すことになったことは神のあわれみとみわざのほかにはないことを思わされます。今日も主は働かれ、みわざを現されようと導かれるお方であることを覚えたいと思います。今日の絶望的、悲観的な風潮から解放され、神のみわざに期待する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <世の光、いのちの光> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 8章   (2011年8月12日)
主題 <世の光、いのちの光> 
今日のみことば「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」(12)

 イエスはご自身について重大な宣言をされる。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12)。イエスご自身が世を照らす光であり、いのちの光であると言われた。
8章の前半は姦淫の現場で捕えられた女性が今にも石打ちの刑に処せられようとしている時、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われ、それを聞いた者たちは一人一人去っていき、だれもいなくなりました。だれも罪に定める者はいなくなり、イエスはもう罪を犯してはなりませんと言ってその女性を去らせたことが記されています。この女性はどうして姦淫の罪を犯したのか。詳しくは記されていない。そこには暗い闇の部分、罪を犯した事実がありました。現代においても、罪を犯し、誰にも照らされることのない闇の部分があることを否定できないのではないでしょうか。
しかし、この姦淫の罪を犯した女性にとってイエスとの出会いはまさに救いでした。石打ちの石を投げる者はありませんでしたが、誰もが罪があるという意識を共通に持つ出来事となりました。主イエスとの出会いは罪がしめされるという痛みが伴うものです。しかし、その罪を赦すという救いが同時にイエスにあって与えられること、この恵みに感謝したいと思います。
この出来事に引き続き、イエスは語られたのです。「わたしが世の光です。・・・いのちの光を持つのです。」イエスにあって、本当の自分を照らされ、罪の悔い改めに導かれ、同時に永遠のいのちの救いを頂く恵みにあずからせてくださる。今日、私たちの光、いのちの光なるお方であるイエスの導きを頂いて歩ませて頂きたいと思います。

主題 <イエスの招きに対して> 

聖書箇所 ヨハネの福音書  7章  (2011年8月11日)

今日のみことば「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」」(36~37)

 主イエスは、仮庵の祭りの終わりの日に群衆を前に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言って招かれました。仮庵の祭りの最終日には神殿の祭壇に水を注ぐ習慣があり、おそらくイエスは注がれる水を意識して、「生ける水」について話し出されたと思われる。
 主イエスの招きのことばは実に明快であった。「わたしのもとに来て・・・」、「わたしを信じる者は・・・」と言って、明らかに主イエスのもとに来て信じるように促されていました。この招きに人々の反応はさまざまであったことが記されています。
 ある者は「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」という者。おそらくモーセ、イザヤのような預言者を指して言っていたのかもしれない。
ある者は「この方はキリストだ。」という者。ある者は「まさか、キリストはガリラヤから出ない・・・ベツレヘムの村から出る。」という者。これらは、キリストの来臨を聞き待ち望んでいたことが伺えるが、今、目の前にしているイエスがキリストであるということをはっきりとした確信をもって見ていないことが伺える。それぞれの人々の見解が、憶測を呼び、さらには混乱となって分裂していきました(43)。
さらにパリサイ人たちは一切、イエスの言われることに耳を傾けるのでもなく、イエスの話されていることに群衆は惑わされ、のろわれているとまで言いました(49)。
これほどはっきりとしたイエスの招きのことばに応じていく者が少なかったことは悲しむべきことである。現代においても、主イエスは招き続けておられる。私たちはどのように主の招きに応えるべきか。それは人々の論争で終始してしまうのではなく、一人一人が主イエスの前に行き、心の奥底から満たしてくださる主に出会うことが必要なことをまず覚えたいと思います。

主題 <いのちのパン> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 6章  (2011年8月10日)

今日のみことば「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 (35)

 人々の関心は物質的な物に良く捕われることがあります。6章では5000人の給食の奇蹟が行われ、群衆はまさに奇蹟を体験する。そして、空腹は満たされ、イエスの驚くべき奇蹟的な業に注目していく。そこに、主イエスを信じる弟子は少なかったようである。
 イエスはこの地上の食物のためでなく、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(27)と勧められ、この地上のものによるいのちではなく、神が与えてくださる永遠のいのちを得るために働くように言われました。かつてのイスラエルの民は出エジプト後、荒野における旅において天からのマナ(パン)を得て、生きて行ったように、「天からのまことのパン」(32)こそが、世にいのちを与えるのだと教えられました。
 これを聞いた者たちは「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(34)と願い求めました。イエスは「「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)と言われ、ご自身こそが天から下ってこられたいのちパンであると言われ、決して飢えることも、渇くこともないといわれたのでした。
 弟子たちのことばに「いつもそのパンを」と言っていたことに注目される。弟子たちの願っていることは今も、そしてこれからも続けてお与えくださいと願い求めたのに対して、イエスは「わたしがいのちのパンです。」と言われイエス、ご自身と共にあることが、「いつも」という願いを保障されていることが分かります。イエスご自身のもとにいのちがあり、その祝福に満たされ続けていくという約束がそこにあることを覚えたいと思います。
 51~59節では天から下ってきたパンのくだりで、キリストの十字架と贖いの出来事を示し、それは今日の聖餐式になぞられて語られていたことでありました。聖餐式を通して、一層、罪赦されいのちに移された者として生かされている恵みに感謝するものとなりましょう。

主題 <御子と御父> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 5章   (2011年8月 9日)

今日のみことば「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(19)

 人々の関心は、イエスご自身が神と等しくして、神をご自分の父と呼んでおられたことに向けられていた(18)。このことに関して、イエスはご自分と父なる神との一体性について語られた。
 第一に、イエスご自身の行われる業は父なる神と同様の業であることを証言されました(19~20)。第二に、しイエスご自身は父から「いのちを与える権威」と「さばきの権威」が与えられていることを証言されました(21~30)。
 イエスご自身と父なる神との一体性は面等向かって見ることのできなかった父なる神をイエス・キリストを通して、明らかに見ることが許され、神の御業に直接見て触れることが許されたことに驚かされる。そればかりだけでなく、このイエスご自身がこの地上に来られた目的は御父より遣わされた主イエスを信じる者に永遠のいのちを与えられるためでした(24)。
 しかし、この主イエスが神を父と呼ぶことに懐疑心の目で見る者が実に多くいました。そして、現代においても信じることのできない人々が多いことを思わされるのです。
 今日、イエス・キリストをどのようなお方と見るかが問われます。そして、このことは私たちの救いに大きく関係していることを覚えなくてはなりません。29節「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあり、この箇所は単に道徳的な善悪のことだけでなく、主イエスが復活された救い主イエス、神の御子なるお方であることを信じる者を、善を行う者とさして言われ、悪を行う者はイエスを信じない者を指して言われたことばでありました。その結果は、いのちに至るのとさばきに会うという大きな分かれ道となっていることが分かります。
 今日、私たちは霊に目が開かれ、改めて主イエスを神に御子、御父から遣わされた救い主と告白する者として歩ませて頂きましょう。

主題 <イエスのことばを信じて> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 4章   (2011年8月 8日)

今日のみことば「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(50)

 主は再び、ガリラヤのカナに入られた。カナでは婚礼の席でぶどう酒がなくなってしまったが、水を最高のぶどう酒に変えられるという最初の奇蹟を行われた所であったが、また、イエスはこの地で第二のしるし(奇蹟)を行われた。それはある王室の役人の息子をいやされるという奇蹟だった。
 ある王室の役人はカペナウムにいる息子が病気で死に瀕していた。そこで、イエスがガリラヤに来られたということを聞きつけて、イエスに息子をいやしてくださるように願い出た(47)。カペナウムからカナまでは約30キロの道を行かなければならないが、この王室の役人はイエスがカナに来ているとの話だけをたよりに出かけてきたということは本当に必死な思いでイエスを探し、息子のためにカペナウムまで来ていただきたいという思いが伝わってくる。
 しかし、イエスはこの王室の役人の求めに対して「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(48)と言われた。そして、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(50)と言われた。王室の役人はイエスを息子の所へと招き、病気をいやして頂きたいと願ってきたが、イエスはただ「あなたの息子は直っている。」とのおことばだけを与えて、見える形での奇蹟をなさらなかった。
このことは、現代に生きる私たちに何を教えてくれているのであろうか。私たちは信じていると言って何を信じているかということが問われている。信仰者と言っても、どこか証拠を求めるように奇蹟、しるしある業を見ないと信じられないという信仰になっていないだろうか。この王室の役人はイエスの言われている通りに帰宅し、息子が癒されているのを見た。ただ、イエスの言われる通り、そのおことばを信じただけであった。実は、主のことばに聞き従うことのみで十分なのである。それ以上を求める必要もなく、主は私たちの必要を知り、それに応えて下さるお方であることを改めて覚え、主のみことばに聞く信仰をさらに養うことができるように祈ろう。