2011年9月 1日 (木)

主題 <わたしの霊をすべての人に注ぐ>

聖書箇所 使徒の働き 2章     (2011年8月27日)

今日のみことば「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(17)
 聖霊が注がれた圧倒的な出来事が記されています。それは、ペテロをはじめ12使徒たちが立ち上がって福音を語った事実です。これまで人を恐れ、自己過信に陥っていました。たくさんの問題をかかえていたこれらの人たちが大胆になり変貌したしるしが今日の出来事です。これまで人の顔色をうかがい、身の危険を感じたら偽りや逃亡していた弟子が、実に大胆に主の福音をあかしし、福音のためにいのちをかける人になったのです。しかも、彼らはいわゆる悲壮感にかられて、いちかばちかというような意気込みではありません。
 ペテロの説教を見るときに、福音の全貌を深く、明確に把握していたことがわかります。旧約聖書の全体像をキリスト論として展開します。キリスト論とは、イエス・キリストをカギとして聖書全体を位置づけるときに、総合的に論理的にも、実際的にも納得が行くのです。
 この日に、弟子たちは天からの大きなしるしを経験します。器がからっぽである中に聖霊が満たされます。祈りとみことばに生きる彼らに、神は喜んで聖霊を満たされました。これから聖霊の導かれるままに、福音を語り、癒しを行い、教会を立て上げて行きます。
 ヨエルの預言をまさにそのまま実現したことを裏付けました。息子や娘も、老人も子どもたちも、身分の低い者たちと思われている人にも、ひとしく注がれました。この約束は遠くにいる私たちにこそ、実現するのです(エペソ人への手紙2;17に心を留めてください)。
 ペテロは、イエス・キリストの十字架の意味と彼らが犯した罪を率直に明らかにし、悔い改めを迫ります。この日、心を開き悔い改めた人々は洗礼を受け、クリスチャンになりました。なんと三千人もの回心に至りました。

主題 <聖霊があなたがたの上に臨まれる> 

聖書箇所 使徒の働き 1章     (2011年8月26日)

今日のみことば「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8)

 この書を開くことは、何と心おどる予感がするでしょうか。未だ第一世紀の福音が伝えられはじめた記録なのに、何とキリスト教会の全歴史を予測して展開しているのです。教会の宣教の情熱と具体的な行動が詳細にしるされ、キリスト教二千年の方向を示しています。<エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで>とありますが、使徒の働きの歴史的な推移なのです。
 それが8節にある聖霊のご計画である。お一人で天から下られたイエス・キリストは、全世界へ福音を満たすことにより神の国を実現される道を開きます。それも沢山の罪や失敗を経験した弟子たちによって行おうとされていたのです。弟子たちは、懸命に主のみことばを受け入れて応答しました。<使徒の働き>という名称ですが、実際はペテロとパウロがほとんどです。しかし、この二人の存在が聖霊の満たしを受けて出て行くことによって当時の世界中にくまなく福音を伝えることとなります。
 聖霊は力を弟子たちに満たします。この力は、弟子たちが受けるにふさわしく整えられて注がれたのです。
第一に、祈りに心を一つにしていたことです(12-14)。心を合わせるとは、自我の砕かれることから始まります。人々と、いやことに主と心を一つにする人が求められております。
第二に、聖書のみことばに歩む決断です。ユダの脱落後、使徒の職務をはたすために主の導きを求めたのです。自分たちの考えに固執せず、聖書の導きを優先しました。
 こうして、神が描かれた世界宣教への準備が整いました。今、私たちが現代においても変らないみこころは、二つの点を忠実に行動することです。キリストの証人として立ち上がるために、小さいと思えることから決断をしよう。

主題 <主イエスの愛によって> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 21章  (2011年8月25日)

今日のみことば「イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(17)

 イエスはかつて弟子たちと共に過ごしたテベリヤ湖畔にご自身を現された。弟子たちは漁師として働きを始めていた。しかし、網を下しても何一つ獲ることができなかった。空腹の弟子たちを知ってか、イエスはまだ朝早いうちに岸辺に立たれ、「舟の右側に網をおろしなさい。」と言われた。右におろそうが、左におろそうが変わらないことであろうと思われるが、言われる通りにすると大漁となった。かつて、イエスと会って同じ経験をした弟子たちだったが(ルカ5章参照)、弟子たちにはイエスだと分からなかった。しかし、ひとりの弟子が「主です。」とイエスに気付くとペテロは海へと飛び込んだ。一刻も早くイエスに会おうとした行動だったかもしれない。
 弟子たちが岸に上がられると、イエスは食事を用意されており、共に食事につくように招かれる。この食事の席で、ペテロはかつてイエスを三度知らないと否定してしまった失敗を思い起こさせ、それを責めるのではなく、むしろ三度「あなたはわたしを愛しますか。」と聞き、主への再献身へと導かれる。この時、ペテロはかつての自信に満ちた姿はなく、むしろ主イエスの前にただただ謙遜にさせられている姿しかなかった。主イエスはこのペテロに「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられ、これより後、初代教会のリーダーとして用いられるようになるのだった。
 ペテロは取り扱われたことは、主イエスの愛による取扱いであり、主イエスの愛によって救われた原点を確認するところにあった。主の十字架と復活を語り、福音を伝え、教会に仕えていくようになるペテロにとって、主イエスの愛を徹底的にしらなくてはならなかったということは、今日も主の弟子として生きていく私たちにとっても重要なことである。主の深い愛を覚え主に仕えていく一日となるように祈りましょう。

主題 <主イエスの復活>

聖書箇所 ヨハネの福音書 20章  (2011年8月24日)

今日のみことば「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。」 (16)

 十字架刑にて息をひきとられたイエスはアリマタヤのヨセフによって引き取られ、十字架刑の行われた近くの園にあった墓に葬られた。
 イエスが葬られて安息日が過ぎ、三日目の朝早くに、マグダラのマリヤが墓へやって来ると、墓をふさいでいた石がころがされているのを発見し、すぐに弟子たちに知らせた。イエスの復活の第一報はマグダラのマリヤであったことが記されている。そして、マリヤの知らせを聞いたペテロともう一人の弟子も墓に駆けつけ、確かにイエスの体がそこになくなっているのを確認した。
 マリヤにとって衝撃的な事実を前に、ただ涙を流すしかなかったが、そこに主イエスは現れ、マリヤに声をかけられた。マリヤは初めのうちは、話している方がイエスであるとは気付かなかった。しかし、会話を重ねていくうちに、イエスであることを知っていく。それはイエスが「マリヤ。」と声をかけられ、マリヤがイエスに対して「ラボニ(先生)」と答えられていく中で気付いていった。これまで、いつも語り合っていた言葉使い、会話を交わす中でイエスであるということが分かった。復活した主イエスはその見た目の姿でははっきりとイエスであるということが分からない容姿であったとも言え、さらには死んだ者が生き返るはずないという思いも強かった故に、復活されたイエスに気付けなかったと考えられる。今日、新約の時代に生きていない私たちはイエスの復活を信じることはさらに難しいかもしれない。しかし、目で見てということ以上に、マリヤはイエスとの会話というやり取りの中でイエスを認めていったということを考えるとき、現代を生きる私たちはイエスのみことばを聞くというところに復活を信じることができるようになるということを教えてくれているように思うのです。そして、イエスの復活を信じるようになることは人間の思い込みや知識によってなされるのではなく、やはり神の御業なのだということを今日の教会は良く覚えていかなくてはならないと思うのです。
 今日、復活されたイエスは生きておられ、今も救いに導かれるお方であることを覚え、御名をあがめて歩む者とさせて頂きたいと思います。

主題 <イエスの裁判2>

書箇所 ヨハネの福音書 19章  (2011年8月23日)

今日のみことば「イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」(11)

 イエスに対する尋問と裁判は再び総督ピラトのもと、多くの群衆の前で行われた。ピラトはイエスに鞭を打つように命じられ、この時点で大変な傷をイエスは負われた。また、頭にはいばらで編んだ冠をかぶせられ、当時の王の装束の色である紫色の着物を着せて、人々の前に見世物のようにさらした。ピラトにしてみれば、これだけ辱めを与えれば、人々も十分納得するだろうと考えた。この時点では、ピラトはイエスに恩赦を与え、解放しようと考えていたからであった(10)。
 ピラトの予想していた群衆の反応とは異なり、むしろ狂気に満ちていた。イエスに恩赦を与え、解放するならば、イエスではなくバラバを解放するように願うというとんでもない要求をしてくるほどであった。ピラトは群衆を押さえつけるどころか、その狂気に満ちた姿に恐れをいだくほどであった。
 ピラトは最終的には、イエスの口から恩赦を求めていくことばを聞くことで解決を図ろうとした。ピラト次第で十字架刑が行われるのも、解放させるのも行う権威があることをイエスに訴える。しかし、イエスの返した言葉に驚かされる。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(11)。ピラトの弁護的な言葉に対して、明らかに、ピラトに与えられている権威を否定し、その上にある権威に従って、イエスはこの裁判を受け入れ、実に十字架刑へと進まれることを受け止めていることを告白している。イエスはこの地上の権威のもとにあるのではなく、父なる神の権威のもとに、その許しのもとにすべてを受け入れられ、神のみこころに従っていく歩みをされていることを話されたのだった。
 ピラトはイエスの言われていることを十分に理解することが出来ず、さらには群衆の狂気に満ちた姿に気圧されて、恐れるようになり、最終的には公平な裁判を行う責任を放棄して、ユダヤ人の群衆にイエスの身柄を引き渡して、十字架刑の許可を与えてしまったのだった。
 すべては人間的な思惑のうちに進められているようであるが、主イエスは神のみこころに従われていたことを改めて確認したい。

主題 <イエスの裁判1> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 18章  (2011年8月22日)

今日のみことば「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」」(37)

 イエスはゲッセマネの園にて主の御心を求めて祈られた。そこへ、弟子のイスカリオテのユダの手引きにより、ローマ兵、祭司長、パリサイ人などおびただしい群衆がイエスを捕えた。
 捕らえられたイエスは6回に及ぶ尋問と裁判が行われる。最初は大祭司アンナスとカヤパ、次に議会、次に、総督ピラト、次に国王ヘロデ・アンテパス、そして再び総督ピラトへと次々に引き渡されていく。そもそもこの尋問と裁判は夜を徹していながらも、それほどの時間をかけることもなく、興味本位的な内容の尋問と訴えが多く、実に公平性を欠いた一方的な裁判であった。この裁判の行方を見守っていたペテロは、三度イエスを知らないと否定し、失敗を犯してしまった。
 今日は、33~38節にある総督ピラトの尋問に注目したい。ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか。」と質問した。イエスは、ご自分はこの世のものではないこと、そして王であること、真理をあかしするために来たと答えられた。そして、「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(37)と言われた。このイエスのことばにピラトは「真理とは何ですか。」と質問しているが(38)、その答えをイエスから聞くことなく、その場を離れてユダヤ人たちのところへと行ってしまったことが記されている。ピラトの内心は、イエスのうちにさばかれる罪を見出すことが出来なかったと共に、イエスの言われることば一つ一つに興味を持ち始めていたことが伺われ、最後の質問は「真理とは何ですか。」という核心に迫る質問にまでたどり着いたと言って良いと思うのですが、その答えを聞くことなくピラトは去ってしまったというところに、真理を聞き従う者ということの差が大きくあることを思わされる。
 私たちはイエス・キリストを通して、神のみこころ、真理が明らかにされていること、まさに十字架に見るキリストの愛を通して知らされている恵みに感謝して、主に聞き従う今日を歩ませて頂きたいと思います。

主題 <主イエスを知ること> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 17章  (2011年8月21日)

今日のみことば「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3)

 1節に「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。」とあり、17章全体が、天の父なる神に対してイエスが語りかけていく、祈りの章と言えるものとなっています。
 イエスの語られたことばはご自身が神の御心によって、この地に遣わされてきたこと、その目的、そしてとりなしについて語られています。
 イエスはこの地に来られた目的について、「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」(2)、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3)と語られました。イエスの来臨こそが、永遠のいのちに至るためであり、イエスを知ることが永遠のいのちに至るために必要であることを示されていました。当時のパリサイ人、律法学者たちは救いを得るために、自らの努力、実践によって得るものと考えていました。そこには、自らの経験や価値観があって、律法を解釈し、実践することに終始していたと言えます。そこに、本当にメシヤ(救い主)を待望する姿勢があったのであろうかと考えさせられます。人が本当に救いを得、永遠のいのちを得るには、それを与えてくださるお方を知らなくてはならないことを今日みことばははっきりと示し、教えてくださっていると思います。
 今日、主イエスを知るということを切に求めてきるでしょうか。どこか主イエスが遠い存在のように思い、イエスを知り求めていくことにあきらめを感じているということはないでしょうか。確かに、今日私たちは天におられるゆえに主イエスを見ることはかなわずにおりますが、実は、主イエスは私たちにそば近くにおられるお方であるということを覚えたいのです。もう一言加えれば、私たちと一緒にいたいと願われておられるお方であるということを銘記したいと思うのです(21、24、26)。そして、今日もみことばに聞き、なお主を知ることができるように祈っていきたいと思います。

主題 <悲しみから喜びへ>

聖書箇所 ヨハネの福音書 16章  (2011年8月20日)
主題 <悲しみから喜びへ>
今日のみことば「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(13)

 イエスは再び、「もう一人の助け主」なる聖霊の働きについて教えられました。聖霊の働きについて教えられる複線に、弟子たちを襲う「悲しみ」について触れられています(6、20、22)。この悲しみは、イエスの十字架の死と復活、昇天によって、この地上をイエスが離れて行かれることによる悲しみであり、そして、イエスの弟子として生きていくという中で、迫害、試練、困難を経験していくということが暗示されていました。イエスが「もう一人の助け主」なる聖霊を遣わしてくださること、その働きによって導かれ生きていくことを教えられるということの中に、その原点に、残された弟子たちを思い、その悲しみを伴う経験からの助け、手だてを残されるところに始まっていることを確認したいと思います。
 もう一人の助け主なる聖霊はこの地上を歩む私たちに以下のことを示され導いて下さいます。
1.    罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさ  
せる(8)
2.    すべての真理に導き入れられる(13)
3.    主の栄光を現わされる(14)
4.    喜びに満たされる(22、24)
5.    平安を保つ(33)
これらの約束は、今日も続く主からの約束であることを覚えたいと思います。私たちは、この地上における歩みで、悲しみを経験するがありますが、この時こそ、その真の意味と神のみこころをお示しくださる聖霊の助けを頂き、導いて頂けるように祈っていきましょう。そして、さまざまな患難の中にも平安を与えてくださる主に信頼して、今日も一歩、前進させて頂きましょう。

主題 <実を結ぶ人生2> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 15章  (2011年8月19日)

今日のみことば「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(4)

 ぶどう園のぶどうの木と農夫のたとえをもって、イエスは再び「実を結ぶ」人生について教えられた。
 イエスは御自身はぶどの木であり、私たちはその枝であると語り、しっかりとぶどうの木なるイエスにつながっていることが、枝である私たちが枝先に実を結ぶために必要であることを教えられました。そして、木であるイエスにつながっていることは、同時にぶどう園を守る農夫なる父なる神のもとにあることも約束されていました。
 ここで、注目したいことは、良い実を結ぶために農夫によって「刈り込み」(2)がなされるということです。今で言う「剪定」のことで、特に果実などの木々は質の良い実をならせるためにある程度、多く茂っている枝、葉を切り落とし、整えて、十分に栄養が行きわたるようにして、良い実をつけることができるようにするために行われます。イエスはこのことを父なる神がなされることとして教えられました。枝、葉を切ることは植物にとって痛みが伴うように、人間にとってみれば、枝、葉を切ることは、しばしば試練という痛みを通して経験することが多いと思います。しかし、一時の痛みでありますが、それはやがて良質の実を結ぶために、大きな祝福が備えられていることを覚えて、試練も主による整えであるということを受け止めていくことができたらと願います。
 そして、枝である私たちはぶどうの木である主イエスにしっかりとつながり続け、木から栄養を十分に受けて成長し、実を結ぶことができること、この奥義をしっかりと覚えていきたいと思います。実を結ぶための栄養分はイエスにあるように、イエスのうちにいのちがあります。そして、その栄養分をしかりと受けていくということは、今日、日々のみことばに聞くと言うことからなるということを覚え、少しずつ主のみことばによって成長させて頂けるように祈りましょう。

主題 <もう一人の助け主> 

聖書箇所 ヨハネの福音書 14章  (2011年8月18日)

今日のみことば「「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(16)

 イエスは十字架に向かう神の御心を行う時が近づいていることを意識され、やがて弟子たちと別れ、地上を離れて行かれる時が近いことを知り、弟子たちに一つの約束をお示しになられました。それは、イエスの父なる神に対する懇願、祈りからはじまっていました。
 16節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」イエスの祈りは弟子たちのために「もう一人の助け主」をお与えくださるようにという祈りでした。ここで言うまでもないが「助け主」は主イエスであるが、イエスが地上を離れていかれる代わりに「もう一人の助け主」をもって弟子たちを導かれるようにしてくださったこと、そこには主の慰めと安心を与えられるためであったことが良く分かります。
 「もう一人の助け主」は17節では「真理の御霊」と言われ、この御霊の働きによって、すべてのことを教え、悟りを与えられ、導いてくださることが教えられていました。今、私たちはこの地上でイエスとお会いすることができませんが、しかし、この真理の御霊、すなわち聖霊の働きによって、かつて弟子たちが主イエスと共にいて歩まれたように、今日も主にあって歩むことができることを確認させて頂きたいと思います。
また、もう一つ確認させて頂きたいことは、聖霊の働きに信頼することによる大きな祝福があるということである。この祝福はこの世、時代が与えるものではないものであり祝福であるということ覚えなくてはならない。そして、この祝福に勝るものはないのである。27節「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」の主のみことばによる約束はその祝福の一つであることを覚え、今日も歩ませて頂きたいと思います。