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2013年1月16日 (水)

主題 <神の人>

聖書箇所 列王記第一  17章  (2012年12月26日)

今日のみことば「その女はエリヤにいった。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」(24)

 エリヤは神から遣わされた神の器でありました。神は目に見ることはできないのですが、第三者にも神の信頼を得ている人物であることを心からそう思わせる力があったのです。
その女は2つの点を証する。
 第1は、エリヤは神の人である。
 第2は、神のことばは本当である。
 これは、遣わされたエリヤにとっても確信以上のものがある。エリヤには神のことばがある。そして、エリヤの語った超自然的なできごとが成就しているのです。
 現代の伝道者も反省せねばいけない点がある。それは、神のことばが伝道者の生涯に成就しているかという点、つまり、神の人としての自分の生涯を始めとして、人々への証しがどうなされているかということです。
 私たちは、全く神に従い、神のことばを信じて、神のことばのように生きることが大切なことです。

<祈り>主よ。この私の生涯が、あなたのみ手で支えられ、あなたの力をあかしする弟子にしてください。

主題 <主の前に悪を行うのではなく…> 

聖書箇所 列王記第一  16章  (2012年12月25日)

今日のみことば「オムリは主の目の前に悪を行ない、彼以前の誰よりも悪いことをした。」(25)

 本章に出てくる五人の王、バシャ、エラ、ジムリ、オムリ、そしてアハブ王たちは、聖書の歴史に登場するが、いずれも『悪をした』という悲しい記録を残したのです。国王という立場が、国民や神に対する信仰的、道徳的、指導的なありかたが一層求められているのです。
 私たちの生涯もまた、小さな立場のように考えやすいですが、もし最後の時にあなたが紹介される時「彼はわが家の祖先として、悪を行なった」というレッテルしか貼られととしたら、何と寂しいことでしょう。
 また彼は小さいことに忠実だったと評価を受けるでしょうか。神は人を良きわざのためにつくられました。ことにクリスチャンは良きわざのために、特選の民として選ばれているのです(エペソ人への手紙2;10)。
今日一日の生きる歩みも、遠い将来のための一歩であります。
 この代々の王たちは、決して偶像教徒ではなく、イスラエルの十部族、神の民だったのです。神の民は聖別されればすばらしいが、しかしひとたび神に背くと、その破滅、責めは大きいものです。
 教会の中から、こうした代表が出ぬように心せねばなりません。牧師や信徒の中から出ないように。

<祈り>主よ。私の生涯を聖別してください。歴史に残る罪の記述がありませんように。罪人ですが、主に対して誠実にならせてください。

主題 <ダビデのように>

聖書箇所 列王記第一  15章  (2012年12月24日)

今日のみことば「アサが父ダビデのように主の目にかなうことを行なった。」(11)

 イスラエルの王であったダビデはいつも、イスラエルにとって主のみこころにかなう生活の規範であったことがわかります。ですからたとえ彼がウリヤと彼の妻にした大きな罪でさえ詩篇を見るときに告白され、ゆるされることにより規範とさえなっているのです。
 アサは父のようにではなく、主の目にかなうことを次々行ないます。停滞していた真のイスラエルの宗教を改革し、汚れを取り去り、偶像を除きます。たとえ母親といえども堕落や偶像に関係するなら処分するほどでした。
 このように彼の治世のはじめは、そして途中までは主のみこころにかなっていました。しかし、晩年にはどうも思わしくなく、敵の来襲には神殿のものを持ち出し、足を病んだ時にも、神を求めずに医者を求めたのでした(Ⅱ歴代誌16章を読んで下さい)。
 アサは出発がよかったが、最後が悪かったという歩みから注意深く学んでおきたいのです。信仰者も注意しなくてはなりません。信仰の当初の輝かしい歩みが、いつしか人間的、この世的な社会からの影響を受け、すっかり信仰を失ってしまう人がいます。それはほんとうに残念なことです。
 ジョージ・ミュラーは「主よ。われをして、罪深い老人として死ぬことがないようにしてください。」と祈るのが常だったといいます。そして、そういうように主のみこころにかなわない晩年を過ごす人が決して少なくないことは悲しいことです
<祈り>主よ。若いときの主への忠誠、熱心を、生涯の最後まで貫けますように、救いの恵みをいつも自覚させてください。

主題 <あなたの私への取扱いは正しい>

聖書箇所 列王記第一  14章  (2012年12月23日)

今日のみことば「だから、見よ、私はヤロブアムの家にわざわいをもたらす。」 (10)  

 神は信賞必罰を行うお方です。ヤロブアムはイスラエル北王国の王となったが、神のみこころに従わず、金の子牛礼拝をはじめ、神に従わない政治のために、滅亡させられてしまいます。
 子供の病気のために、神の預言者の所へ変装してたずねさせると、目も見えなくなった預言者アヒヤがきびしい宣告をいいわたします。
 これから、第一に、私たちの生涯は神さまの目を決して逃れることができないことを教えています。
 第二に、罪の結果がどんなに恐ろしいことかを真実に語らなければなりません。
 第三に、イエス・キリストの身代わりの死、十字架がどんなにすばらしい救いかを体験して、伝えることです。
 私たちはこれらの出来事を通し、神をおそれ、神が聖き方、主であることが教会によって語られていることを受けとめる必要があるのです。

<祈り>主よ。あなたの私への取扱いは正しいのです。このかみさまへの深い信頼から、罪を犯すことがないように守って下さい。

主題 <本当の預言者> 

聖書箇所 列王記第一  13章  (2012年12月22日)

今日のみことば「あの人が主の命令によって、……呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」(32)

 本当の預言者とは、どんな人でありましょうか。この章にみられる神の人の行動に大きな感動を覚えるのです。
 王の権力も恐れず、大胆に神のことばを語り、王の伸ばした手がしなえてしまいます。この奇蹟によって、王は、神の人のことばをその時だけ受け入れようとする。やがてこの神の人が飲食せず別の道を帰るべきところ、にせ預言者が誘惑して神の命令に背いて罪を犯すこととなり、獅子に殺されてしまいます。
 ある視点からこの問題を考えると、このあわれと見えるにせ預言者によって誘惑されて失敗した愚かな人間と思えるのです。けれども、彼こそ預言者の中の預言者ではないかと思う。それは彼が神の命令を伝え、そして、神の命令を守らない時には、自分の生涯の通りになることを身をもって証言したからです。彼の死は無駄か、犬死にだったでしょうか。
神に示された預言者にさえ、必ず成就するといったことばの中に、厳しくも真実な預言者の生涯を教えられる。

<祈り>主よ。あなたのみ言葉は、必ず実現します。神の言葉を語る器たちの上に、主の導きを与え、私たちが聞き従う自由を下さい。

主題 <高慢と謙遜>

聖書箇所 列王記第一  12章  (2012年12月21日)

今日のみことば「彼はこの長老たちの与えた助言を退け、彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、……」(8)  

 ソロモンまで続いたイスラエル王国が危機にさらされて来ます。王位をついだ若い王レハブアムはまず直面した国家の問題、すなわち税のありかたに取り組むことになります。父ソロモンは、ぜいたくを尽くしたので、国家財政は破綻をきたしていたためです。
 この国家の問題を解決するために、はじめに父ソロモンに仕えた長老に相談します。彼らのすすめは、謙遜に仕えるようにとさとされます。しかし、彼はその意見を退けてしまいます。
そして、レハブアムに何でも言うことをきき、自分に仕える若者に相談をし、彼らの考えを実行します。
 ここに、人間のだれでも陥りやすい問題がある。それは高慢ということです。高慢と無知は、王という立場にあるという誇りとなり、へりくだることを拒否し、長老たちの進言を棄てさせたのです。
 教会の問題にしても、霊的な根本の姿勢は、謙遜ということです。人がある立場を確保すると、以前のように自分をむなしくすることができなくなる危険があります。このために、その人を不幸にしてしまいます。ついに争いと分裂に至ることがあるのです。

<祈り>主よ。自分の思いをやり遂げる誘惑から救い出してください。いつも、主のみ思いがなされるように心を支配してください。

主題 <ソロモンの晩年の罪とさばき> 

聖書箇所 列王記第一  11章  (2012年12月20日)

今日のみことば「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(3)

 ソロモンの晩年の罪とさばきが記されている。聖書中、ソロモンの堕落ほど悲しむべきものはない。彼は知恵と賜物に豊かで、富に、人材にすばらしいものを持ったのです。しかし、その知恵と賜物が、神への敬虔の時間(Quiet Time)と交わりを保つわけではなかったのです。
 申命記17章17節で、王たる者の心がけとして、馬(戦力)に頼らず、妻を多く持たず(品性)、神をおそれ、神のみを頼りに生きること(敬虔)を命じられている。聖書を絶対の拠りどころに読み、神を恐れることです。
 けれどもソロモンは、神の律法にそむき、外国の占領地の娘たちに心を引かれ、彼らの持っていた偶像をとり入れて機嫌をとったのです。
 こうして、彼の晩年は、父ダビデの敬虔によって占領した土地を次々に失い、ソロモン王に敵する者が次々に現れてくるようになります。その結果、イスラエルは分裂国家にいたります。
 信仰者は、晩年においてきよく美しくありたいと願う。

<きょうの祈り>主よ。いつも神様の前に呼ばれても、透き通った信仰の歩みをさせてください。妥協せず、信仰を貫徹させて下さい。

主題 <想像をはるかに越える祝福>

聖書箇所 列王記第一  10章  (2012年12月19日)

今日のみことば「驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。」(6~9)

 シェバの女王がソロモン王に謁見に来ます。彼女はアフリカのエチオピア地域の女王としてソロモンの栄華と知恵について耳で聞いていました。そして遠路イスラエルへ来るのですが、今は目をもって繁栄を見たのです。
ソロモンの栄華と知恵は、考えられうる想像をはるかに越えるものでした。
 シェバの女王はこうした王のもとで仕えられる家臣は幸いだと述べたが、そうした国のすばらしさは、神を信じた私たちにも当てはまるのではないだろうか。
 私たちが罪を悔い改め、主イエスさまを信じた信仰によって得た安息と力とは、キリスト教を受け入れる入信以前の想像をはるかに越えるものです。神の国の祝福が想像を越えた喜びです。
 マタイ13章17節に、「見よ、ソロモンに勝る者がここに居る。」とキリストはいわれる。キリストのもとに求道する魂に、求めていた祝福以上のすばらしい賜物を与えて下さるのです。
 私共は、ソロモンの知恵と繁栄に勝るキリストの祝福に仕えることができる幸いと特権を感謝しましょう。

<きょうの祈り>主よ。あなたの知恵と力は、ソロモンの素晴らしさに比較できません。神の国に生きる幸福を満喫させてください。

主題 <わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある>

聖書箇所 列王記第一  9章   (2012年12月18日)

今日のみことば「わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(3)

 王に即位した頃にギブオンで語られた主は、今や20数年の後、再びソロモンに現れて語られました。神殿建築が終り、その祈りを聞いたと言われ、神の目は常に神殿に注がれているといわれている。
もし、全き心と正しさをもって歩くなら、ダビデの王座を永遠に確立しよう(4~5節)。けれども、もし、その神への敬虔を忘れるなら、反対に失敗と崩壊と物笑いになると警告している。
 旧約聖書での契約は即物的、現世的なものです。もし、神のみこころに従う生活を歩むなら、必ず繁栄があることを神は約束されました。
 しかし一方、神を愛することを第一にしないなら、反対のさばきのみことばがあります。旧約聖書のイスラエルの歴史はその神の審判のことを物語っているのです。
 私たちも、神をおそれることを忘れた時、現実にさばきがあります。霊的にも祝福を失い、現実的にも祝福を失うのです。神様の目と心は常に神の宮である教会にあり、クリスチャンの心の中にあるのです。

<きょうの祈り>主よ。この個人的な祈りにも、教会における兄弟との祈りの中に、あなたがいて下さることを感謝します。臨在を常に覚えさせて下さい。

主題 <ソロモンの祈り>

聖書箇所 列王記第一  8章   (2012年12月17日)

今日のみことば「王は誓って言った。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てた宮など、なおさらのことです。」(27)

 この時のソロモンの祈りは有名です。ことに心をとめなくてはいけないのは、偉大な神へのソロモンの謙遜さです。
 有名なソロモンの神殿、美麗な金でおおい尽くされたこの建築物も、神を入れることはできない。神はこの地上に住むようなちっぽけなお方ではない。神を入れる建物は、天も、天の天も入れることはできないと告白する。『まして、私の建てた宮など、なおさらのことです。』と。歴史に残る偉大な神殿も、神の目から見ればささいなのです。
 しかし、この神殿においてささげる王や人々の祈りを聞き、罪を赦し、報いて下さり、神の名を置いて下さいと祈っている。神が隣在される神殿に置かれていたのは、神の箱ですが、そこには主の名が置かれ、主の名を呼び求める者の祈りを聞かれる。
 イエス・キリストの変貌山での出来事にも相通じ(マタイ17:5~)、あのイスラエルのタボル山でも神が臨在してくださったのです。それはイエス・キリストの何より祈るクリスチャンの祝福である。

<きょうの祈り>主よ。あなたが、この私の心と祈りに耳を傾け、心を注いで下さることに深い感動を覚えます。