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2012年9月20日 (木)

主題 <主が人の声を聞き入れられた日>

聖書箇所 ヨシュア記 10章   (2012年 9月 6日)

今日のみことば「主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。」(14)

 ギブオンと和を講じたことは、カナンの諸国に二つの影響が出た。
一つは恐れであり、もう一つは裏切り者ギブオンを討伐しようとしたのです。ギブオンはヨシュアに助けを求めた。
 この時に、ヨシュアは主を求め、導きを切に求めた。失敗から学ばない時、再び同じ過ちを繰り返すことになる。賢い指導者から学ぼう。
 8節の主のみことばをヨシュアは何度も何度も、自分自身に言い聞かせた事だろう。そしてイスラエルの人々にかんで含めるように語ったことだろう。
 だが、さらにもう一つの心を傾けたことがあった。それは主にこの結果の成就を求めたのです。
 主は確かに彼らの味方となり、戦いの将となり、惠みのみわざを行われることを確信したのです。ヨシュアは人々の見ている前で、天変地異のしるしを語った。
丸一日の間、日と月が動かなかったという。後にも先にもない奇跡である。
 なぜでしょうか。主がイスラエルのために戦ったからである(14節)。神が私のために戦っていてくださるという確固とした確信を握ろう。
このような日、そうです。今日があなたにとってのその日であります。

<祈り>主よ。あなたの言葉への深い信頼により、勝利の確信を持って一日を歩ませてください。ア-メン。
<祈りの課題> 

主題 <主の指示をあおがなかった>

聖書箇所 ヨシュア記 9章    (2012年 9月 5日)

今日のみことば「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」(14)

 人は案外たやすく、だまされやすいのです。
 ギブオンの人々は命の危機を敏感に気づき、和睦のために変装して近づいたのです。
 この時に、イスラエルのヨシュア以下指導者たちは、疑いつつも巧みなしぐさ、古びたパン、巧みな言葉によってだまされてしまったのです。ギブオンへの盟約によって生き延びることとなります。
 このだまされた結果、ダビデの時代にいたるまでノドにつき刺さった骨のようにイスラエルは長い間苦しみ抜くことになります。しかし、またギブオンが本当に征服された時、そこがダビデの町となり、エルサレムの神殿が建て上げられる場所になっていったのです。霊的な問題をかかえた昔もあるが、信仰により勝利した時、そこは祝福にすっかり変えられることを覚えましょう。
ヨシュアたちはなぜ、だまされたのでしょうか。
1)戦いに勝利することが当たり前の気分になってしまった。
2)直面した敵に心が奪われていった。
3)一番大切な点は主の指示をあおぐことをしなかった。
 今日、主のみことばの中から、知恵を切に求める者となろう。

<祈り>主よ。あなたの指示をたえず仰ぐ信仰を求めます。多くの問題が、きょうも立ちはだかりつまずく危険があるからです。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <わたしがアイを手に渡すから> 

聖書箇所 ヨシュア記 8章    (2012年 9月 4日)

今日のみことば「そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。」(18)

 聖絶すべきものは、イスラエルの内にありました。神はアカンたちをさばいたのは、イスラエルが聖絶される民になる危険があったからです。
 きよめは、神の民に大きな新しい勇気と力を与える。自我は人の中から力を失わせ、愛と惠みを奪いとる癌である。自我は何もかも自分を喜ばせることために生きるが、それ以外の命あるものを破壊し尽くし、その人の命を奪った時、いっしょに滅びるのである。
 だが、その前に自我をキリストと共に十字架につけた、きよめの生涯に入らねばならない。
 肉的な動機と生活、罪を愛し、自我を喜ばせる罪を告白しよう。癌のような罪の力を砕き、自我を死なしめる十字架を見上げ、信仰によってキリストと共に死のう。今、生きているのはわたしを愛し、私のために死なれたキリストの惠みのみによることを深く明確に体験しよう。
 『わたしがアイをあなたの手に渡すから(18)』とあるように、人間的な問題、健康、試練も神御自身が勝利への知恵と力とになられることをはっきり知って出かけよう。

<祈り>主よ。約束のように、アイを私の手に渡してください。今日の戦いがどれほどでも、約束への信仰を貫かせてください。アーメン。

主題 <イスラエルは罪を犯した>

聖書箇所 ヨシュア記 7章    (2012年 9月 3日)

今日のみことば「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」(1)

 驚くべき大勝利を得たエリコの戦いは、イスラエルをして罪を犯させる場所となった。それが小さいと見えたアイの町を攻撃した時に表れたのである。アイは小さい町ですから、わずかな民で十分と、たかをくくり高ぶったことです。巨大なエリコは信仰と服従によって陥落したのであって、民の多い少ないによらなかった。そして、そこでこっそり人目をかいくぐって聖絶のものを自分のものにしたのです。
 ここで、聖絶のものについて考えよう。
悪が満ち、ソドム,ゴモラのように主のさばきを受ける、汚れが支配していた町や国です。そのためにイスラエルが滅ぼす器として用いられたのです。神の民はその中で一緒に汚れることをはっきり拒絶して、聖絶するように神が命じたのである。
 アカンは、一個人として罪を犯したが、それがイスラエル全体にたちまち波及する危険があり、アイの敗戦によって神が罪を啓示したのである。罪は小さな穴から入り込んで堤防を決壊する。シャ-プな罪の悔い改めを今日考えよう。

<祈り>主よ。あなたの罪を犯したことを自覚する霊的な鋭い感覚をお与えください。それが滅びず、祝福への入り口ですから。アーメン。

主題 <ときの声を上げなさい>

聖書箇所 ヨシュア記 6章    (2012年 9月 2日)

今日のみことば「その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ」 (16)

 エリコ攻略には、鉄砲も軍馬も軍隊も必要でなかった。神の約束のみであった。神の約束の成就を、神の一方的な力によることを、どれほど信じていることだろうか。神の約束の地を手に入れさせてくださる今日一日が、人間的な努力や勢いによらぬことを学ぼう。ゼカリヤ4:6を読み直して下さい。
しかし神は人から三つのことをするように命じられた。それこそ神と人の協同のわざ、人が生かされる意味がある。
第一に、信ずることが求められる。
 神は約束の言葉を与えられた。『見よ。わたしはエリコとその王、その勇 士たちをあなたの手に渡した』と。約束への人の側の絶対に必要なことは信ずる事である。信じなくては約束は成就しない。小さくてもよい。信じきる決断に踏み切ろう。
第二に、信じて後に、従うのです。信じた時に約束は事実、成就したのと同然なのである。そこを信じて踏み出してゆくのです。現実はどんなに困難な城があっても、与えられたと感謝して歩み出します。
第三に、時満ちた時に、ときの声を上げよう。
 神のみわざの勝利を確信して賛美し始め、与えられた感謝を告白しよう。
<祈り>主よ。あなたは勝利を感謝し信じます。アーメン
<きょうの課題>

主題 <足のはきものを脱げ>

聖書箇所 ヨシュア記 5章    (2012年 9月 1日)

今日のみことば「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。 「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」(15)

 ヨルダンを越えたイスラエルがした第一のことは、割礼のない荒野で生まれた世代の割礼であった。アブラハムに神が命じられたおきてであった。それはエジプトにおけるそしりを取り除かれる意味でもあった(9)。
 第二に、ちょうど出エジプトをしたときに過ぎ越しの正月14日が来たので、割礼を受けた全イスラエルが、40年ぶりに行なった記念すべき日であった。こうしてこの地の産物を食べた日より、天からのマナはやんだ。実に40年間毎日養われる経験が完了したのです。
 第三は、指導者ヨシュアのきよめである。最初の攻略地であるエリコを前にした指導者は、目を伏せて考え込んでいたであろう。彼の前に立った軍の将がいることに気づいて、『目を上げた』(13節)のです。この方は主が遣わした御使い(Ⅰ列王22:19)の大将でした。
 彼のメッセ-ジは『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。』(15節)と語られた。エリコの近くの荒野であろう場所が、かつてモーセがシナイ山のふもとの柴の炎のなかで、聞いた(出エジプト3章)と同じみこころであり、聖なる地でした。シナイのふもと、そしてエリコのみでなく、今あなたが立っている場所こそ神の聖なる地(サンクチュア)なのです。主をそこの場であがめよう。
<祈り>主よ、自分を受け入れられず、置かれた状況を受け入れられない今、そこに聖なる主の現在を受け入れます。アーメン
<きょうの課題>

主題 <これは何と聞いたなら>

聖書箇所 ヨシュア記 4章    (2012年 8月31日)

今日のみことば「それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。 後になって、あなたがたの子どもたちが、 『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、」(6)  

  日本人とイスラエル人の違いは何だろうか。イザヤ.ベンダサンは興味深い文化論を書いているが。それは、歴史に対する継承という点であろう。
 日本人は戦国時代や明治、戦後など節目ごとに過去を切り捨て、拒否して脱皮してきた。イスラエル人は過去になされた神のみわざを絶えず忘れないように記念の石塚を築き、そのみわざを子孫に語り継ぐ民族なのである。
『それがあなた方の間で、しるしとなるのである。後になって、あなた方の子供たちが………と聞いたなら、あなた方は彼らに言わなければならない。』(6~7)
ヨルダンを越えた驚くべき神の業を記念して、川のところに12部族ごとに一つずつの大石を据えたのです。
 過去を思い返すことこそ、将来に生きる大きな確信となる。過去から学ばない時に、未来は絶えず行く先の知れない不安の中に進むことになる。日本人の過去を忘れ、忘れることよりも、神のめぐみの数々を深く心に刻むことを生活の中心に据えておきたいのです。
 神の惠みを心の石碑に記すと共に、子供達へ、また周囲の人たちに証しする方法を考えよう。今日から、そのすばらしい祝福をあかしすることを始めよう。
<祈り>神様、こどもたちにあなたの素晴らしい恵みを伝える幸いに招き、そこにある努力する力と忍耐をお与えください。ア-メン。
<きょうの課題>

主題 <足の裏が水の中に> 

聖書箇所 ヨシュア記 3章    (2012年 8月30日)

今日のみことば「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・」(15)

 神の民は、祭司の後を続いて進むのである。このときにヨルダンの水は川岸まで岸いっぱいに溢れていた季節だったのです。神はこうした時期に渡るように命じられる。神のなさるみわざはいつもこの点で変わらないようです。人の思いや計画が行きづまったと見える時こそが神の出番となる。
 神がみわざをなさるためには祭司が箱を担いでヨルダン川に足をいれなくてはならない。刈り入れる季節の川はいつもよりはるかに水量が多い。そこを神の助けを信じて踏み込む。その決断ができたのは、9~10節にある。
第1に、主のことばを本気で聞くことによる。
神には不可能なことがないと、記されております。
第2に、生ける神があなた方のうちにおられること。
神は死んだ神ではなく、いま現実に生きておられるお方です。
第3に、足の裏で踏む時に神が敵を追い払うことを知ることのあかしとなる。
 大きなチャレンジである。いつになく水かさの増した川へ足を踏み込むように招いている。しかもこの体験こそが、約束の地を手にいれてゆく大切な道程なのです。そこに奇跡が起こりました。川は二つに割れて、いままでの濁流の河床を乾いた地のようにわたれたのである。
<祈り>主よ。あなたの言葉への深い信頼によりきよめの生涯へ足を踏み込み、祝福をいただかせてください。  ア-メン。 
<祈りの課題> 

主題 <真実と誠実を尽くそう>

聖書箇所 ヨシュア記 2章    (2012年 8月29日)

今日のみことば「その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」(14)
 ヨシュアはカナンの地を占領するためにエリコを偵察させます。二人の斥候を遣わします。神の働きにおいて、一人ではなく二人は有益です。主も宣教に二人づつ派遣しています。エリコは昔から栄えた町でしたが、そのような町で、遊女ラハブに出会うことになるのです。彼女はのちには主の先祖にさえなるのです。
 これまでなされた出エジプトやシナイの奇跡は、遠くカナンの地、エリコまで届いていたのでした。カナン人は神が共におり、イスラエルが強大なエジプトを出立して、ヨルダン川の東までの間、次々と勝利をされてきたことを見聞きしていた。キリスト者の救いもきよめの生涯も、信仰のない人々に思いもよらない神のわざが証しされていることをどれほど分かっていたことだろうか
 ラハブは斥候に対して手厚くもてなす。それは神のしもべに対する態度でもある。神のしもべに対したあり方は、彼らと共におられる神の証しが伴っていたゆえでありました。一方それゆえに命をつけねらった王や兵士たちもいたのです。主のしもべはいのちの香りと死のかおりを放つのである。いのちに至るとすれば信仰により神を受け入れるように神のしもべを受入れることである。
 ラハブは神のしもべに真実を尽くしたように、このわたしに真実を尽くして欲しいと訴える。二人の斥候は、確かに真実と誠実を尽くそうと誓う。この誓いはまた神のあなたのよき誠実な神のしもべへのあり方への報いととるべきではないだろうか。
<祈り>主よ。あなたの遣わした神の器のために誠実と愛を行いたいのです。私たちにあなたの真実を現して下さい。

主題 <ただ強く、雄々しく> 

聖書箇所 ヨシュア記 1章    (2012年 8月28日)

今日のみことば「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9)
 イスラエル人を導いていたモーセは、約束の地に入ることなく天に召されました。指導者を失ったイスラエルの人々は悲しみましたが、神はモーセの代わりにヨシュアを次の指導者として立てて下さいました。
 この時のヨシュアはどのような気持ちだったでしょうか。モーセのような経験もなく、どんなにか心細かったでしょう。大勢のイスラエルの民を約束の地に導かなければならない責任に押しつぶされる思いだったでしょう。そのようなヨシュアに主が命令と約束を告げられたのです。
 2~9節に次のような命令と約束を見ることが出来ます。
命令
 神の与えようとする地に行くこと(2節)
 すべての律法を守り行うこと。
 恐れてはならないこと(9節)
約束
 ヨシュアの行くところ、その足で踏む所を与えるすべてを与える(9節)
 律法に従うなら、繁栄すること
 あなたの行くところのどこにおいても神がともにあること(9節)
ヨシュアにとって、この命令と約束はどんなに力強かったでしょうか。ヨシュア記の信仰に答えられた神は、約束通りヨルダン川をせき止め、イスラエルを前進させて下さいました。私たちも、みことばに従って行くときに、同じ勝利を経験できるのです。