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2012年9月20日 (木)

主題 <モーセの死とヨシュアへの継承>

聖書箇所 申命記 34章     (2012年 8月27日)

今日のみことば「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命いじられたとおりに行なった。」(9)

 申命記の最後の章は、モーセの死と埋葬、イスラエルによる服喪、ヨシュアによる継承と、結語が述べられている。
 モーセは、32章四9節で主がお命じになっているように、モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。そこから約束の地を見た。そこが、族長たちに与えると主が誓っておられた地が見えた。
 モーセの死は、神の民をエジプトから脱出させ、荒野を40年もさまようという、困難に満ちた奉仕からの解放を意味していた。モーセは今や使命を終えて天に召された。
 彼は主のしもべと呼ばれ、主の命令によって死に(5)、主によって葬られたと言われていることに注目したい(6)。
 モーセは120歳で死んだが、老衰ではなかった。「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とある(7)。主がモーセの死をみこころとされたことを意味している。また、主がモーセの労苦をねぎらわれたことを表している。これにまさる慰めと報いがあるだろうか。
 偉大な指導者モーセの死を悼んで、イスラエルは、30日間喪に服した。
 しかし、一人の指導者の死によって、神のご計画が中断してしまうことがあってはならない。モーセの後継者であるヨシュア(知恵の霊に満たされた人)によって、主のみわざは継続されるのである。
 結語の部分では、再びモーセのことが触れられて、主がモーセを選び、ご自身を啓示された目的が述べられている。

主題 <しあわせなイスラエル>

聖書箇所 申命記 33章     (2012年 8月26日)

今日のみことば「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」 (29)

 6節以降から各イスラエル部族に対して語られた祝福のことばが記されている。ルベンに対しては少数でも生き残るように語り、ユダに対しては、敵からの助けを祈っている。レビに対しては神の御心を求め祭司の務めを果たすように祈り、ベニヤミンには主の保護を祈っている。ヨセフについては、地の産物が豊かに与えられることが預言のように告げられている。ゼブルンとイッサカルは対で登場し、外に出て行っても、天幕の中にいても喜べと呼びかけ、その理由として海の富(海上貿易)による繁栄を挙げている。ガドは雌獅子にたとえられ、最良の地(ヨルダンの東側)に相続地を得る。カナン攻略の時には、イスラエルの先頭に立って戦うことになる。ダンは獅子の子にたとえられ、バジャンからおどり出ると預言されている。ナフタリは、やがてガリラヤ湖西南地域を所有するようになる。アシェルには、オリーブ油に恵まれ、「かんぬきが、鉄と青銅」と表現されるように(25)、防備が堅固であるという、祝福が告げられる。
 26~29節は、モーセによる祝福のことばの結びである。この結びの箇所には、特徴的な二つの呼びかけのことばがある。一つは、イスラエルの詩的愛称である「エシュルン」(26)で、もう一つが「しあわせなイスラエル」である(29)。これらはこの箇所のキーワードと言える。すなわちイスラエルの神は、他に並ぶものがない偉大な神であり、民の住む家となってくださるので、民は真の安らぎを得、くつろぐことができる。また、神の民への祝福が、29節に要約されている。神の民として生きることが真のさいわいであることを覚えたい。

主題 <主への背信> 

聖書箇所 申命記 32章     (2012年 8月25日)

今日のみことば「まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。」(28~29)

 32章はモーセの歌が記されている。今日は19節以降に歌われている主への背信について注目したい。神の恵みをないがしろにしたイスラエルの背信の結果は何であったのか。神は、決して罪を見過ごされることはない方である。
 19~25節には、背信のイスラエルに対する、神のさばきが語られている。民への怒りによって、主は彼らを退けられた。神が顔を隠すという擬人的表現は(20)、神がもはや民を顧みられなくなったことを示している。彼らは、神でないもの(偶像)によって、神のねたみを引き起こしたので、神も同じように神の民ではないもの(異邦人)によって、イスラエルにねたみを引き起こすと、主は仰せられる。義なる神の怒りの激しさが、22節では、焼き尽くす火にたとえられている。「わざわいを彼らの上に積み重ね」とあるように(23)、飢え、災害、悪疫などが(24)、イスラエルの乳飲み子から白髪の老人にまで、容赦なく臨むようになる(25)。
 26~35節には、それが主による復讐であり、報いであることが明らかにされている。もし、民に思慮と知恵があったなら、滅びを免れることができたはずだと、主によって言われている(28)。30節の「彼らの岩」とは主のことだが、31節の「彼らの岩」は、敵の頼みとする偶像の神を指しているので、注意して読む必要がある。
 主への背信の罪に対して、必ずさばかれることが語られている。しかし、その一方でさばきを避けられることに触れられている。それは、今日、神のみことばに聞くところにあることをさとらなければならにことが教えられている。

主題 <強くあれ、雄々しくあれ>

聖書箇所 申命記 31章     (2012年 8月24日)

今日のみことば「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(6)  

  1~6節では、全イスラエルに対しての語りかけがある。モーセはすでに百二十歳に達していた。自らはヨルダンを渡ることができないので、民を励ましている。主が先立って渡ってくださり、共に進んでくださる。主は民を見放さず、見捨てない。それゆえ強くあれ、雄々しくあれと命じている。
 モーセは、7~8節で、ヨシュアに対しても同じように励ましを与えている。自分に代わって神の民を約束の地に導き入れるのは、ヨシュアの務めであることを、全イスラエルの前で告げ、ヨシュアに自覚を与えている。
 この同じ励ましのことばが、モーセの死後、神ご自身によってヨシュアに語りかけられている(ヨシュア記1:6~9) 
 9~13節では、祭司だちとイスラエルのすべての長老たちに、命令が与えられている。それは、神から与えられたみおしえを、「免除の年の定めの時、仮庵の祭りに」、女、子ども、在留異国人を含めた民に、読んで聞かせることである。その目的は、彼らがこれを聞いて学び、主を恐れ、みおしえのすべてのことばを守り行うためである。
 この使命はとても重要である。神のみことばを読み聞かせていくことは親から子へ、教会の働きとして中心にしていかなくてはならないことであることを覚えたい。

主題 <主のみことばに聞き、実行する> 

聖書箇所 申命記 30章     (2012年 8月23日)

今日のみことば「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(14)

 1~2節には、回復の条件が提示される。それは、神の民が罪の結果として散らされた国々の中で、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うことである。
 3~10節では、回復の約束と、回復に伴う祝福が告げられている。全能の神にとって、ご自分の民を再び集めるのに障害となるものは、何もないのである。
 6節に注目しよう。「心を包む皮を切り捨てて」とは、神の民の外的しるしである割礼を思い起こさせることばである。ここでは心に割礼を受けよという意味で、罪を悔い改め、神に聞き従う心のことを指している。
 11節によれば、神が求めておられることは、決して実行不可能なむずかしいものでも、現実離れしたものでもないことがわかる。12~13節は11節を説明したことばである。実に神のみことばは、天にあるのでもなく、海のかなたにあるのでもない。ごく身近にあり、「あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」のである(14)。
 今や、神の民は「いのちと幸い」か、「死とわざわい」かを(15)選択することが求められているのである。
 神は、私たち人間を、自由意志を持つ者としてお造りになった。与えられた自由意志によってどちらを選択するかは、人生で最も重要な決断である。
 絶えず、みことばに聞き、選択して、実行することができるように祈りましょう。

主題 <のろいに関する警告>

聖書箇所 申命記 29章     (2012年 8月22日)

今日のみことば「しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29)
 29章全体では、契約の更新について記されている。今日は特に後半ののろいの警告について注目したい。
 神の民は、エジプトの地において、また荒野をさまよう間に、異邦の民の中に忌むべき偶像を見てきた。神の民は、「万が一にも、主を離れて、偶像に仕える者があってはならない」と警告されている。18節では、偶像礼拝のことが、毒草や、苦よもぎを生ずる根と、表現されている。
 19~20節には、こののろいのことばを聞いても、自分は大丈夫だと、心の中で自分を祝福する(うぬぼれる)者を、主は決して赦そうとはされないと書かれている。「潤ったものも乾いたものもひとしく滅びる」とは、砂漠の熱風が、すべての植物を枯らしてしまうところからとられた、たとえである。また、主の怒りとねたみが燃え上がると言われている。特に、ねたみということばが、主に関して用いられる場合、人のねたみとは異なり、あくまでも契約を守ろうとされる、神の熱心を表している。
 この書に記されたすべてののろいの誓いが、その者の上にのしかかる。どのようなのろいかは、前日の通読箇所だった28章15-68節で見たとおりである。さらに、主は、その者の名を、天の下から消し去られるのである。
 後の世代の人々が、彼らに下されたわざわいを見て、「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか」と問うなら(24)、人々は即座に、神の民が神との契約を捨て、偶像に仕え、それを拝んだからであると、答えるというのである(25-28)。これは、私たちが学ぶべき歴史の教訓である。

主題 <祝福とのろい> 

聖書箇所 申命記 28章     (2012年 8月21日)

今日のみことば「あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」(14)

 28章には主に従う者の祝福と不従順の者へののろいが記されている。
 3~6節は一つの区分となっていて、ヘブル語の原文では、六つの「祝福される」という言葉が文頭に用いられている。
 神の民は、どこにあっても祝福され(3)、胎の実である子どもも、地の産物も、家畜も祝福される(4)。収穫を入れるかごも、パンをこねるこね鉢も祝福される(5)。7節では、敵に対する勝利、8節では、収穫と動労の祝福が約束されている。
これらの祝福の条件が、1節と共に、9節にも提示されている。それは、主の命令を守り、主の道を歩むことにほかならない。そうするなら、神はイスラエルを、ご自身の聖なる民として立ててくださる(9)。その結果、諸国民は神の民を恐れるようになる(10)。
 11~13節では、再び、約束の地における様々な祝福が、告げられている。物質的に恵まれることは、神の民にとって確かに大きな祝福であるが、神の民とされ、神を知り、神を礼拝できるという霊的な祝福にまさるものはないのである。
 15節以降には、前述されていた祝福とは正反対ののろいについて記されている。神の民が、主の御声に聞き従わず、主のすべての命令を守り行わないなら、多くののろいがもたらされるということを明確に語られている。祝福の記述よりものろいの記述の方が4倍のスペースを用いて28章では記されている。これはいかに神の民が主に従順に歩むことができるように警告し続けている神の配慮がなされていると言えよう。

主題 <主のみことばを刻む>

聖書箇所 申命記 27章     (2012年 8月20日)

今日のみことば「それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。」(8)

 1~8節には、主の命令を石にどのように刻字すべきかの、手順が示されている。民は、大きな石をエバル山に立て、それらに石灰を塗り、その上にこれまで語られてきたみおしえ(律法)を書き記さなければならない。これは、耳で聞いた主の命令を、明確に記憶させるためと考えられる。さらに、自然のままの石で主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげるよう命じられた。全焼のいけにえは、全き献身を、和解のいけにえは、神との交わりを表すものである。
 9~10節では、律法を教える立場の祭司によって、イスラエルの民は「主の民となった」という宣言がなされた。それと共に、律法を行ってこそ、真の神の民であるとの勧めがなされている。
 11~26節においては、民を祝福するために、十二部族のうちの、レアとラケルの子孫(12)である六部族がゲリジム山に立てられ、逆にのろいのために、残りの六部族(13)がエバル山に立てられた。なお、シェケムの谷をはさんで、エバル山とゲリジム山とは、向かい合ってそびえていた。
 十二の、のろわれるべき悪が、挙げられている(15-26)。これはイスラエルの部族の数である。ここに挙げられている悪は、十戒に照らし合わせると、第二戒、第五戒、第六戒とは直接関係があり、あとは十戒の適用となっている。
 民は律法の遵守を、のろいのことばをもって誓い、最後に「アーメン」と言って同意を表明した。
 私たちには今日、聖書のみことばが与えられている。このみことばに心に刻み、主に聞き従う者とならなければならない。

主題 <最良のものをもって>

聖書箇所 申命記 26章     (2012年 8月19日)

今日のみことば「今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。 」 (10)

 1~11節では、初物のささげものの奉献について、記されている。
 荒野を四十年開旅したイスラエルの民は、約束の地に導き入れられるなら、定住生活になり、農耕生活を営むことになる。これは彼らにとって一大変化である。彼らは、額に汗を流す労働によって収穫を得るようになる。そのとき、自分の力によって収穫を手にしたと考えるなら、神の恵みを忘れることになる。そうならないように、神のもとに収穫の初物を携えて、神を礼拝することは、彼らにとってきわめて大切なことである。これが神の恵みに対する正しい応答と言える。
 12~15節は、三年ごとの十分の一のささげ方について、教えたものである。十分の一は、全体を神にささげる象徴であって、残りのものはすべて自分のものだという意味ではない。
 また神を礼拝することと、食糧などの必要を抱えているレビ人や在留異国人などの隣人に配慮することとは、切り離してはならないことであった。
 民は、そのささげものが、聖別されたものであることを告白する必要があった。たとえば、喪中にそれを食べなかったことや、死人に供えなかったことなどで(14)、神がささげる者の心をご覧になるということを、示している。
 主にあって導き出されたイスラエルの民が主に感謝し、最良ものをささげ仕えていくように勧められていたことを覚え、私たちも主に救われた者として最良のものをささげつつ主に仕える者となろう。

主題 <主の命令に従う> 

聖書箇所 申命記 25章     (2012年 8月18日)

今日のみことば「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。」(19)
 1~3節は、むち打ちの刑についてで、四十までと制限が設けられている。これは受刑者の尊厳を保つためであった。何より刑の執行は、正義が行われるためにほかならない。
 パウロは4節を引用して、奉仕する者がそれに応じた報酬を得るのは当然であることを論証している(Iコリント9:9~11)
 5~10節は、逆縁婚とか、レビラート婚と呼ばれている規定である。すなわち、夫が子を残さずに死んだ場合、その夫の兄弟がその妻と結婚し、彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせる義務を課するものである。この規定は、相続を円滑に行うためと、神との契約を継承するためであつた。この規定の実例として、少し状況は異なるが、ルツとボアズの結婚を挙げることができる(ルツ記4章)。
 11~12節は、その目的が良くても手段が悪ければ、厳しく罰せられるという一つの例である。
 13~16節には、正しい計量を行うようにとの命令が書かれている。
 17~19節には、アマレクに対する処罰の命令が与えられている。これは出エジプト記17章8~16節に基づくもので、主はモーセに「このことを記録として、書き物に書きしるし、・……わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう」と仰せられた。モーセは主の言われたとおりに記録し、神の命令を伝達しているのである。
 家庭生活において主に従うことが基本となるようにしよう。