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2012年9月20日 (木)

主題 <のがれの町をあなたがたのために>

聖書箇所 ヨシュア記 20章   (2012年 9月16日)

今日のみことば「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、 」 (2)

約束の地に入った時に、神の民族らしい生活を形造る一つの方法として、『のがれの町』を定めたのです。神の民は神の律法に生きてはじめて輝いてくる。しかし、どんなに一生懸命生きたとしても、過失という問題が起きるのはやむを得ないことです。
 この時に神様はあらかじめ「のがれの町」を備えさせたのです。誤って人が殺されるという場合、復讐によってもう一つのあやまちが生ずることがままあるからです。
 この場合、その時の大祭司が死ぬまでこの町で過ごすなら、完全な自由が約束されるのです。一人の大祭司の死とはかくも重大な意味を持っていた。
ですからその時代に何人もの生命の保証人となっている。
 大祭司の死が誤った殺人犯を解放することから、新約の主イエスさまの十字架の死は、数多くの罪人の解放をも予告しているようにも思える。
 『あなたがたのために定め』(1)とある事に心を留めよう。主は『彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』と、罪人の代わりにとりなしていることを覚えたい。この主の十字架の祈りこそ、『のがれの町』の祈りであり、救いのための祈りである。

<祈り>主よ。しばしば罪を犯すものです。十字架上の本当のとりなしによってゆるされていることを感謝します。ア-メン。
<きょうの課題>

主題 <相続地をヨシュアに与えた> 

聖書箇所 ヨシュア記 19章   (2012年 9月15日)

今日のみことば「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。」(49~50)

『こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。』(51節)のです。なんと素晴らしい日を迎えられたでしょうか。幾多の困難があり、主の助けを受けてここまで来たのです。
カナンの相続地のすべてを終えた後に、イスラエル人はヨシュアに一つの地を与えた、と記されている。無欲な指導者ヨシュアは、自分と自分の家族のための相続地など考えないで働いてきたのです。しかし、最後に民衆のほうから相続地を備えるのです。
 ヨシュアの側で要求したのではないでしょう。かれは、自分の相続地は神ご自身であり、目に見えないすばらしい報いをいただいていて十分だったのであろう。そうだからこそ、人々は相続地を持つことを勧めたのだと思えます。
 船が難破したときに、最後に船から出るのは船長です。無事に船が港に着いたときに最後に降りてくるのも船長です。
 奉仕第一に生きたヨシュアの気高い人格にふれた思いがする。私たちもまた、主第一として生きる者でありたい。他者が第二になり、自分のことが終始、第三になるようにありたいと願うのです。

 <祈り>先ず神の国と神の義を第一とさせてください。アーメン

主題 <いつまで延ばしているのか>

聖書箇所 ヨシュア記 18章   (2012年 9月14日)

今日のみことば「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」(3)  

 七部族の占領すべき地についてヨシュアは民を励ましている。『いつまで延ばしているのか』 この聖句は、さばきの言葉ではないだろう。
 約束の土地を前にして、かつて自分がそうであったように、各部族から三人ずつ斥候を選び、土地の調査をし、割り当てたのである。
 約束を受けとりながら、立ち止まっている経験はないだろうか。自分の能力をはかり、いたずらに嘆いてはいないか。戦う相手に気を取られて、主なる神の約束がずっと後ろに後退していまいか。しかも手をこまねいて、いたずらに時間を使っていないだろうか。
 『いつまで延ばしているのか』と今日も、主は私に対して、叱責というよりも、新たな励ましを与えている。取るべき所なお多しである。約束をとらえる信仰と、そこに踏み込む信仰を働かせなくてはいけない。
 ところでレビ族には割り当て地がない。主の祭司として仕えることが、その相続地であるからだ。祭司として仕えることは全イスラエルの祝福のために全生涯、全家あげて仕えるのである。それはきわめて大きな栄光であると共に、責任の大きさもはかりがたい。献身者のためにも祈ろう。

<祈り>主よ。約束をいただきつつも、恵みの祝福を受けるのを延ばしてしまう怠惰から解放してください。ア-メン。
<祈りの課題>  

主題 <そこを自分で切り開くがよい>

聖書箇所 ヨシュア記 17章   (2012年 9月13日)

今日のみことば「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(18)

ヨセフの子孫に与えられた相続地の記録である。
 相続地は男子によって受け継がれるのが原則である。ところが姉妹ばかりの家族からの訴えによって、ヨルダン川の東だけでなく、西岸より地中海まで与えられることになる。こうして、マナセ族は広大な地域を与えられた。
 人生はまさに不思議なものである。マイナスと思えた事柄さえも恵みに変えられるのである。恵みをとらえる大胆な信仰を握ろう。
 ヨセフの子孫であるエフライムとマナセは祝福を受けて数多い民となった。『森に上がって行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』(17:15)
 山地も谷間も村落も自分で切り開くがよいといわれる。籤による割り当て地だけをもっていたのではならない。山地もあなたのものとしなければならない。そこに鉄の戦車をもつ強固なカナン人がいても自分で切り開くべきなのです。この事を霊的領域について考えてみよう。取るべきところなお多しなのです。だれかに任せていてはならない。神の国における大きな広い領土、平和と勝利を勝ち取るべく、今日一日が備えられている。

<祈り>主よ。小さな領域で満足せず、広大な神の国の祝福、霊的安息を私のものとする熱意を燃やさせてください。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <くじで割り当てられた地>

聖書箇所 ヨシュア記 16章   (2012年 9月12日)

今日のみことば「ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、東、エリコのあたりのヨルダン川、すなわちエリコの水から荒野に出、エリコから山地を上ってベテルに至り、」(1)

 イスラエルの領土の分割はくじで割り振られたということです。これからずっと生活をする場所です。十分な調査と計算を立てて、決定することが賢明のように思えます。しかし、この極めて重要な決定は神にゆだねるのです。
聖書には、大切な事柄をくじで決めるということが記されています。新約聖書には、ユダが脱落した後の十二使徒の補充をくじで引き、マツテヤを当てています(使徒の働き1;24-26)。
丂饧尵侾俇丟俁俁亀16:33 人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。』(口語訳聖書)とあります。
 神の善と神の知恵を信じて、神の意志にゆだねる意味があるのです。<みこころをしてください>と祈るのが信仰者の姿勢です。
 それは決して投げやりになって、人生を放り出すのではありません。絶望して行き詰まっている状況の中で手をこまねいて傍観しているのでもありません。
 神は、一羽の小雀さえ目を留めておられるのです。目を留めるとは、じっとたたずむようにして見ている姿でしょう。私たちの進む道を主はじっと見ておられ、最善な所領、最善な測り綱が降ろされる場を見定めている。

<祈り>主よ。あなたは知っておられます。明日の私の生活のすべてを。それゆえあなたの御手にゆだねます。アーメン

主題 <水の泉を私にください>

聖書箇所 ヨシュア記 15章   (2012年 9月11日)

今日のみことば「彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(19)

 ユダ族に割り当てられた土地と氏族のリストである。
 約束の地を割り当てるにあたり、広大な土地だが、きわめて綿密な調査がなされ、誤らない境界線が定められてゆく。
 カレブはヘブロンを受け取ったが、アナク人の子孫すなわち巨人の支配の地域を打ち破っている。ことにキルアテ・セフエルを攻めとる者には娘アクサを妻に与えるという褒美を出したのです。ついにオテニエルが攻めとったので、娘アクサを与えたが、この時に祝いの品として娘は、「水の泉」を求めた。ネゲブの地は、砂漠(ネゲブ砂漠という)であったからです。
 父カレブは水の泉を求めた時、『そこで彼は、上の泉と下の泉を彼女に与えた』のである。荒野に遣わす娘夫婦のために、必要な泉を求められて、二つの豊かな泉をすぐに与えている父親の慈しみを思う
 ところで、実にそのひとり子を与えるほどに愛したもう父なる神は、求める者に惜しみない富みを、恵みを、聖霊をくださらない事があろうか。
 きょう一日のためにも、惜しみない祝福を注ごうとしている。その父なる神の愛を大きな信頼をもって受入れ、感謝して前進しようではないか。

<祈り>主よ。日々荒野を歩む私に泉を与えてください。
    内より流れ出る聖霊の満たしを。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <私の今の力は、あの時の力と同様>

聖書箇所 ヨシュア記 14章   (2012年 9月10日)

今日のみことば「しかも、モ-セが私を遣わされた日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(11)

 ここにもう一人の老人カレブがいる。彼は今や85才である。45年の長い間、神とモ-セやヨシュアに従ってきたが、今やなお若いときの燃えるような信仰がこんこんとわき出る泉のように沸きあふれてくるのです。
 『どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私と共にいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。』(12)
 カレブは老人でしたが、約束のみことばを握って信仰を持ってヨシュアに申し出るのです。ここに若者以上のハッラツさを見るのです。神を仰ぐこと、そこには人生への魅力にあふれた輝きがある。
 現代の若者は現実ばかりを見つめて夢がない。なぜか。その背後には、神への信仰の欠如があり、現実を見て諦めてしまうのではないか。
 あなたへの神の期待、計画がある。それは、目が見ていない想像を越えている。(Ⅰコリント2章9節)
 神が約束を履行されることへの夢を生涯みつづけたいと願う。

<祈り>主よ。小さな領域で満足せず、広大な神の国の祝福、霊的安息を私のものとする熱意を燃やさせてください。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <占領する歩みはまだ残っている>

聖書箇所 ヨシュア記 13章   (2012年 9月 9日)

今日のみことば「ヨシュアは年を重ねて、老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね老人になったがまだ占領すべき地がたくさん残っている。」 (1)

 老後に対する不安の一つは、やるべき仕事がなくなることです。
 若い頃は良く働いた。おもしろいようにいろいろやった。しかしそんな過去を述懐する人の中で、若いときに信仰の訓練されていない未信者にとって老後程さびしいものはない。若いときには遊べという人に限って、老後がさびしい。
 クリスチャンは永遠の青年といわれるが、老いてもなお占領せねばならない場所が残されているからです。信仰生活に導かれたことをことのほかうれしく、感謝するほかはない。人生の仕事、それが家庭のこまごまとしたつとめでも、感謝と喜びがある。神から委託された奉仕があるのです。
 やがて新しい天と地への備えのために、毎日の信仰の備えなくして待つことはできない。み国への期待が大きい人ほど祈り方が変わり、聖書の読み方が違ってくるはずです。そして、いよいよ励んで内も外も実を結ぶために、祈り、占領地拡大のために、前進できるでしょう。

<祈り>主よ。年を取っても、青年のように取るべきところに向かって前進するうえかわきを、与えてください。アーメン。
<祈りの課題>

主題 <割り当て地について> 

聖書箇所 ヨシュア記 12章   (2012年 9月 8日)

今日のみことば「ヨシュアはこの地をイスラエルの部族に所有地、その割り当て地として与えた。」(7)

 戦いの後に祝福がある。祈りにおいても、伝道においても、みことばを学ぶにも、集会出席にも、戦いがあります。しかし信仰者が戦いをしないで祝福にあずかろうとしたら心得違いである。
 決して戦い無くして霊的祝福はない。聖書や神についての知識も、頭の肥やしになるだけで、知識的に頭は大きくなっても、手足を動かすことを忘れた信仰者になってはいけません。
 手足を動かして実戦的、実践的クリスチャンになってみことばを生活の中に溶け込ませることが、私たちの祈り、追求となって来るときこそ、私たちの置かれた場所がものをいってくるのです。
 イスラエルにとっても、与えられる場所が、おのおの違います。12部族ごとに分けられた地域は升目を作るように平等ではありません。しかも、その線引きをした場所を、自分たちで占領しなくてはならないのです。広ければ広いほど、戦いも激しく、困難もたくさんあったでしょう。でもそここそが、割り当て地として与えられているのです。
 占領しようとしている場所は、あなたに割り当てられ、祝福を見ることを待っているといっていいでしょう。

<祈り>主よ。祈りつつ実際に戦い、信仰の割り当て地を自分のものにすることができますように。ア-メン。
<祈りの課題>

主題 <ヨシュアの忠実な心>

聖書箇所 ヨシュア記 11章   (2012年 9月 7日)

今日のみことば「主がモ-セに命じたすべてのことばを一言も取り除かなかった。」(15)  

 ヨシュアの人柄をこの一句に見ることができます。
 第一に、ヨシュアの愛と尊敬です。
 先輩モ-セはすでに死んで今や全部の責任はヨシュアにあります。しかし彼は彼を愛し、導き、育ててくれたモ-セ、神に従い通した先輩をどこまでも信頼し教えを大切に守って、事業を完成させていくのです。尊敬や愛という人格を見ます。
第二に、彼の忠実さです。
『主がモ-セに命じたすべてのことばを一言も取り除かなかった。』 これは神のことば、絶対に変えられない権威への信頼につながるのです。忠実さとは信頼につながります。ヨシュアは神のことばへの深い信仰を持っていたのです。
第三に、行動の人であって、ことばの人ではない。
 ヨシュアは行動の人であって、ことばの人ではない。忠実さとは裏返すと行いの人で約束の地への神の命令に対し常に前進し続け、行動し続ける。休むことのない前進こそ、ヨシュアにふさわしい人柄です。人生における尊敬をし、師とも仰ぐ人がいること、そのものが幸福であります。
 今日もヨシュアに学ぶところが多い。

<祈り>主よ。あなたのおことばに、忠実に生きられますように、おことば対する信仰を深めてください。ア-メン。
<祈りの課題>

  

<祈りの課題>