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2012年7月 2日 (月)

主題 <神を聖なる者とするとは>

聖書箇所 民数記 20章     (2012年 7月 8日)

今日のみことば「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 (12)

 モ-セとアロンはイスラエルの指導者として立てられて、出エジプトから、シナイの荒野まで、文字どおり波乱に満ちた奉仕に明け暮れたのです。しかもそこで、いつも神のみこころに生き抜いて歩んできた。
 ところが、このツインの荒野カデシュで大きなトラブルに直面し、二人共に約束の地に入ることが出来なくなってしまう。
 モ-セも人の子でした。姉ミリアムが亡くなり、本当に悲みに直面しているその時に、『水が無くなった。』ので、人々がこんな悪い所へ上らせて……とつぶやき、モーセを取り囲んだのです。
 このとき、モーセは腹が立ち、肉的な思いが先に立ってしまったのです。
 神は人々を集めて『主題 <神を聖なる者とするとは>岩に命じれば岩は水を出す。』(8)とのご命令をモ-セに与えました。悲しみと人々の迫ってくる非難の声に、聞くことをおろそかにしてしまったのでしょう。
岩に命じることはとても静かなみわざですが、それだけに神の聖を現す機会であったのです。ただみ声一つで岩からあふれる水がわき、人々は満ちたりたのです。だがモ-セはこの岩を杖で打ったのです。しかも二度もたたいたのです。こうしてたくさんの水がわき出てみな飲みました。
しかしモ-セは神の命じるようにせず、神の聖なることを現さなかったのです。このような神を聖とする生き方は、ときに試みられる場面に立たされるのです。神への絶対的な信頼を現そうと心を決めたい。
まことに残念でしたが、モーセは約束の地に入ることが出来ないのです。心傷む思いでこの章を読みました。
<祈り>主よ。どういう時にも神のみことばに従いあなたの聖なることを、現すことができますように。アーメン。

主題<彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ> 

聖書箇所 民数記 19章     (2012年 7月 7日)

今日のみことば「彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ」(3)

 旧約聖書は、新約聖書の主イエスさまの中に答を見出だせるように、予言され、啓示されている。
 民はコラの反逆のため、非常に多くの人が死んだので、この汚れを処理するためには、普通の方法では十分ではない。そこでエレアザルが完全な赤い雌牛を宿営の外でほふり、きよめの儀式を行ったのです。これは永久に行う事であり、死体に触れた者は汚れるのできよめるという儀式です。これらは、
  第1に、民の死とは何かを印象づける(民5:1)
  第2に、衛生上の保護
  第3に、罪の責めと罪の力からの唯一の解放者救主が、キリストであることへの備えである事が分かる。
(ヘブル書9:11~14を見ていただきたい)
 私たちの中に汚れを温存してはなりません。親しみをもってかくまってはなりません。断然、捨てて、追出す覚悟が必要です。なぜでしょうか。らい病人などは伝染するからです。罪は知らず知らずのうちに生涯を台無しにしてしまうからです。また交わりにおいても『悪い交わりはよい習慣を損ないます。』とあります。心しなければなりません。

<祈り>主よ。罪を愛する自分を許してください。宿営の外にたずさえて、罪を葬り、十字架につけて処分してください。

主題 <聖所にかかわるとがを負う>

聖書箇所 民数記 18章     (2012年 7月 6日)

今日のみことば「そこで、主はアロンにいわれた。『あなたは………聖所にかかわるとがを負わなければならない………」(1)  

 18章は、祭司とレビ人の職務とその職務をはたすための義務と権利を示している。
 人は自分を聖として、祭司のように幕屋に入る事を要求し、罪を犯しやすいのです(16章から)。しかし幕屋の奉仕が、人間的な動機よっては死をもたらしたために、人々は恐れたのです。
 これに対してアロンが聖所の罪を負うべきことを示されました。このように彼らが卑しめた、否んだその祭司の中に自分たちの安全を見出だしたのです。
 祭司は大きな賜物が与えられている。民のために代わりに聖所で仕えることができるのですが、そのために祭司職のため、聖所のためにとがを負わなければなりません。貴いご用をする賜物(7節)は、またそれだけ責任が重いのです。
 神に立てられて、それぞれの信徒もそうですが、信徒を代表する役員、牧師は賜物が与えられていると共に、応分の責任が課せられているのですから、お互いがその分に忠実にかつ謙虚で奉仕が全うできるよう祈り合いたいと思う。

<祈り>主よ。祭司の職務がどれほどの大きな務めであるかを教えて下さい。立てられている務めに尊敬と感謝を持たせてください。

主題 <あなたに向かう、つぶやく不平をわたしが静めよう>

聖書箇所 民数記 17章     (2012年 7月 5日)

今日のみことば「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」(5)

 人々のモ-セに対するつぶやき、不平不満は、ほかならない神様が聞いておられた。壁に耳あり、障子に目あり、神に耳ありなのである。
 神はこのつぶやく不平を好まれていない。神の民からこうした高慢とつぶやきを無くしてしまいたいのだ。つぶやきや不平は神の民にとって相応しくないからです。つぶやきはその人の価値を低くし、滅ぼしてしまうのです。つぶやきや不平の言葉は人々に伝染するのです。つぶやきは、信仰がないことの証拠でもあります。
 神はイスラエルの12部族の中で神に近く仕えるためにアロンを立てたことを証しなさいます。念を押します。つぶやきを止めさせるために。
 アロンの杖が翌日、芽をふき、つぼみを出し、花を咲かせ、実を結んでいた。短時間に。そう、奇跡によるあかしです。
 人のつぶやきをやめよという命令ではなく、神自身からのあざやかな証明でした。今も立てられた器へのはっきりしたあかしをさせてくださるのは、神です。
 私たちの置かれた立場がどんなに素晴らしいものか、そして忠実に主のわざに励む働き人を認める信仰を持たなければならないかを思う。そうでないと、自分と周囲に大きなわざわいを持ち込むことになるのです。
<祈り>主よ。あなたが備えてくださった素晴らしい奉仕の場所を感謝します。心からつぶやく不満を取り去り、恵みを思う心を与えたまえ。

主題 <恐るべき指導者に対するコラの謀反>

聖書箇所 民数記 16章     (2012年 7月 4日)

今日のみことば「彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」(3)

 ここにもう一つ刻まれたイスラエルの中の恥ずべき罪が記録されている。それは高慢である。
 レビ部族のモ-セに対し、同じ部族のコラを中心にした会衆の上に立つ役員たち、名のある人たち250人が中心となった反逆です。『あなたがた(モ-セたち)は分を越えている。』というのです。
 モ-セは神によるあかしを求め(6~7)、あなたがたの側こそ分を越えているとさとすのです。そして今コラたちが用いられ、それぞれ自分が立てられている立場に不足があるのか、とモーセは迫るのです。
 この高慢はモ-セに対するものではなく、神の逆らっている(11)という。高慢は人間の中で最もひどく、神様も手を焼く悪です。
 何と、彼らは生きながらよみにくだり、地が彼らを包んでしまったのです(33)。恐ろしいさばきは、今も起こりうるのです。
 高ぶりは滅びの前兆です(箴言18:12)。ことに神に立てられた器への逆らう悪は神への反逆であることを心に刻みたい。そしてすべての人はみなは、神によって立てられた親であり、教師であり、子どもです。その神によってつくられている立場を心から尊ぶ者でありたい。

<祈り>主よ、この私をいつも謙遜の限りをもって歩むようにして下さい。あなたのみこころを知りつつ歩ませてください。アーメン

主題 <あやまって罪を犯した者はゆるされる>

聖書箇所 民数記 15章     (2012年 7月 3日)

今日のみことば「祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。」(28)

 14章の大きな反逆の後で、この章に入ると『わたしがあなた方に与えて住まわせる地にあなたがたが入り』(2)と約束の地での生き方が穏やかに語られている。特に、約束の地での罪のゆるしに心がとまるのです。
 あやまって罪を犯した場合について、過失のためのささげものをしたならゆるされる。それは異国人も同様であると規定されている。何という幸い、恵みの教えと命令でしょうか。
 現在の私たちにとっては、過去のためのささげものは主の十字架上の犠牲があり、罪の告白と主への信仰によってことごとく罪はゆるされるのです。ただし、故意の場合は罪を自ら負うことになる。
 もう一つは、神の前に聖い者とされるために、着物にふさをつけることである。(38~41)。それは神の命令を思い出すため、神の聖をふりあおぐためです。私たちは神のご性質に似たものとされてゆくためです。きょうも、みことばに心を注ぎ、暗記し、いつも罪を犯さない道を歩みたい。

<祈り>主よ、罪を犯した私たちのために、救いの恵みを聖書にはっきりと示してくださり心から感謝いたします。

主題 <しるしを見ながら、試みて、従わなかった者>

聖書箇所 民数記 14章     (2012年 7月 2日)

今日のみことば「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たち」(22)

 14章には、本当に悲しい出来事が記されている。出エジプトをさせていただいたのは約束された地、自由と恵みに満ちたカナンの地に行くためです。 長い間、夢のようにあこがれた場所を前にして、民はどうしたことでしょうか。約束の地カナン偵察12人の報告があり、10人が悪く言いふらした事によって、全会衆はその夜泣き明かした。その結果は、エジプトに帰ろうという結論を出した。そればかりでなく信仰に生きて約束を信じて前進しようと語るヨシュアとカレブを石で打ち殺そうと声高に叫ぶのです。神様はこの不信仰の民のゆえに、全会衆を滅ぼそうとされる。
 ここにおけるモ-セのとりなしには本当に驚かされたのです。モ-セを立ててモ-セの子孫から新しい神のみわざを開始しようという神のご計画を耳にして、モ-セは燃えたのです。
  第1に、神様の名誉のため
  第2に、イスラエルの同胞のため
  第3に、罪をゆるしてくださるように切願する。
 神はこの祈りを聞きゆるしてくださった。しかし、強烈な不信仰な民の歩みは、神の審判としての40年の中に彼らの告白どおりに荒野で滅んで行くことになる。口に出した言葉が文字どおり、自分の上にふりかかったのです。
『しるし』それは素晴らしい恩寵であり、一方では不信仰者へのさばきとなることを学ぶのです。
<祈り>主よ、不信仰の民を深く見つめます、しばしば、陥りがちなわがままをおゆるしください。

主題 <その地に住む民は力強く>

聖書箇所 民数記 13章     (2012年 7月 1日)

今日のみことば「その地に住む民は力強く」 (28)

 不信仰には何の得るところもないことを学ぼう。今日は、私たちがしばしば陥りがちになる心の動揺を見つめたいのです。
 イスラエルにとって、出エジプトしたのは、約束の地に入るためです。ただし、そこにはたやすく入れるという錯覚があったのです。この錯覚は、その後の大きな生き方に影響を持つことになる。
ビリー・グラハム先生は、クルセードで決心した人々を招く前に、信仰を持つことによる戦いがあることを先に述べて、招くのを見て感動したことを思います。クリスチャンになることには、必ず困難が伴うことを覚悟の上で神に従うのです。
 約束の地偵察に出かけた12人の優秀な人物は口をそろえて、約束の地は素晴らしいと述べた。その証拠の品物、ぶどうなどに見せたのです。
 しかしその中の10人は、28節のように、<しかし、その地に住む民は力強く、駄目ですといった。彼らは敵の力に圧倒され自分たちはいなごのように思える>と言うのです。
 不信仰の思いは伝染する。悲観的なことに、人はきまって同情し、同調する。14章1節には、民は泣き、極端な悪いことを互いにつぶやきあい、悪いことを想像してゆく姿を描きます。不信仰で通り越す荒野は何の益もない事を知らなければなりません。不信仰によっては、決して神のご計画は成就されないのです。どんなに正当からの人には困難や問題が映ってもです。
<祈り>主よ。あなたは恵みの御手をもって導かれています。不信仰にならず、信仰を持ってあなたの命令を信じる者にしてください。アーメン。

主題<モーセの謙遜さ> 

聖書箇所 民数記 12章     (2012年 6月30日)

今日のみことば「さて、モ-セという人は、地上の誰にも勝って非常に謙遜であった。」(3)
 モ-セは指導的な有力者に非難されたのです。しかもそれは、ミリアムとアロンであった。結婚問題を利用して、モ-セに反抗する口実としたのです。
 彼等は自分の副官としての地位では満足できず、指導者になろうとしたのです。今でも多くの人も同様のことを試みるが、下の地位で忠実でない人は上の地位でも不忠実であり、ふさわしくないのである。
 2節『主はこれを聞かれた』とある。問題を引き起こす者はしばしばすべてを主が聞いておられることを忘れてしまうのです。神は常に臨在し最善の時を見て断乎たる処罰をなさるのを思い起こそう。
モ-セはこの時、何も一言も弁解していない。自分への攻撃を辛抱強く堪え忍んだのです。ただ彼には民を約束の地へ導くこの目的のために、時には神はそのしもべの一人に、霊的利益のため身の潔白を明らかにされるまで長い間、不当の非難の雲で覆われることをよしとされることがあるが、この場合には神は即刻さばきをくだされたのです。
 私たちの中に汚れを温存してはなりません。親しみをもってかくまってはなりません。悪を断然、捨てて、追出す覚悟が必要です。なぜでしょうか。
ツアラート(らい病人)などは伝染するからです。罪は知らず知らずのうちに生涯を台無しにしてしまうからです。また交わりにおいても『悪い交わりはよい習慣を損ないます。』とあります。心しなければなりません。
<祈り>主よ。たかぶる所の罪を告白します。きよい生涯にして下さい。

主題 <苦悩をもって神に訴える時>

聖書箇所 民数記 11章     (2012年 6月29日)

今日のみことば「モ-セは主に申し上げた。『なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。』」(11)  

 人間は何と呟きと不満が多いことでしょう。毎日の生活の中に、喜びと感謝を感じる時に比べて、何倍も不平の方が多いものです。このような人間を何十万人も連れた旅ですから、指導者モ-セの苦悩も想像を越えたものでした。
 タブエラにおける不平、呟きによるさばき(1~3)、キブロテハタアワの欲心の権化のような叫び(4~)です。
 ついには、祈り以外にモ-セの心を静めるものは無くなってしまいました。モ-セは赤心をもって、自分のうめきの中で苦悩をもって神に訴えます。「自分でとても負いきれません。私を殺してくれ」と切々と祈るのです(11~15)。なんという自殺行為のような祈りでしょうか。
 16節~20節に主の答えがある。一つは、重荷を七十人に負わせること、二つは、主が奇跡を行うと言われる。
 21~22節のモ-セの張り詰めた緊張に対し、23節の主の答えは『主の手は短いのであろうか。わたしのことばが実現するかどうか今、わかる』と。
 神は、私たちをどこまでも愛し、導かれ、心の奥底から信じられるようにされる。あらゆる状況下に摂理の御手を置かれている。

<祈り>主よ。こんな罪人に救いを与えて、あなたの民のために大きな奉仕の場に用いてくださることを感謝します。感謝しつつさせて行わせて下さい。