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2012年5月22日 (火)

主題<これを純金でかぶせ> 

聖書箇所 出エジプト記 37章  (2012年 5月19日)

今日のみことば「そして、上面と回りの側面と角を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。」(26)

 契約の箱や燭台、香りの壇などを作成する。その方法が詳述されている。契約の箱は、モ-セによって与えられた十戒とマナを壺の中に納めるのです。
 アカシヤは材質に優れた木材であり、美しく強固である。ただ、このアカシヤの木はどれほど優秀であったとしても、美しく、堅固であっても、さらにこの上に純金をおおうのです。
 『純』は交じり気のない、本物の、不変の、高価な、などの意味もあろう。本章は純金と純粋な香りの高いかおりの二つが記されている。
 純粋な金でアカシヤが覆われた時、見られるのは金である。
キリスト者の生涯もまた、きよい神様を内に宿す存在である。その生涯はキリストの救いのみわざによっておおわれて贖われたのです。生来の私たちはどれほど優秀であろうが、そのままで主のお役に立つことはできない。優れているほどその人の栄光になってしまうだろう。
 反対にどれほど劣っていようがキリストの純金の恵みによっておおわれたなら、そこにはキリストの栄光が見られるのです。
今日一日がキリストの恵みに包まれた歩みにしよう。
<祈り>主よ、今日一日があなたの恵みによって与えられ、あなたの恵みだけを輝かす日でありますように。アーメン

主題 <あり余る奉仕>

聖書箇所 出エジプト記 36章  (2012年 5月18日)

今日のみことば「モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」」(5)  

 神の幕屋を造る奉仕に、人も献げ物も十二分に備えられた。1~7節にはそうした心から進んでささげる人と物が満ちたとある。それを『有り余る奉仕』と表現している。後半はその有り余る奉仕によって次々と完成してゆく様子が記されている。
 エジプトで奴隷であった貧弱な民が、何もない荒野で喜々として奉仕に励んでいる姿に感動しない人はいない。力を残し、持ち物を残し、宝石を残していこうとする思いはなかった。なしうる限りを尽くした奉仕であり、ささげ物であった。ちょうど主の十字架直前に三百デナリもの香油のつぼを割った婦人のように、この荒野全体が愛の、信仰の、めぐみのわざですばらしい香りを放ったことであろう。成しうる限りの奉仕が、あり余る奉仕へとつながるのです。
 人の豊かさは持ち物によらないのです。力の限りの奉仕の喜びを知ったものが、あり余る恵みにあずかるのです。カナの婚礼で水を汲んだしもべは知っていたのです(ヨハネの福音書2章)。多く与えるものは多くの祝福を味わえる。
 あり余る奉仕に私たちも関わらせていただこう。なぜなら、聖なる幕屋を造り、聖なる祭壇を造り、なすすべては神の栄光のためなのですから。
 一日、主からの豊かな恵みへの応答とさせていただこう。
<祈り>主よ。あなたのための奉仕に集中させてください。ア-メン。  

主題 <感動した者、心から進んでする者> 

聖書箇所 出エジプト記 35章  (2012年 5月17日)

今日のみことば「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」(21)

 いよいよ神の山で啓示されたとおりの神の幕屋を造る仕事に取りかかります。聖なる神の臨在してくださる場が幕屋です。この神の幕屋はテントによって形造られるのです。雨や風もある荒野でテントの幕屋はイスラエルを導くのです。 荒野で持ち合わせのわずかな金銀宝石を集め、またテントを織る営み、いろいろの器具を作成する努力が傾けられる。住みつく地でない荒野、何もない所で懸命な共同作業です。
彼らを支えた力は何だったのでしょうか。主の御霊によって感動した人々だったのです。彼らは偉大な神、天と地を創造した神を信じる誇りがありました。この偉大な神が荒野を旅するイスラエル、小さな民族であり無力なイスラエルを愛されたのです。
 聖霊はイスラエルの心を揺さぶり、奮い立たせたのです。この章には心から進んでささげる人の姿がいろいろの所で輝いていることに気付かされる。喜んで、感謝して、溢れる信仰の力が幕屋を造り上げていく。今日、神は神の人を探し求めている。それは男や女という区別もなく、老人も若者も区別はない。ただその心が神の恵みに感動した人々によって神の国は前進していることをしっかりと知ろう。今日、心を主に明け渡して聖霊の力に満たされよう。そして新しい決意をもって踏み出そう。
<祈り>
聖霊に満たされた恵みに満ちた信者にして下さい。アーメン。

主題 <モーセの顔のはだは光を放った>

聖書箇所 出エジプト記 34章  (2012年 5月16日)

今日のみことば「アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。」(30)

 モ-セは再び四十日間、神の山に登り、神と顔と顔とを合わせるようにしてみ声を聞いたのです。この時示された啓示は今後のイスラエルの生活の基本線を形造っていくのである。石の板二枚に今度はモ-セが刻んだのです。
 神ご自身のご性格が6~7節に啓示されている。豊かなあわれみの神は、罪をゆるす方であって、恵みを千代まで及ぼし、罪については3、4代にまでとある。神を知る、と言うことは神に似た者とされてゆくことをすでに学んでいる。神はあわれみによってイスラエルとも異邦人とも関係を持たれるが、このあわれみを知った者だけが他者にあわれみで接することができる。
愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。愛の人にさせてくださいと切に祈った瞬間こそ神が分かったときなのです。モ-セは親しく神と交わりました。それで下山して人々にメッセ-ジを語ったとき人々はその肌から出る光のため恐れ、近付けなかったという。何というすばらしい恵みの体験であったろう。神とともに過ごす時間が多ければ多いほど、人は神に似てくるのです。その顔は変わってきます。
恵みと栄光を反映させつつ歩む一日でありたい。Ⅱコリント人への手紙3;16-18
<祈り>
神様、あなたとの交わりの深みへと導いてください。アーメン。

主題 <わたし自身がいっしょに>

聖書箇所 出エジプト記 33章  (2012年 5月15日)

今日のみことば「すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」」(14)

 モ-セは「神のみこころにかなっていた。」と何度か語られている。神もおっしゃっている(17節)が、モ-セ自身の口からも3回発言している。何という大胆さでありましょうか。神のみこころにかなっているという確信が、神と顔を合わせて語り合い、神様が自分で一緒に歩んでくださいと頼み込んでゆかせるのです。人間モ-セではありますが、神の人モ-セでもあります。
では私たちはどうなのでしょう。2コリント6章16~18節に『私は彼等のうちに住み、また歩む。私は彼らの神となる』といわれている。ここで一つの条件があって、聖き者であることが求められている。
 聖さとは主イエスキリスト(1コリント1章30節)が私たちにとって知恵となり、義と聖と贖いになられている。この主を信じ受け入れる時に、みこころにかなうものとなる。信じる者こそ他の人々と区別された歩みをする秘訣である。
 信じる者にはあらゆる祝福が伴う。19節には『わたし自身、私のあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。私は恵もうするものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。』と仰せられた。
 何の功績も無い者が信仰のみによって神に受け入れられ、愛され、恵まれるのです。さらに神ご自身が一緒に行って安息を与えてくださるという(14節)。神のしてくださった恵みを信じることが生涯を分けてゆくのです。
<祈り>主よ。きょう、私と一緒に歩んでください。アーメン

主題 <アロンがほっておいたので>

聖書箇所 出エジプト記 32章  (2012年 5月14日)

今日のみことば「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。」(25)

 イスラエルにとってきわめて大きなとりとり返しのきかぬ失敗をしてしまう。神の山に上って四十日、帰らぬモ-セのことよりも、彼等にとって目に見える偶像の方が良かったのです。長年エジプトの偶像に慣れて育ってきたイスラエルにとってこの時は危機でした。
 神は霊であって、神を礼拝する者も霊とまことによって礼拝せよ(ヨハネ4章)といわれているが、目に見えて、触れることのできる、偶像を求めていく弱さは、昔も今も同じように私たちをむしばむのです。
 アロンはモ-セのいない留守中の霊的指導をするべきところ、「放っておいたので」(25節)民は乱れ、敵の物笑いとなってしまったのです。
 霊的緊張はキリスト者にとってきわめて大事なので、週ごとに神に近づき主の礼拝をささげるように召されています。
 霊的な高嶺を目指しているキリスト者にとって、絶えざる向上心と霊的な渇き、熱心な祈りを怠るときに、古き時代の生き方がよみがえってくる危険性がある。霊性は上に向かわぬ限り、停滞し、バックスライドしてしまう。自分と家族のための霊性のために忠実な信仰生活を打ち込んでいこう。

<祈り>緊張を失って大きな失敗し、霊的損失を招くことのないように。

主題 <主の任命してくださった奉仕を>

聖書箇所 出エジプト記 31章  (2012年 5月13日)

今日のみことば「見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。」 (6)
 前半はベツアルエルによって祭壇にかかわる聖なる器具を作らせている。第1に神様は彼を名指しで召して、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。神様自ら、特定の人を選び分けて用いてくださる。第2に『彼は、きわめて熱心な人であったと思われる。巧みに設計し、彫刻し、仕事をするのです。第3に神のみこころに心を明け渡し、従順な信仰者であった。能力のある人は、自分の好みの祭壇を作る誘惑にかられる。しかし、心の底から神様を第一にしたことがわかる。今日も一日神様の希望している祝福の歩みを、自分好みではない、主好みの一日とさせていただこう。
 後半は安息日を守ることを徹底させている。安息日は十戒の一つ、十分の一の教えではない。ここに安息日の幾つかの大事な啓示が明らかにされる。 第1は神と人とのしるしとなるという。第2は神様が人を聖別する主であることを知る。第3は人にとって安息日は聖なるものである。
 神様が六日間の創造の後に安息されたように、人間をして神様の安息の中に招き入れてくださろうという。何もこの安息日をわざわざ他のことに用いて魂を痩せさせることもあるまい。思い切って安息日の中に飛び込んで見よう。神様が幸いの保証人です。
<祈り>主よ。自分の好みではなく主のみこころに従わせてください。安息日を喜んで徹底的に守り、神の民であることを証しさせてください。

主題<かおりの高い香をたく>

聖書箇所 出エジプト記 30章  (2012年 5月12日)

今日のみことば「アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。」(7)
 香りのための壇を作り、贖罪をするしかたが述べられている。いくつか気付く点を上げて見よう。『朝ごとにともし火を整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。』とある(7節)。香りが神への祈りであるとすれば、朝ごとにささげられる祈りこそ『主の前の常供の香りのささげ物』(8節)としなくてはならない。しかも神様が祈りを求められているのです。いやそれ以前に人間の側がもっと祈りの必要を、祈ることの祝福を知らねばいけない。神さまとの交わりの時間を聖別しよう。
 15節には、『あなたがた自身をあがなうために、主の奉納物を納めるとき、富んだ者も半シケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。』と教えている。各自の罪のあがないのためには等しいあがないの銀を納める。そこに富める者と貧しい者の差別がない。ロ-マ書3章にはすべての人が罪を犯し、義とされる点でも何の差別も設けられていない。
 32節には『この割合で、これと似たものを作ってはならない。』とあり、聖別することにおいて人が似たような注ぎの油を作ってはならない。
 後に、聖なる火をたくべきところに異火をたき、神に裁かれた人物がいた。人間が聖なる神様へのささげものもまた、疑似宗教に陥ってはならない。多くの異端への戒めである。
<祈り>主よ。常に山の上で示されたかたちに従ってモ-セが形作りましたように、自己満足のためではなく、あなたのみこころにいきるようにささせてください。アーメン

主題 <その所でわたしはあなたに会う>

聖書箇所 出エジプト記 29章  (2012年 5月11日)

今日のみことば「その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」(43)  

 イスラエル人が暗黒の地エジプトから救い出された目的は、神様が彼らに会い、共に住み込まれて栄光を現すためである。42~46節を繰り返して読んでみたい。
 最も小さな民族イスラエルを選んでくださったのは、彼らの祭壇の上で捧げる供え物を見て、その所で会い、語るためだといわれた。その所こそ、主の栄光により聖とされるのです(43節)。
 その所、神との出会いの場を、主はいつも備えています。そこで私たちの側でなすべき責任は何であろうか。
 第1に、み言葉に示されたことに心から従いきることであり、
 第2は、自分を全焼のいけにえとして捧げるように明け渡すことである。 第3に、神が私の神となってくださっていることを徹底的に信頼し尽くすことである。
デボ-ションの時こそ、その所なのである。
 きょうが神さまと出会い、主のこえを聞き、主の恵みと栄光に触れて、満たされる瞬間であり、時間であり、一日である。
 あらゆる時と場所、そこを神様との出会いの場所として形作ることを私のきょうの第一の努めとさせていただこう。
<祈り>主よ。あなたとの出会いのみを求める祈りに集中します。ア-メン。

主題 <栄光と美を表す聖なる装束>

聖書箇所 出エジプト記 28章  (2012年 5月10日)

今日のみことば「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。」(2)

 神はモ-セと兄とその子たちを祭司として仕えさせよと命じられた。
この祭司は神さまに対して人々の必要とすることを祈り、人々に対して神からの恵みのメッセ-ジを取り次ぐのである。
 12節を読むとき、12部族の名を主の前に携えて、執り成しをするのがわかる。それぞれの置かれている恵みの責任をはたせるためにです。
 主は『わたしのために祭司の努めをさせる。』と(1、3、4節)繰り返されている。祭司は人々に神を示す重大な職務があたえられている。
 そのために、神ご自身の栄光と美を表す聖なる装束を作らせたのです(2節)。そのように、私たちの信仰生活は、神の恵みを証しするという重大なつとめに私たち一人一人は召されている。
 ただし宗教のつとめにどうしても必要なのは生命であって、形式はその生命を盛る器である。神の栄光と神の美を表す服装を、知恵の霊に満たされた人が形づくるのである。外側の行動という服装と内側における栄光と美を豊かにマッチさせる日々でありたい。
<祈り>主よ。常にあなたの恵みを日々に受けつつ、あなたをあかしすることのの最高の信仰生活をきょうも歩ゆませてください。アーメン。