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2011年11月 3日 (木)

主題 <福音の土台の上に> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 3章(2011年10月11日)

今日のみことば「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」(10)

信仰生活への大きな問いかけがなされております。パウロは、神から与えられた霊的な賜物をもって教会を建て上げ、コリント伝道も励んできました。しかし、その重要な福音による土台の上に立て上げるのは各自の責任であると言っています。
信仰者になったので、自動的に優れたクリスチャンになるのではありません。コリント教会のように、霊的な問題を抱えた教会もあるのです。ことにここでは、派閥が生まれていたことを取り上げております。自分のグループを集めたり、派閥というのは、聖書的な姿ではありません。いや神が嫌われるやり方である。自分の方に仲間を引き込み、自分が得意になっている。こうした人は、自己の目的を果たそうとする自己中心的な信仰生活であって、救われる以前のただの人のようだと言います。
教会生活によって培われる霊的な安息や柔和、愛や喜びは、心を主に明け渡し、神の御霊によって実現されるのです。知者になりたいと思ったなら、愚者になりきれと言う。
私たちは、神の神殿であり、神が喜んで住まう場所を日々に整えることができるのです。やがて各自の歩みははっきりとされてゆきます。その歩みが火によって試されるのです。火とは最終的には神の前に立ち、最終的な審判を受けるのです。地上では試練の中で持っているものが何であるかを吟味されるのです。

主題 <神を知ること> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 2章(2011年10月10日)

今日のみことば「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」(9)

この世が人間的な知恵や知識で神を知ることができないとパウロは力説する。なぜなら、人間は罪人だから、自己を絶対としやすい。そして神の真理を受け入れられない。神はひとり子を与えて、人間の苦悩の原因である罪を処罰されました。この神の側からもたらされた救いである十字架の愛を、完全な救いを拒否する。
 神は今日の聖句にあるように、神が備えてくださったものが、どのように素晴らしいものであるかをはっきりと刻むことができます。暗唱して、永久保存版にいいのではないでしょうか。
 ずいぶん以前でしたが、この聖句を台湾宣教師の寺田先生に差し上げたことがありました。まもなく、台湾伝道に必要とされていた自動車を不思議なように備えられたと手紙をいただきました。
 私たちの信仰さえ,神からの支えによる力であると記されている(4)。この神による豊かな救いの冨を知ることができるのは信じる者のみです。信じるとは、「神を愛する者」のことです。神を愛し、神に信頼して歩む者には、<目が見る>びっくりする事柄を超えている。<耳が聞く>さらに大きな出来事です。<心に思い浮かぶこと>は想像を超えているのです。
 神を愛する者、神のなさる恵みとはそのように偉大なものだったのです。

主題 <キリストは神の力、神の知恵>

聖書箇所 コリント人への手紙第一 1章(2011年10月 9日)

今日のみことば「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(24)

 コリントはアテネと並んで当時のギリシャの中心でした。パウロがエペソで牧会している間にコリント教会のことを心配して書いたのです。教会は、どこでも、いつも成長途上にあります。はじめてパウロが開拓伝道をし、大きな教会となりましたが、この教会が整えられたキリスト教会となるために多くの問題が克服される必要があったのです。私たちは、時折、教会のことを思うときに、今現在の状況を憂いたり、不満を持ちやすいですが、教会の主はキリストであることを覚えましょう。
 この教会には、分派や近親相姦、信者間の訴訟、結婚、偶像に関する考え方、霊の賜物の問題、貧しい人々への援助、復活信仰を否定する者たちがいたのです。
 こうした問題は、現代の教会にも起こりうることですから、遠い国の昔の出来事ではないのです。こうした問題の中で使徒パウロは、絶えず祈りとみことばによって訓戒し、導き続けたのです。
 いつの時代も自分の知恵をほこり、支配したがる存在がいます。しかし、ほんとうに目を留めなくてはならないのは、どんな人物でも、ユダヤ人の5000年の知恵でも、ギリシャの哲学の知識でもありません。キリストこそ、召された者にとっての神の力であり、神の知恵なのです。
 「神はこの世の知恵を愚かにされた」(20)と言われている。それはこの世の知恵では神を知ることができないからです。神とその力を知ることなくして一切は無益となるのです。どれほど人々を感心させ、動機づけ、成功したように見えて、神の世界では盲目なのです。
神の世界の中心は、十字架です。この十字架のことばは救われる私たちの力です。罪のゆるしと神の御国に生きることは、だれも誇らせないのです(26-31)。

主題 <豊かな交わり>

聖書箇所 ローマ人への手紙 16章(2011年10月 8日)

今日のみことば「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。」(16)

 パウロは最後に、ローマ教会の信徒たちのことを覚えてあいさつを送っている。
最初にフィベについて紹介し推薦している。この人はコリントの近くのケンクレヤという港町にある教会の女性執事で、この手紙をフィベに託してローマ教会に届ける役目をまかせたと思われる。フィベはパウロを良く助けてくれたことが紹介されている。
プリスカとアクラ(3)についてあいさつを送っている。彼らはパウロを助け、伝道者アポロを助け、多くの人々に仕えていた人でした(使徒18:24-27参照)。
アンドロニコとユニアス(7)はパウロと共に投獄された経験を持つ人として紹介されている。また、ペルシス(12)も非常に労苦した人として紹介されている。このようにパウロのみならず主の福音宣教に参与し、困難の中を歩んで人々が他にもいたことが分かる。
このあいさつを贈る人々について、パウロは33人以上の人の名前をあげて、その他、具体的な名前はあがってきてはいないが、名前をあげてあいさつを送った人々と共にいる兄弟姉妹をも覚えて挨拶をおくっています。これだけの人々のことをパウロは知っていたということは、まだ一度も訪ねていなかったローマ教会の信徒のことを覚えて祈り、人々の消息を連絡し合い交わりが持たれていたということは実に驚かされます。今日、通信網も発達した時代に生きている私たちは、これほど多くの人々の名前をあげて覚えていくという豊かな交わりをしているだろうかと考えさせられます。
最後に、パウロはこの豊かな交わりが築き上げられていることに対し分裂をもたらそうとする人に注意するように言われました(17)。分裂をもたらす人について、主イエスに仕えるということではなく、自分の欲に仕えている(18)と言われている。交わりは主イエスにあってのものであることを改めて覚えたいと思います。

主題 <福音宣教のビジョン> 

聖書箇所 ローマ人への手紙15章 (2011年10月 7日)

今日のみことば「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(16)

12章からキリスト者としての実践について具体的に教えてきたが、この15章はそのまとめのような章である。
1~3節は、人の弱さを担うことの重要性について、それはキリストご自身にも見られたことであったと教えられています。キリストは、自分を喜ばせることを求めないで、人々の罪や弱さを担ってくださった方であることを確認したい。5~7節では、キリストにふさわしく同じ思いを持つように教えられています。さまざまな違いを理解し、受け入れ合い、共に一致していくことが重要であることを確認しました。パウロは以上のことをまとめにように確認して、なお一層聖霊の力によって前進していくことを願っていました(13)。
 15章後半は、これまでのパウロ自身の福音宣教の旅を振り返り、これまでの働きに主に任じられて労してきたことに誇りをもって行ってきたことに触れ(17)、さらにはこれからのビジョンをローマ教会の信徒たちと分かち合うように書き送っています。
 16節に「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とパウロは語り、まさにパウロの働きは異邦人の救いのために労し続けてきたことが分かります。このようなスピリットに燃えて働いてきたパウロによって、多くの教会が建て上げられてきました。私たちの福音伝道教団の教会が建て上げられてくるに至る最初の宣教師バーネット師もこの聖書のみことばに導かれて日本へと来られたと聞いています。主の福音宣教の召しに応えて労して下さったバーネット師の働きに改めて感謝したいと思います。
 この福音宣教のバトンを今度は私たちが受け継ぎ、この地に福音を伝えていく者とならせて頂きたいと思います。

主題 <互いの霊的成長を求めて>

聖書箇所 ローマ人への手紙 14章(2011年10月 6日)

今日のみことば「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(19)
1節に「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。」とパウロは言われました。教会に集う人々にはさまざまな背景をもった人々が集います。特に、弱さを持つ人に配慮していくように勧められました。当時のローマ教会には、社会的弱者の人も弱い人ととして指していたと思われるが、それだけでなく、当時の世界の中心地ローマと言うことで、さまざまな人種、文化、価値観を持った人々がいて、さまざまな考え方の人々が教会に導かれていくという中で、信仰的にまだ未成熟の人がおり、そのような人を指して弱い人と言っていたと考えられます。
ローマ教会の信徒の中に、食べ物のことや特定の日を守ることなど、まだ律法を重んじる人々など様々人々がいた(2、5)。そのような人々を見て、さばく人々もいた(3~4)。このような状況に対して、パウロは安易にさばくことをしないように勧め(1)、互いに受け入れあうように勧めました。パウロは、それぞれの人々がキリストにあって導かれてきた人であり、だれもが神にさばかれるという点においては同じものであることを知らなくてはならないことを示されました(10)。
私たちもこれまでの教会の歴史、そこで行われてきたことなで、一つ一つは大切なことですが、意外とそのことが人を遠ざける、排他的な価値観となってしまい、受け入れ合うということを忘れさせてしまっていないかと思わされることがあります。自分の設けた基準で人との交わりを規定し、場合によっては人をさばくこととなってしまうならば悲しいことと思いませんか。
むしろ、さまざまな個性を持った人々が共に集うようになっているということは奇跡的なことであり、神様はそのような出会いを備えて下さり、神の家族とされようとしてくださっていることを覚えるならば、これほどすばらしいことはないとも思うのです。
何を食べるか、飲むかと言う議論ではなく、「平和に役立つこと」と「お互いの霊的成長に役立つこと」を追い求めていくことが大切であることを教えられました。私たちの教会における交わりも違いをさばくのではなく、そのような違いをも含めて導かれてきた一人一人を受け入れあい仕え合うことによって生きるキリスト者として歩んでいけるように祈りましょう。

主題 <世の終わりを意識して生きる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 13章(2011年10月 5日)

今日のみことば「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 (14)

 13章では、パウロはこの世に対して注意すべきことを勧めました。
 1~7節では、この地上における権威に対して従うべきことを勧められました。パウロがこの地上における権威に従うべきであると勧められたその前提として、この地上のすべてを造られたのは神によって創造されたのだから、地上に存在する権威は神によって立てられたと考えていたことが伺えます。そして、為政者に従うのは恐れからではなく(3)、神のみこころに基づいた良心のためにも従うべきであることを教えられました(5)。
 8~10節では、互いに愛し合うことを勧められました。キリスト者は社会的義務を果たすのみならず、互いに愛し合うことをもってこの世に証しし生きていくべきであることを教えられました。
 11~14節では、終末の時代に生きているという自覚を促されています。パウロは、「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」(12)と言い、さらには、「主イエス・キリストを着なさい。」と勧められました。キリストの再臨が近づきつつあることを意識し、その時に備えて、キリスト者は目覚めた行動をしていくこと、それは闇の生活とも言うべき、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」から離れ、昼間らしい生き方という正しい行いの実践をしていくようにと勧められました。
 私たちは、パウロの言うような世界観、価値観を持って生きているだろうかと改めて問い直していきたいと思います。そして、終末の時代に生きているという意識を新たにさせて頂き、この世に証しの伴った愛の実践をしていく生き方に変えて頂けるように祈りましょう。「主イエス・キリストを着なさい」とのこの勧めのみことばにふさわしく生きる者とされるように祈りましょう。

主題 <主にささげ、主の愛に教えられ生きる> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 12章(2011年10月 4日)

今日のみことば「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(1)

 12章以降は、パウロが救われた者がどのように生きていくべきか、具体的な勧めがなされている。
 1~8節では、キリスト者がすべてをささげて生きていくべきことを教えられました。キリストを信じ罪赦されたた者は、この世と調子を合わせることなく(2)、すべてを主にささげて生きていくことがキリスト者としてふさわしい生き方であることが勧められている。また、キリスト者一人一人に恵みによって与えられた賜物を用いて互いに仕え合うことが勧められている(6~8)。
 9~16節には、キリスト者同士の交わりについて教えられている。パウロは「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」(10)と言い、どのような場合でも互いの交わりにおいて愛をもって仕え合うことを勧めました。
 17~21節では、キリスト者以外の人々に対する交わりの在り方について教えられている。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(17)、「すべての人と平和を保ちなさい」(18)と勧めているが、当時、キリスト者に対する迫害が少なくなかったと思われるが、たとえ悪で向かってきても、悪で返すのではなく、善をもって、むしろ仕えていくことこそが、キリストにあって新しくされた者としての生き方であることを教えられました。
 これらのパウロの教えられたキリスト者としてふさわしい生き方としての実践の数々は、よくよく考えてみると主イエスのうちに見られたものであったことを思い起こされます。そして、その一つ一つの実践は愛なくして実践できないことであることを改めて示されるのではないでしょうか。
 私たちは、具体的に教えられているこれらのことを実践していくためにも、キリストの模範にならい、キリストの愛の故に赦され救われた者であることを感謝し、その愛に満たされている中で、互いに愛する、仕え合うことができるように祈っていきたいと思います。

主題 <あなたの上にあるのは、神のいつくしみです> 

聖書箇所 ローマ人への手紙 11章(2011年10月 3日)

今日のみことば「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」(22)

 1節「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。」との問いに、「絶対にそんなことはありません。」と言い、パウロ自身もかつて、イエスを信じる者たちを迫害し、多くの罪を重ねてきた自分が、神のあわれみの故に救われたのだから、イスラエルの民も神の御救いから退けられてはいなと語り、救いの希望を示されました(1~6)。
 パウロは同胞イスラエルの民が救われる希望について、2つのことを例に説明しました。一つは、16節に言われている「初物」を神にささげることによって、粉の全部がきよいとされたことをあげ(民数記15:17~21参照)、この場合の「初物」とはアブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先人たちをさし、「粉の全部」とはその子孫であるイスラエルの民をさして言われたことでした。もう一つは、野生種のオリーブが接ぎ木されることをあげて、イエスを拒否したイスラエルの民はおられた枝にたとえられ、イエスを信じて救われた異邦人は根に接ぎ木された野生種のオリーブの木にたとえられており、つまりは不信仰によって折られてしまった枝のようなイスラエルの民は、オリーブの木が接ぎ木されることによって、再び根から栄養を得るように、異邦人が救われることによって、イスラエルの民も神の救いにあずかる余地が備えられたということを意味していました。
 これらのイスラエルの民に対する希望を語った後、パウロは異邦人キリスト者であるローマ教会の信徒に対して、「高ぶらないで、恐れなさい」(20)と勧めました。イスラエルの民も、異邦人の民も、どちらも今は信仰によって恵みにより救われたということを改めて確認するように勧めました。どちらの民でもなく、比較して優位性によって救われているのでもなく、ただ、神のあわれみによること、そのあわれみの中にとどまっていることが救いの確証であることを教えられたのでした。私たちも主のあわれみの中にへりくだって主を恐れる者として歩みましょう。

主題 <主の御名を呼び求める者>

聖書箇所 ローマ人への手紙 10章(2011年10月 2日)

今日のみことば「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」」(10)

 パウロは「律法による義を行う人は、その義によって生きる」(5)とあるが、しかし、律法を完全に守り行うことによって救いを得ることはだれにもできないことをこれまで語ってきました。そして、「キリストが律法を終わらせられた。」(4)と語り、律法を守り行うことによって救いを得ようとしたイスラエルの民に対して、キリストは律法を行うということによる救いを得ようとすることに終止符をもたらされたと言いました。律法と変わって、主イエスを信じる信仰によって義と認められるようになったこと(4)、これこそ救いの道であり、大きな恵みであることを語りました。
 今や示されたキリストの福音を「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10)とあるように、信じて、キリストを救い主と告白する信仰だけでよいという恵みの時代に生かされていることを改めて感謝したいと思います。
 パウロは異邦人宣教に派遣され各地に主の教会が設立していくのを見ていきますが、その一方で同胞イスラエルの救いのためにとりなしていました。律法を知らない異邦人たちが救われていったことを通して、律法に代わりキリストの福音を信じる信仰こそが神の救いにあずかる唯一の道であることを明らかにされていることを説得するように語ったのでした。
さらに、14~15節において、パウロは、キリストの福音を信じ、主の御名をほめたたえるように至る4つの段階について語りました。それは、福音を信じるようになるためには、まず、福音のために派遣されること、つぎに、福音を伝えること、次に、福音を聞くこと、最後に福音を信じることを示されました。
 パウロはキリストの福音を信じるために、派遣、伝道の重要性を語っています。そして、今日もこのキリストの福音のために遣わされる人の必要があることを覚えます。しかし、この日本だけを考えてみても、福音を伝えるために派遣されていく人が十分に備わっているとわ言えない状況が続いています。だから、福音を伝えていく人々が起こされ、多くの人がまた福音の届いていない地に派遣されていくようになることを切に祈っていきたいと思います。